田んぼの地図記号の昔と由来は?沼田や乾田の歴史と変化

田んぼの地図記号が昔は3種類もあったことをご存じですか?沼田や乾田といった分類が消えた理由や、記号の由来である稲株、そして古地図から読み解く災害リスクまで、意外な歴史の真実とは一体何なのでしょうか?

田んぼの地図記号の昔

田んぼの地図記号の昔と変化
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記号の由来

稲刈り後の「稲株」を象ったもの。二本線は刈り取られた茎を表している。

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昔の分類

明治から昭和30年頃までは「乾田」「水田」「沼田」の3種類に描き分けられていた。

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変化の理由

軍事的な通行判断の必要性が薄れたことと、土地改良事業による乾田化の進展。

現在の私たちが普段目にする地図記号の中で、「田んぼ」を表す記号は非常に馴染み深いものです。地図上で見かける「〃」のような記号は、社会科の授業で習った記憶がある方も多いでしょう。しかし、この見慣れた記号が、かつては現在とは全く異なる運用がなされていたという事実はあまり知られていません。実は、明治時代から昭和の戦後しばらくまでの間、日本の地図において田んぼを表す記号は一つではありませんでした。


かつての日本、特に明治期の地図作成を主導していたのは陸軍の陸地測量部でした 。当時の地図は、現代のように観光や行政サービスのためだけでなく、軍事的な作戦行動を支えるための極めて重要な資料としての役割を担っていました。そのため、田んぼの地図記号に関しても、単に「そこで米を作っている」という農業情報だけでなく、「その土地の上を兵士や車両が通行できるか」という地盤の状況を伝える必要があったのです。


参考)田んぼの地図記号の謎を解明!昔と今の違いや由来を徹底解説 -…

この背景から、昔の地図記号では田んぼの状態によって明確な書き分けが存在しました。具体的には、冬場に水が抜けて乾いている「乾田(かんでん)」、一年中水が溜まっているような湿地に近い「沼田(ぬまた・しょうでん)」、そしてその中間的な「水田」といった区分です 。現在の地図記号は昭和30年(1955年)の図式改正によって一本化されましたが、それ以前の古地図を見ると、当時の日本の農村風景がいかに過酷で、かつ現在とは異なる土地環境であったかが克明に記録されています。


参考)https://x.com/tanbozennoh/status/1883998456987148339

特に「沼田」と記された地域は、一度足を踏み入れれば腰まで泥に浸かってしまうような深い湿地帯であり、農作業には小舟(田舟)が不可欠でした 。こうした土地は、近代的な農業機械を入れることもできず、農家の人々にとっては重労働を強いられる場所でしたが、同時に多様な生態系を育む場でもありました。地図記号の歴史を紐解くことは、単なるデザインの変遷を追うだけでなく、日本の土地改良の歴史や、先人たちがどのように自然と向き合ってきたかを知る手がかりとなるのです。

現在の記号に統一されるまでの過程には、日本の近代化、軍事との関わり、そして戦後の食糧増産と圃場整備という大きな時代の波が深く関わっています。たった一つの小さな記号の裏側に隠された、日本の農業と国土の変遷について、以下の項目で詳しく掘り下げていきましょう。


国土地理院の公式サイトで、地図記号の変遷に関する詳細な一覧が確認できます。


地図記号の移り変わり(国土地理院)

田んぼの地図記号の昔と由来である稲株


田んぼの地図記号が何を模しているかという問いに対して、多くの人が「稲」と答えるでしょう。より具体的に言えば、現在の地図記号は「稲刈りをした後の稲株(いねかぶ)」を図案化したものです 。稲を収穫した後、田んぼに残る茎の根元の部分、いわゆる切り株が二本並んでいる様子を横から見た形がデザインの元になっています。


参考)https://www.chizu-seisaku.com/kigou/s-ta/

このデザイン自体は、実は明治時代から大きく変わっていません。明治13年(1880年)頃の地図記号制定当初から、田んぼを表す記号はこの「稲株」をモチーフにしたものが使われていました 。しかし、その描かれ方や意味合いには時代ごとの微調整がありました。例えば、記号の線の太さや間隔、あるいは点線で囲むかどうかといった細かな規定が、測量技術の向上や地図の用途変更に伴って変化してきました。


参考)https://www.gsi.go.jp/common/000075184.pdf

「稲株」が選ばれた理由には、日本の原風景としての象徴性があります。春の田植え、夏の青々とした稲穂、秋の黄金色、そして冬の静寂な田んぼ。その中で、収穫後の「稲株」は、一年のサイクルの終わりと、次の春への準備期間を象徴する姿とも言えます。また、地図記号としての視認性の高さも重要な要素です。地図上には道路や建物、等高線など多くの情報が詰め込まれます。その中で、田んぼという広大な面積を占める土地利用を表現するために、シンプルで、かつ他の記号(例えば畑や草地)と明確に区別できるデザインとして、この二本線の引用符のような形が採用され続けました。


畑の記号が植物の双葉(V字型)をモチーフにしているのに対し、田んぼの記号が収穫後の姿である稲株である点は興味深い対比です 。畑作物は種類によって収穫時期や形状が大きく異なりますが、稲作は日本全国でほぼ共通した栽培サイクルと形状を持っています。この均質性が、特定の瞬間の姿(刈り取り跡)を記号として定着させる要因になったと考えられます。

また、この「稲株」の記号は、単に「米を作っている場所」という意味を超えて、日本の国土の大部分を占める「水を利用できる平坦地」であることを示す重要な指標でもあります。地図上でこの記号が密集している地域は、古くから水利権が確立され、人々が集住し、豊かな穀倉地帯として発展してきた歴史を持つ場所であることを物語っています。


田んぼの地図記号の昔にあった沼田と乾田

現代の地図では一種類に統一されている田んぼの記号ですが、前述の通り、昭和30年頃までは「乾田」「水田」「沼田」という3種類の記号が存在していました 。この分類は、現代の私たちには馴染みの薄いものですが、当時の農業環境と土地の質を知る上で極めて重要な情報源となります。


参考)(3ページ目)外国では「畑」の地図記号がない!?日本でも元々…

3つの田んぼの違い:

  • 乾田(かんでん):

    冬場には水を落として土を乾かすことができる田んぼです。土が硬く締まるため、冬の間は人や馬、荷車などが問題なく通行できました。また、裏作として麦などを栽培する「二毛作」が可能な土地でもありました。


  • 水田(すいでん):

    乾田と沼田の中間的な性質を持つ田んぼです。排水が悪く、冬場でも部分的に湿り気が残るような土地を指しました。


  • 沼田(ぬまた・しょうでん):

    最も排水が悪く、一年中水が溜まっているような深田(ふかだ)です。泥が深く、腰や胸まで浸かることも珍しくありませんでした。牛馬を入れることも困難で、農作業はすべて手作業か、専用の田舟に乗って行われました 。


    参考)明治期の低湿地データ

地図上での表現も明確に区別されていました。一般的な稲株の記号が「乾田」を表し、その記号の下にさらに横線を加えたり、あるいは記号自体の密度を変えたりすることで、湿地性の高い「沼田」を表現していた時期があります(図式の年代により表現方法は異なりますが、明確に視覚的な区別がありました)。特に沼田の記号が広がる地域は、現代で言うところの「低湿地」であり、本来は人が歩くのに適さない軟弱地盤であることを地図利用者に警告する意味合いも持っていました。


明治時代の「迅速測図」や古い地形図を見ると、現在の住宅地や工業地帯になっている場所が、かつては広大な「沼田」であったことがわかります。これは、当時の河川改修がまだ不十分であり、多くの平野部が湿地帯のままであったことを示しています。農民たちは、この泥深い沼田でヒルに血を吸われ、泥に足をとられながら過酷な労働に従事していました。


この3分類が存在した時代、地図は単なる場所の案内図ではなく、「その土地の質」を物理的に評価するデータシートのような役割を果たしていました。現代の地図記号が「土地利用(何に使われているか)」を主眼に置いているのに対し、昔の地図記号は「土地被覆(どのような状態か)」に重点を置いていたと言えるでしょう。この視点の違いこそが、地図記号の歴史的変遷における最大のポイントです。


古い地図における3種類の田んぼの描き分けについて、実際の古地図で確認できる資料です。


明治期の低湿地データ(国土地理院)

田んぼの地図記号の昔と軍事的な通行の判断

なぜ、かつての地図記号はこれほどまでに田んぼの「乾き具合」にこだわったのでしょうか。その最大の理由は「軍事」にあります 。明治以降、近代的な測量技術を導入して全国の地図整備を進めたのは、陸軍参謀本部陸地測量部でした。彼らにとって地図は、作戦を立案し、部隊を展開させるための「兵要」資料だったのです。

軍事作戦において、部隊の機動力は生命線です。歩兵が迅速に移動できるか、騎兵が走れるか、そして大砲などの重火器を引く車両や、後には戦車が通行できるかどうか。これらを判断するために、田んぼが「乾いているか、ぬかるんでいるか」は死活的に重要な情報でした。


  • 乾田の場合:

    冬場や収穫後であれば、連隊規模の部隊が展開したり、野営地として利用したりすることが可能です。車両の通行もある程度見込めます。


  • 沼田の場合:

    部隊が侵入すれば泥に足をとられ、機動力が著しく低下します。車両や火砲などはスタック(立ち往生)してしまい、通行不能となります。防御側にとっては天然の要害となりますが、攻撃や移動を考える側にとっては避けるべき障害物となります。


このように、地図上の「〃」という記号の微妙な違いが、作戦の成否を左右する情報として扱われていました。例えば、敵軍が攻めてくる方向を予測する際、沼田の記号が広がるエリアは「通行困難なため、主力部隊はここを通らないだろう」といった戦術的な読み解きに使われたのです。


しかし、第二次世界大戦が終わり、日本が平和国家として歩み始めると、地図作成の主体は軍(陸地測量部)から建設省(現在の国土交通省)国土地理院へと移管されました 。地図の利用目的も、軍事作戦から国土開発、行政管理、そして一般市民の利用へと大きくシフトしました。それに伴い、「兵士や戦車が通れるかどうか」という情報の優先度は低下しました。

加えて、戦後の急速な「土地改良事業(圃場整備)」によって、日本の田んぼの姿自体が劇的に変化しました。排水路が整備され、大型機械が導入できるよう区画整理が進んだことで、かつてのような「腰まで浸かる沼田」は急速に姿を消し、ほとんどの田んぼが水はけの良い「乾田」へと生まれ変わっていったのです 。実態としての沼田が消滅し、軍事的な必要性もなくなったことで、昭和30年の図式改正において、田んぼの記号は現在のシンプルな一本化された形へと統合されました。


参考)https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/4040234.pdf

田んぼの地図記号の昔と土地改良による変化

田んぼの地図記号が3種類から1種類へと統合された背景には、日本の農業土木技術の発展、すなわち「土地改良」の歴史が深く関わっています。昭和30年代以降、日本全国で強力に推進された圃場整備事業は、農村の風景を一変させました。


昔の「沼田」や「湿田」は、自然の地形や湿地の性質をそのまま利用したものであり、区画も不整形で小さく、あぜ道も曲がりくねっていました。このような田んぼでは、機械化が困難であるだけでなく、労働生産性も著しく低い状態でした。特に「湿田」は、冬場でも土が乾かないため、裏作(麦や菜種などの栽培)を行うことができず、米の単作しかできないという経済的なデメリットも抱えていました。


戦後の食糧難を脱し、経済成長を目指す日本において、農業の近代化は急務でした。そこで行われたのが、以下の3点を主眼とした土地改良です。


  1. 区画整理(大区画化):

    小さな田んぼを合筆し、長方形の大きな区画に作り変えること。これによりトラクターやコンバインなどの大型機械の導入が可能になりました。


  2. 排水路の分離と整備:

    昔の田んぼは、上の田んぼから下の田んぼへと水を流す「田越し」灌漑が一般的でしたが、を用水路(水を入れる)と排水路(水を抜く)を完全に分離・整備しました。これにより、必要な時に自由に水を抜き、田んぼを乾燥させることができるようになりました。


  3. 客土と暗渠排水

    泥深い沼田には他所から良質な土を運び入れ(客土)、地中には土管や疎水材を埋設して排水を良くする「暗渠(あんきょ)排水」を施工しました。


これらの工事の結果、日本中の田んぼのほとんどが、冬にはカラカラに乾く「乾田」としての機能を持つようになりました。つまり、地図記号が「田」一種類に統一されたのは、単なる簡略化ではなく、「日本の田んぼが均質化し、機能的な乾田に統一されていった」という実社会の変化を反映したものなのです 。


参考)https://www.naro.go.jp/publicity_report/publication/archive/files/naro-se/211.pdf

現代の地図を見ても、碁盤の目のように整然と並んだ水田地帯の記号からは、かつての不整形な沼田の面影を感じることは難しいかもしれません。しかし、その整然とした記号の配列こそが、数十年かけて行われた国家プロジェクトとしての土地改良事業の成果であり、重労働から解放された農家の歴史そのものなのです。


農業農村整備事業(土地改良)がどのように進められ、農地がどう変わったかについての資料です。


水田の畑地化と基盤整備の歴史(農林水産省)

田んぼの地図記号の昔から読み解く液状化のリスク

最後に、現代の私たちにとって非常に重要な視点、すなわち「防災」の観点から昔の田んぼの記号を読み解いてみましょう。これは検索上位の記事ではあまり触れられていない、独自かつ実用的な視点です。


かつての地図で「沼田(深田)」や「湿田」の記号が描かれていた場所は、元々が「水はけの悪い低湿地」であったことを意味します。土地改良によって表面上はきれいな乾田になり、あるいはさらに開発されて住宅地や商業施設に変わっていたとしても、地下の地盤そのものの性質が完全に変わったわけではありません。


古地図の「沼田」が示唆する現代のリスク:

  • 液状化現象のリスク:

    水分を多く含んだ砂質土や軟弱な粘性土が厚く堆積している場所は、大きな地震が発生した際に液状化現象を起こす可能性が高くなります 。かつて沼田記号が密集していた地域は、地下水位が高く、地盤が緩い傾向にあるため、現代のハザードマップにおける液状化危険度が高いエリアと重なることが多々あります。


    参考)災害に備える!|地理院地図の使い方 - 国土地理院

  • 水害・浸水のリスク:

    「沼田」はもともと水が集まりやすい場所、つまり周囲よりも標高がわずかに低い場所や、旧河道(昔の川の跡)であるケースが多いです。豪雨災害などで内水氾濫(下水道や水路から水があふれる現象)が起きた際、かつて沼田であった場所は水が溜まりやすく、浸水被害が長引く傾向があります。


国土地理院が公開している「治水地形分類図」や、明治期の低湿地データなどを参照すると、自分の住んでいる場所がかつてどのような種類の田んぼであったかを確認することができます 。もし、現在住んでいる場所がかつて「沼田」記号で埋め尽くされていたとしたら、それは地盤が軟弱である可能性を示唆しており、家の基礎補強や地震保険への加入、避難経路の確認など、より慎重な防災対策が必要かもしれません。

昔の地図記号は、単なる過去の記録ではありません。それは、その土地が本来持っている「素性」を教えてくれる貴重なメッセージです。現代の均質化された地図からは見えないリスクを、かつての「沼田」や「湿田」の記号は静かに、しかし確実に私たちに伝えています。不動産購入や家を建てる際に、古地図を紐解いて「昔の田んぼの記号」を確認することは、自身と家族の安全を守るための賢明な手段の一つと言えるでしょう。


災害リスクを知るために、国土地理院が提供している地形分類や自然災害伝承碑に関する情報です。


災害に備える!地理院地図の使い方(国土地理院)




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