農業における「耕起(こうき)」とは、作物の播種や植え付けの前に、田畑の土壌を掘り返し、反転させ、砕土(さいど)して整える一連の作業を指します。単に「耕す」という言葉で片付けられがちですが、その背後には物理的、化学的、そして生物学的な目的が複雑に絡み合っています。
最も基本的な目的は、土壌の物理性の改善です。未耕起の土壌は、降雨や自重によって締め固められており、固相(土の粒子)が密接して気相(空気)や液相(水)の隙間が少なくなっています。耕起を行うことで、この固く締まった土壌を物理的に破砕し、隙間(孔隙)を作り出します。これにより、作物の根が伸長しやすい柔らかい土壌環境(作土層)が形成されます。根は植物体を支えるだけでなく、水や養分を吸収する重要な器官ですが、硬い土壌中ではその成長が著しく阻害されます。耕起によって作られた膨軟な土壌は、初期生育における根の活着を助け、スムーズな養分吸収を可能にします。
さらに、有機物の分解促進も重要な目的の一つです。前作の残渣(稲わらや野菜の茎葉)や散布した堆肥を土壌中にすき込むことで、土壌微生物との接触面積を増やし、分解を早めます。これは「無機化」と呼ばれるプロセスで、有機態の窒素などが植物が利用できる無機態の形に変わることを意味します。特に春先の耕起は、地温の上昇を促す効果もあり、微生物の活性を高めるスイッチの役割を果たします。これを「乾土効果(かんどこうか)」と呼び、乾燥した土が水を含むことで急激に有機物分解が進み、窒素が放出される現象を人為的に引き起こすことができます。
しかし、耕起には明確なデメリットも存在します。その最たるものが「耕盤層(こうばんそう)」の形成です。トラクターなどの重量のある機械が何度も同じ深さを走行し、ロータリーの爪が一定の深さで土を練り上げることによって、作土層の直下に非常に硬い土の層ができてしまいます。
また、過度な耕起は土壌の「団粒構造」を破壊するリスクがあります。団粒構造とは、土の粒子が大小様々な塊として結合した状態のことで、通気性と保水性を両立させる理想的な土の状態です。頻繁にロータリーで土を細かく砕きすぎると、この構造が物理的に粉砕され、単粒化してしまいます。単粒化した土は、雨に打たれると泥状になって表面を被覆(クラスト形成)し、乾燥するとコンクリートのように固まって発芽を阻害してしまいます。
さらに、埋土種子(まいどしゅし)の問題もあります。土壌深くで休眠していた雑草の種子が、反転耕起によって地表近くに持ち上げられ、光や酸素に触れることで一斉に発芽してしまうことがあります。「耕せば耕すほど草が生える」という現象は、この埋土種子の覚醒によるものです。
土壌物理性の改善や肥料の攪拌といったメリットは強力ですが、それは「適度な」耕起においてのみ成立します。現代農業では、これらのデメリットを回避するために、耕起の回数を減らす「省耕起」や、全く耕さない「不耕起栽培」といった選択肢も注目されています。
参考リンクについて:以下のリンクでは、耕起作業が水稲の根張りに与える影響や、耕深の重要性について、実際の農作業の視点から詳しく解説されています。
耕起〜田んぼの準備〜(お米づくりについて) | ツナギのお米マガジン
耕起作業には、使用する作業機(アタッチメント)によって大きく分けて「ロータリー耕」と「プラウ耕」の2つの種類があり、それぞれ土壌に対する作用や目的が異なります。これらを適切に使い分ける、あるいは組み合わせることが、理想的な土作りへの近道です。
ロータリー耕の特徴と方法
日本の農業で最も一般的に普及しているのがロータリー耕です。トラクターの後部に取り付けた爪(耕運爪)を高速で回転させ、土を細かく砕きながら攪拌します。
プラウ耕の特徴と方法
プラウ(鋤)を用いた耕起は、土を切り出し、反転させて横に放り投げるような動きをします。欧米の大規模農業で主流ですが、日本でもその効果が見直されています。
その他の耕起方法(心土破砕など)
これら以外にも、サブソイラー(心土破砕機)を用いた耕起方法があります。これは土を反転させたり砕いたりせず、ナイフのような爪を地中深くまで(40cm以上)入れて引くことで、耕盤層に亀裂を入れる作業です。
これにより、土壌構造を大きく乱すことなく排水性と通気性だけを改善することができます。特に果樹園や、連作で排水性が悪化した圃場において、根圏をリフレッシュするために行われます。
近年では、プラウで荒く起こした後に、パワーハローなどで砕土・整地を行う「体系的な耕起」が推奨されています。ロータリー耕のみを長年続けると、どうしても作土層が浅くなり、地力が低下しがちです。3〜4年に一度はプラウによる深耕や反転耕起を取り入れることで、土壌環境をリセットし、作物の生育ポテンシャルを引き出すことが可能になります。
参考リンクについて:以下のリンクでは、プラウ耕とロータリー耕の具体的な使い分け方や、それぞれのメリット・デメリットが詳細に比較解説されています。
プラウ耕とロータリー耕の使い分けについて解説します | ハンズクラフト
耕起の効果を最大化するためには、「いつ」「どのくらいの深さで」「何回」行うかが極めて重要です。これらは作物の種類、地域の気候、そして土壌の状態(水分量など)によって最適解が変わりますが、基本となるセオリーが存在します。
適切な時期:水分条件が鍵
耕起を行う時期において、最も重視すべきはカレンダー上の日付よりも「土壌水分」です。
一般的に、水稲栽培では「秋耕(あきこう)」と「春耕(しゅんこう)」が行われます。
秋耕の主な目的は、稲わらの分解促進です。収穫後、地温が下がりきる前に耕起を行い、土と稲わらを混ぜることで微生物による分解を進めます。
春耕は、乾土効果による窒素発現と、代かき前の砕土が目的です。
適切な深さ:作物の根域を確保する
耕起の深さは、作物の根が活動できる「有効土層」の深さを決定します。
ただし、いきなり深く耕しすぎるのも危険です。長年耕していなかった下層土(心土)は、有機物が少なく痩せていることが多いため、これを大量に表層に持ち上げると、初期生育が悪くなることがあります。これを「生土(せいど)が出る」と言い、深耕を行う場合は数年かけて徐々に深くしていくか、十分な堆肥投入とセットで行う必要があります。
耕起の回数:少なければ少ないほど良い?
かつては「七回耕起は肥(こえ)いらず」という格言があり、何度も耕すことで土中の窒素が無機化され、肥料が不要になるほど作物が育つと言われていました。しかし、現代の土壌学の観点からは、必要以上の耕起は推奨されません。
現在は「最小限の耕起(ミニマム・ティレッジ)」が主流の考え方です。砕土率を高めるために何度もロータリーをかけるのではなく、適切な水分条件の時に1〜2回で決める技術が求められます。また、播種するラインだけを耕す「部分耕」や、前作の畝をそのまま利用する不耕起栽培も、耕起回数を減らし土壌構造を守る有効な手段です。
参考リンクについて:以下のリンクでは、耕起作業の基本として、時期や回数、そして深さが作物の生育にどう関わるかが解説されています。特に水稲栽培における視点が参考になります。
田起こしの目的と効果 | 田んぼの準備から発芽まで - クボタ
耕起という行為は、土壌中に生息する億単位の微生物たちにとっては、まさに天変地異のような巨大な環境変化です。検索上位の一般的な記事では「耕起して土を柔らかくしよう」という物理的な側面に終始しがちですが、実は耕起が土壌の生物性、特に「菌根菌(きんこんきん)」のネットワークや団粒構造の生成プロセスに与える影響は見過ごせません。
菌糸ネットワークの切断と細菌の優占
不耕起の土壌では、カビの仲間である糸状菌(しじょうきん)が菌糸を張り巡らせています。特にアーバスキュラー菌根菌などは、作物の根と共生し、リン酸などの養分を植物に届ける重要な役割を果たしています。
しかし、ロータリーによる激しい撹拌は、この繊細な菌糸ネットワークをズタズタに切断してしまいます。
団粒構造形成へのジレンマ
「耕起して土を団粒構造にする」とよく言われますが、実はメカニズムとしては逆説的です。
真に安定した耐水性団粒(水に浸けても崩れない団粒)を作るのは、主に微生物の働きです。菌根菌が放出する「グロマリン」という糖タンパク質や、ミミズの粘液、細菌の多糖類などが接着剤となり、土粒子を強力にくっつけます。
独自視点:アグリゲーションの保全
近年注目されている「保全農業(Conservation Agriculture)」の視点では、土壌生物の生息域を守るために、耕起を最小限にします。
例えば、プラウで反転した後、ロータリーで粉々にするのではなく、粗い塊のまま放置して風化を待つ方法や、不耕起でカバークロップ(被覆作物)の根に土を耕させる「生物的耕起」という考え方です。植物の根が枯れた後にできる無数の空洞(ルートチャンネル)は、機械で作った隙間よりも連結性が良く、水と空気の通り道として優秀です。
つまり、耕起とは「土壌微生物の家(構造)を一度壊して、リノベーションする作業」と言えます。リノベーションの頻度が高すぎれば家はボロボロになりますし、全く手入れしなければ住みにくくなる場合もあります。自分の圃場の微生物が、菌類優位なのか細菌優位なのか、有機物の分解速度は適切か、といった生物性の視点を持って耕起の強度を調整することが、プロの農業者には求められています。
参考リンクについて:以下の文献では、土壌の団粒化プロセスにおける植物根や微生物の役割について、科学的なメカニズムが解説されています。耕起がこれらにどう影響するかを深く理解するための資料です。