農業用水の水質を見るとき、多くの農家が混同しやすいのが「環境基準」と「農業用水基準」の違いである。
環境基準は生活環境の保全を目的に環境省が定めたもので、水域をA〜E類型に区分し、農業用水に関係するのは主にD類型(工業用水2級・農業用水)である。
例えば、D類型の基準は水素イオン濃度が6.0以上8.5以下、化学的酸素要求量(COD)が8mg/L以下、浮遊物質量(SS)が100mg/L以下、溶存酸素量(DO)が2mg/L以上などとされている。
参考)http://www.kagoshima-kankyo.com/suishitsu.htm
一方、農業用水基準(農業(水稲)用水基準)は、農林水産省が水稲の被害発生を防ぐことを目的に、pH 6.0〜7.5、COD 6mg/L以下、SS 100mg/L以下、DO 5mg/L以上など、作物寄りの目安を整理したものである。
参考)https://www.maff.go.jp/j/seisan/kankyo/hozen_type/h_sehi_kizyun/pdf/05230112suisitu-dojou.pdf
環境基準は「水域全体として守るべき最低ライン」、農業用水基準は「作物の健康や収量を守るための望ましい範囲」と押さえると、現場での判断がしやすくなる。
参考)http://www.kanhokyo.or.jp/keieinet/1_jouhou/1149_nougyo_yousui_kijun.html
実務上は自治体の水質調査結果が環境基準を満たしているかを確認しつつ、自分の圃場に入る農業用水が農業用水基準の範囲にあるかを、簡易測定や分析でチェックする流れが現実的である。
参考)https://midorinet-makinohara.com/_news/files/2023/%E5%8F%82%E8%80%83%E6%B0%B4%E8%B3%AA%E5%9F%BA%E6%BA%96.pdf
農業用水基準の基礎を確認するには、農業土木関連の基準集が整理されている資料が役に立つ。
参考)https://www.kagoshima-env.or.jp/cms/wp-content/uploads/2019/02/1kijunsyu.pdf
ここには農業用水基準の背景や、汚濁程度0〜3の区分も含めて詳しく記載されている。
農業用水基準の概要と背景を解説している基準集
pH(水素イオン濃度)は、水が酸性かアルカリ性かを示す基本指標で、農業(水稲)用水基準では6.0〜7.5が望ましい範囲とされている。
水田でpHが高くアルカリ性に傾くと鉄欠乏を起こし、葉が黄化するなどの症状が出ることが古くから知られている。
一方、pHが低く酸性に傾きすぎると、アルミニウムなど有害イオンの溶出が増え、根の伸長抑制や細根の減少を招くリスクがある。
参考)http://www.jsidre.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/06/52-8kouza-suishitsunyumon1.pdf
環境基準のD類型では6.0以上8.5以下と幅広いが、作物の生育という観点では、pH 6.0〜7.5程度に収めるのが安全域と考えられている。
参考)環境基準とは
EC(電気伝導度)は水中に溶けている塩類濃度の目安で、農業(水稲)用水基準ではおおむね0.3mS/cm(30mS/m)以下が望ましいとされる。
参考)水質検査について~農業用水(水稲)に関する基準とは?~
ECが高い水を長期間用いると、土壌に塩類が蓄積し、塩害や生育不良を引き起こす可能性があり、特に畑作やビニールハウスでは注意が必要である。
参考)https://www.jsidre.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017/11/kijyun-keikaku-suishitsusyougai.pdf
あまり知られていないポイントとして、ECが0.4〜1.0mS/cm程度の水はすぐに「使えない」とは言えず、ナトリウム(Na)や塩化物イオン(Cl)など有害になりやすい成分の濃度を確認したうえで判断することが推奨されている。
Naが70mg/L以上、Clが100mg/L以上の場合は、常時灌漑水として使うのは避けた方が良いとされ、Kや硝酸イオンなどの栄養成分の濃度を見ながら施肥量を調整する、といった応用的な利用法も示されている。
こうした観点から、農家が日常的に持っておきたいのは、pHメーターとECメーターであり、いずれも比較的安価なハンディタイプで十分実用になる。
定点で定期的にpHとECを記録しておくと、水源の変化や上流の土地利用の変化による水質悪化の「予兆」を早めに捉えやすくなる。
参考)https://www.yoron.jp/kiji0032278/3_2278_up_wtbccxro.pdf
pHやECなど水質の基本指標の考え方は、水質の入門資料が分かりやすい。
農業土木技術者向けだが、農家が読んでも現場に応用しやすい内容が多い。
pHやECなど農業用水の基本指標を解説した水質入門資料
COD(化学的酸素要求量)は水中の有機物の量を示す代表的な指標で、農業(水稲)用水基準では6mg/L以下が望ましいとされている。
CODが高い水を水田に引き込むと、水の中で有機物が分解される際に酸素が消費され、嫌気的な状態になりやすく、硫化水素やメタンなどの発生により悪臭や根腐れのリスクが高まる。
SS(浮遊物質量)は水に含まれる泥や微小な固形物の量を示し、農業用水基準では100mg/L以下が目安とされる。
SSが高いと用水路やパイプの目詰まり、田面の急激な堆積による代かき不良、苗の埋没などが起こりやすくなるため、取水口のスクリーンや沈砂池の管理が重要になる。
参考)https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/623138.pdf
DO(溶存酸素量)は水中に溶けている酸素量で、農業用利水点における環境基準では5mg/L以上、水稲用水基準でも同程度の値が求められている。
参考)https://www.env.go.jp/council/09water/y090-24/900427800.pdf
DOが低い水は嫌気的になりやすく、稲わらや有機物を多く入れた田では特に、根の呼吸障害や還元障害を助長することがある。
全窒素(T-N)は水中の窒素成分(硝酸態、亜硝酸態、アンモニア態、有機態)の合計で、農業用水基準では1mg/L以下が望ましいとされる。
参考)http://www.aizumiyakawa.jp/Waterqualitystandards.pdf
窒素濃度が高い水は、一見すると肥料代わりになるように思えるが、実際には田植え前から雑草を旺盛に育てたり、分げつ過多や倒伏リスクを高めたりするなど、制御しにくいマイナスも大きい。
重金属では、特にヒ素(As)、亜鉛(Zn)、銅(Cu)、カドミウム(Cd)などが注意すべき項目として挙げられており、水稲用水基準ではAs 0.05mg/L以下、Zn 0.5mg/L以下、Cu 0.02mg/L以下が目安とされる。
カドミウムについては、米1kg中0.4mg以下など、農用地土壌・収穫物に対する環境基準も設定されており、水源に鉱山跡地や工業排水の影響がある地域では特に注意が必要である。
参考)https://www.pref.aichi.jp/uploaded/attachment/369893.pdf
農業用水の水質項目と基準値の一覧は、地方自治体の説明資料に整理されていることが多い。
参考)環境基準値一覧(水質の汚濁に係るもの) - 埼玉県
特にpH、COD、SS、DO、T-Nなど基本項目は、複数の資料を見比べると値の傾向や背景が理解しやすい。
代表的な農業用水の水質基準値を一覧にまとめた資料
水質基準を知っていても、現場で測らなければ活かせないため、農家が自前でできるモニタリング体制づくりが重要になる。
最低限、pHメーターとECメーター、必要に応じてDOメーターや簡易のCODテストキットを揃えておくと、水質変動の大枠をつかみやすい。
測定のポイントとしては、取水口、用水路の途中、圃場入口、圃場出口の4点を押さえ、田植え前、分げつ期、登熟期など生育ステージごとに記録する方法が効果的である。
これにより、同じ水源でも用水路や圃場で水質がどのように変化しているか、汚濁がどの地点で進んでいるかを具体的に把握できる。
簡易対策としては、SSが高い場合は沈砂池の設置や掃除の頻度を上げる、CODやT-Nが高い場合には、雨後や上流の排水量が多い時間帯を避けて取水するなど、時間帯をずらすだけでも一定の効果が期待できる。
ECが高めの水しか使えない地域では、ECの低い水とブレンドして使う、水の入れ替え頻度を増やして土壌への塩類蓄積を抑えるなど、地域条件に合わせた工夫が求められる。
参考)https://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/nn/n_nouson/syuhai/attach/pdf/170809-1.pdf
あまり知られていないが、農業集落排水施設の処理水を灌漑に利用する際には、専用の手引きで水質項目ごとのチェックポイントが整理されており、処理水を含む複数の水源を組み合わせることで、水質と水量の両立を図る事例も増えている。
ただし、処理水を用いる場合は、大腸菌や病原微生物の項目を含めて確認する必要があり、水田だけでなく葉菜類など生食に近い作物ではより慎重な判断が求められる。
参考)https://www.env.go.jp/nature/onsen/pdf/2-5_p_5.pdf
水田用水や農業用水の計画・管理については、土地改良事業計画設計基準の水質障害対策の章が、現場でのモニタリングと対策の考え方を整理している。
取水口や用水路の設計と合わせて読むと、水質と水量を一体的に考える視点が身につく。
水質障害対策としての農業用水基準の位置づけと対策方法を示した設計基準
多くの資料では「基準値を守ること」に焦点が当たるが、実務的には自分の圃場の水質と収量・品質データを紐づけて蓄積することで、基準値を超えた独自の活用が見えてくる。
例えば、ある水田ではpHが6.8前後、ECが0.15〜0.20mS/cmの年に食味スコアが高くなる、といった「自分の田んぼにとっての最適域」が見えてくれば、基準値は最低ラインとして扱いつつ、より攻めた水管理も検討できる。
また、用水路やため池の水質を複数年追跡することで、上流の土地利用変化(宅地化、工場立地、太陽光発電施設の設置など)や気候変動(高温・少雨)の影響が、水質にどう現れるかを具体的に把握できる。
これにより、数年後の水質悪化を見越して排水路の改修や別水源の探索を前倒しする、といった中長期的な投資判断にもつながる。
独自活用の一例として、ため池の水質を夏場に重点的に調査し、DOが落ちやすい層を特定したうえで、簡易な散気装置や循環ポンプを導入し、アオコの発生抑制と水田の還元障害軽減を同時に狙った事例がある。
参考)https://www.yoron.jp/kiji0032278/3_2278_669_up_i406l6gu.pdf
このような取り組みは、単に「基準を守る」から一歩進んで、地域全体の水環境を改善しつつ、農業用水の安定確保にも寄与する。
農業用ため池や用水施設の水質調査結果は、多くの自治体が公表しており、自分の地域のデータを確認することから始めるのが良い。
実際の調査結果を見ると、pHやCOD、DOなどが季節や地点によって大きく変動していることが分かり、基準値を一度満たしているかどうかだけでなく、変動パターンを押さえる重要性が実感できる。
農業用ため池などの実際の水質調査結果と季節変動の例