農業の現場で「土作り」と言えば、物理的な団粒構造の確保や、化学的なpH調整、NPK(窒素・リン酸・カリ)の施肥設計が長らく重視されてきました。しかし、近年その重要性が再認識されているのが「生物性」、すなわち土壌における細菌叢(さいきんそう/マイクロバイオーム)の役割です。
細菌叢とは、ある特定の環境に生息する多種多様な微生物の集合体のことを指します。人間の腸内にお花畑(フローラ)のように菌が群生していることから「腸内フローラ」と呼ばれるのと同様に、土壌にも「土壌フローラ」と呼ばれる複雑な生態系が存在しています。スプーン1杯(約1グラム)の肥沃な土の中には、数億から数十億個、数万種類もの微生物が生息していると言われています。
これらの微生物は、ただ土の中に居るだけではありません。彼らは土壌という巨大な工場の作業員として、以下のような極めて重要な働きを担っています。
植物の残渣や堆肥などの有機物は、そのままでは植物の根から吸収することができません。細菌叢に含まれる細菌や糸状菌(カビの仲間)がこれらを分解し、アミノ酸やアンモニア、硝酸態窒素といった植物が利用可能な形(無機態)に変換します。これは人間が食べ物を胃腸で消化吸収するプロセスに似ており、土壌細菌叢はまさに「植物にとっての外付けの胃袋」と言えるでしょう。
微生物が有機物を分解する際に出す粘着性のある物質(グリコカリックスなど)や、糸状菌の菌糸は、土の粒子同士をくっつける接着剤の役割を果たします。これにより、水はけと水持ちを両立させる「団粒構造」が形成され、植物の根が呼吸しやすいふかふかの土が作られます。
特定の細菌(キレート能を持つ菌など)は、土壌中に固定化されて植物が吸収しにくくなった鉄やマンガンなどのミネラルを溶かし出し、植物に供給する手助けをします。
このように、細菌叢は肥料を植物に届けるための「物流システム」であり、土の物理性を維持する「建築家」でもあります。単に化学肥料を撒くだけでは作物が育ちにくくなるのは、この仲介役である微生物の働きが無視されているケースが少なくありません。
リサール酵産:土壌改良には欠かせない畑で役立つ微生物とは?!(微生物の分解作用と土壌団粒化のメカニズムについて詳述)
植物と土壌細菌叢の関係は、一方的なものではありません。植物の根の周辺、わずか数ミリの領域を「根圏(こんけん)」と呼びますが、ここは土壌の中でも特に微生物活動が活発なホットスポットです。植物は光合成で作った糖分やアミノ酸の一部を「根圏滲出物(しんしゅつぶつ)」として根から土中に放出しています。これは、あたかも植物が微生物たちに「エサ」を与えて、自分の周りに呼び寄せているかのような行動です。
この根圏において、植物と細菌叢は高度な共生関係(持ちつ持たれつの関係)を築いています。
根圏に集まる細菌の中には、植物の生育を直接的に助けるPGPR(Plant Growth-Promoting Rhizobacteria)と呼ばれるグループがいます。彼らは植物ホルモン(オーキシンやジベレリンなど)に似た物質を産生して根の発達を促したり、土壌中の不溶性リンを可溶化して植物に吸わせたりします。
健全な根圏細菌叢は、根の表面を隙間なく覆い尽くすことで、後から侵入しようとする病原菌の定着を防ぎます(先住効果)。また、一部の放線菌や細菌は、抗生物質のような抗菌物質を放出し、フザリウムなどの病原性糸状菌の増殖を直接抑制します。これを「拮抗作用」と呼びます。
近年の研究では、菌根菌(植物の根に侵入して共生するカビの一種)が菌糸のネットワークを張り巡らせ、植物同士をつないでいることがわかってきました。このネットワークを通じて、水分や栄養分のやり取りが行われたり、害虫の襲来を知らせる警報物質が伝達されたりしている可能性も示唆されています。
農業において「根を張らせる」ことの重要性は誰もが知るところですが、それは単に物理的に体を支えるためだけではありません。根を広げることは、すなわち「有用な細菌叢というパートナーを増やすこと」と同義なのです。根圏の環境を整えることは、植物の免疫力を高める「予防医療」そのものと言えます。
サンビオティック:作物と微生物の多様な共生が切り拓く持続的な農業(根圏微生物と植物の相互作用、PGPRの具体的な働きについて解説)
農業従事者を悩ませる最大の問題の一つに「連作障害」があります。同じ作物を同じ場所で作り続けると、生育が悪くなったり、病気が多発したりする現象です。これには化学的な要因(特定の養分の欠乏)もありますが、多くの場合は「土壌細菌叢のバランス崩壊」が主たる原因です。
同じ作物を植え続けると、その作物の根から出る滲出物を好む特定の微生物だけが増殖します。もしその微生物が植物に害を与える病原菌(例えば、特定の線虫やフザリウム菌、青枯病菌など)であった場合、天敵となる他の菌がいないため、病原菌が爆発的に増えてしまいます。
健康な土壌では、善玉菌、悪玉菌、そしてそのどちらでもない日和見菌が多種類入り混じっています。この「多様性」が高い状態では、特定の菌だけが異常繁殖しようとしても、他の菌との生存競争や拮抗作用によって抑制されます(静菌作用)。しかし、化学肥料の多用や有機物の投入不足、そして連作によって土壌環境が単純化されると、微生物の種類が減少し、この抑止力が働かなくなります。これが連作障害の正体の一つです。
連作障害対策として行われるクロルピクリンなどの土壌燻蒸消毒は、病原菌を一掃する強力な手段です。しかし、これは同時に有用な細菌叢も死滅させてしまい、土壌を「無菌状態(空白地帯)」にしてしまいます。消毒後の土壌は、いわば免疫力ゼロの状態です。そこに外部から病原菌が少しでも侵入すると、競争相手がいないため、以前よりも酷い病害が発生する「リバウンド現象」が起きることがあります。
この問題を解決するためには、細菌叢の多様性(ダイバーシティ)を取り戻すことが不可欠です。完熟堆肥の投入、緑肥の栽培、輪作(異なる科の作物を順番に作る)、あるいは多種多様な微生物を含んだ微生物資材の活用などにより、土の中の「菌の顔ぶれ」を豊かにすることが、最も確実な連作障害対策となります。
京都大学:農地土壌の微生物叢から作物病害リスクを診断する(土壌微生物叢の構造と病害発生リスクの相関関係についての研究成果)
持続可能な農業(サステナブル・アグリカルチャー)を実現するためには、外部からの投入資材に頼りすぎず、圃場内での物質循環をスムーズにする必要があります。このサイクルのエンジンとなるのが細菌叢による有機物分解です。
土壌に投入される有機物には、分解されやすいもの(米ぬか、油かすなど)と、分解されにくいもの(もみ殻、バーク、剪定枝など)があります。これを決定づけるのがC/N比です。細菌叢はこの炭素(C)をエネルギー源とし、窒素(N)を体の構成成分として利用します。C/N比が高い(炭素が多い)有機物を大量に入れると、細菌たちは分解のために土壌中の窒素を奪い合って使い果たしてしまい、作物が「窒素飢餓」に陥ることがあります。逆に、C/N比が低いと分解は速いですが、窒素が余って流亡しやすくなります。熟練の農家が堆肥の発酵度合いを気にするのは、この細菌叢による分解のタイミングをコントロールするためです。
有機物が細菌叢によって分解される過程で、最終的に残る難分解性の黒っぽい物質を「腐植」と呼びます。腐植は土の保肥力(CEC)を高めるキャパシターの役割を果たします。この腐植を作り出せるのは、人間でも機械でもなく、長い時間をかけた微生物たちの働きだけです。土壌細菌叢が豊かでなければ、いくら有機物を入れても良質な腐植は蓄積されず、土力は上がりません。
過剰な化学肥料の使用は、地下水汚染や温室効果ガス(N2Oなど)の発生源となります。しかし、細菌叢が健全に機能している土壌では、投入された窒素分が微生物の体内に一時的にプール(有機化)され、植物の要求に合わせて徐々に放出されるため、環境への流出が抑えられます。
「土が痩せる」とは、単に栄養分が減ることではなく、この有機物を分解・循環させる細菌叢のサイクルが止まってしまうことを意味します。有機物を「ゴミ」ではなく、細菌叢への「エサ」として捉え直し、適切なタイミングと量で供給することが、地力維持の鉄則です。
理化学研究所:持続可能な農業のための堆肥-土壌-植物相互作用モデル(好熱菌を活用した堆肥が土壌細菌叢と植物の生育に与える影響を科学的に解明)
これまで、土壌診断といえば「pH」「EC(電気伝導度)」「NPK含量」といった化学性の分析が主流でした。しかし、これらの数値が適正範囲内であっても「なぜか作物が育たない」「病気が出る」というケースは後を絶ちません。そこで近年、急速に普及し始めているのが、次世代シーケンサーを用いた細菌叢の「見える化」技術です。
土壌中の微生物からDNA(16S rRNA遺伝子など)を抽出し、解析することで、「どの種類の菌が」「どれくらいの割合で」存在しているかを網羅的に把握できるようになりました。これにより、これまでは「職人の勘」で語られていた「良い土」の状態が、客観的なデータとして可視化されます。
最新の研究では、特定の病気が発生する前の土壌には、特有の細菌叢パターンの変化(ディスバイオシス)が起きていることが分かってきました。発病してから農薬を撒くのではなく、細菌叢のバランスの変化を予兆として捉え、発病前にバイオスティミュラント(生物刺激資材)などで軌道修正を行う「予防的土壌管理」が可能になりつつあります。
そして、検索上位の多くの記事では触れられていない視点として、「細菌叢と作物の食味・品質の相関」が注目されています。ある研究では、非常に評価の高い高級トマトやメロンの生産者の土壌を解析したところ、特定の放線菌や乳酸菌のグループが特異的に多いことが判明しました。これらの菌は、アミノ酸や核酸、特定の揮発性成分などを代謝産物として放出し、それが作物の糖度だけでなく、コクや香りといった「風味」に直接影響を与えている可能性があります。
これまで「品種」や「肥料」で決まるとされていた味の決め手が、実は「菌の風味」であるかもしれないのです。「あの畑の野菜はなぜか美味しい」の秘密は、その畑特有の細菌叢(テロワール)にあるのかもしれません。
農業は今、経験と勘の世界から、微生物データを駆使したサイエンスの世界へと進化しようとしています。土壌細菌叢の状態を知ることは、単なる土作りを超えて、高付加価値な農産物を生み出すための強力な武器となるでしょう。
CHITOSE Group:土壌菌叢の把握から「あるべき農業」を追求する(土壌菌叢データに基づいた新しい土壌診断と農業生産の最適化プロジェクト)