農業従事者の皆様にとって、気候変動問題はもはや対岸の火事ではありません。作物の生育不良や異常気象による被害が頻発する中、その原因となる温室効果ガス(GHG)の発生源について正しく理解することは、経営を守る第一歩となります。
まず、世界全体と日本国内における農業分野からの排出割合について、詳細なデータを見ていきましょう。ここに、一般的な産業イメージとは異なる「農業特有の事情」が隠されています。
世界全体で見ると、人間活動によって排出される温室効果ガスの総量のうち、約24%(およそ4分の1)が「農林業およびその他土地利用(AFOLU)」から排出されています 。これはエネルギー部門に次ぐ2番目に大きな排出源であり、森林伐採による農地転用や、家畜の飼育、土壌管理が複雑に絡み合っています。
参考)農業が地球温暖化に与える影響とは?温室効果ガス排出量の現状と…
一方、日本国内に目を向けると状況は少し異なります。日本の総排出量のうち、農業分野が占める割合は約4%(約4,790万トン-CO2換算)にとどまります 。この数字だけを見ると、「日本の農業の責任は軽いのではないか?」と感じられるかもしれません。しかし、ここには数字のトリックとも言える重要な事実があります。
参考)https://www.maff.go.jp/j/seisan/kankyo/ondanka/pdf/ondanka_taisaku.pdf
それは「ガスの種類」です。
エネルギー産業や運輸業からの排出が主に「二酸化炭素(CO2)」であるのに対し、農業分野からの排出は、その構成比が劇的に異なります。
農業は、CO2以外の強力な温室効果ガスを排出する主要な発生源となっています。特にメタンはCO2の約25倍、一酸化二窒素は約298倍もの「地球温暖化係数(GWP)」を持っています 。つまり、排出量はわずかでも、地球を温める能力はずば抜けて高いガスを扱っているのが農業現場の現実です。
参考)温室効果ガスとは?概要や事例の理解を深め、削減に取り組もう!…
日本政府は「みどりの食料システム戦略」において、2050年までに農林水産分野のCO2排出実質ゼロを掲げています。この目標を達成するためには、単にトラクターの燃料を減らすだけでなく、自然界のサイクルの中で発生するメタンや一酸化二窒素をどうコントロールするかが最大のカギとなります。
【農林水産省】みどりの食料システム戦略トップページ(持続可能な食料システムの構築に向けた国の指針とロードマップが詳細に解説されています)
畜産農家の皆様にとって頭の痛い問題かもしれませんが、農業分野からのメタン排出の多くは、家畜(特に牛などの反芻動物)に由来します。ここでは、なぜ牛からメタンが出るのか、その科学的なメカニズムと最新の抑制技術について深掘りします。
1. 消化管内発酵(ゲップ)によるメタン生成のメカニズム
牛には4つの胃があり、その中の第一胃(ルーメン)には無数の微生物が生息しています。これらの微生物が牧草などの繊維質を分解・発酵させることで、牛は栄養を吸収できます。しかし、この発酵プロセスの副産物として水素が発生し、その水素を「メタン生成菌」という古細菌が消費してメタンを作り出します。このメタンは、主にゲップとして大気中に放出されます 。
参考)301 Moved Permanently
驚くべきことに、牛が摂取した飼料エネルギーの約2〜12%が、このメタン生成によって損失されていると言われています。つまり、メタンを減らすことは、環境対策であると同時に「飼料効率の改善(=コスト削減)」にも直結するのです。
2. 家畜排泄物の管理によるメタンと一酸化二窒素
排泄物(ふん尿)の処理過程も大きな排出源です。排泄物を嫌気状態(酸素が少ない状態)で貯留するとメタンが発生しやすく、一方で通気して堆肥化する過程では一酸化二窒素が発生しやすくなります。この「あちらを立てればこちらが立たず」のトレードオフ関係が、対策を難しくしています。
最新の削減技術トレンド
現在、研究が進んでいる具体的な削減アプローチには以下のようなものがあります。
過剰なタンパク質給与を控え、必須アミノ酸(リジンやメチオニンなど)をバランスよく配合することで、排泄物中の窒素量を減らし、結果として一酸化二窒素の発生を抑制します。これは「環境配慮型飼料」として普及が進んでいます。
カシューナッツ殻液や海藻、特定の脂肪酸カルシウムなどを飼料に混ぜることで、ルーメン内のメタン生成菌の働きを物理的・化学的に抑える技術です。これによりメタン排出を20〜40%削減できるというデータも報告されています 。
堆肥の発酵過程で強制的に空気を送り込むことで、メタンの発生を抑えつつ、良質な堆肥を短期間で作る技術です。
【農研機構】畜産分野における温室効果ガス排出削減技術のマニュアル(現場で導入可能な具体的な技術や管理方法が網羅的に紹介されています)
畑作や野菜栽培において見過ごされがちなのが、土壌からの一酸化二窒素(N2O)の発生です。N2Oは「笑気ガス」とも呼ばれますが、環境への影響は笑い事ではありません。CO2の約300倍近い温室効果を持つこのガスは、主に私たちが施用する「窒素肥料」と「土壌微生物」の相互作用から生まれます。
発生のメカニズム:硝化と脱窒
土壌に撒かれた窒素肥料(アンモニウム態窒素など)は、以下のプロセスをたどります。
土壌中の硝化菌が、アンモニウムを硝酸態窒素に変える過程。この際、副産物として少量のN2Oが発生します。
雨が降って土壌が湿り、酸素が少なくなると、脱窒菌が硝酸態窒素を窒素ガス(N2)に戻そうとします。この還元プロセスが途中で止まると、多量のN2Oとして大気中に放出されてしまいます 。
参考)一酸化二窒素 (N₂O)
特に、日本の茶園や野菜畑のように、高品質な作物を多収するために多量の窒素肥料を投入する現場では、N2Oの排出リスクが高まります。未利用のまま土壌に残った窒素成分が、雨水と共に環境へ流出したり、ガス化したりするのです。
具体的な削減対策:スマート施肥の実践
この問題に対する解決策は、「必要な時に、必要な分だけ、植物に吸わせる」ことに尽きます。
作物の生育に合わせて成分が溶け出すコーティング肥料を使うことで、土壌中の余剰窒素を減らし、N2O発生を大幅に抑制できます。
畑全体に肥料を撒くのではなく、作物の根元近くにピンポイントで施肥する「うね内施肥」や「側条施肥」を行うことで、施肥量を削減しつつ収量を維持できます。
アンモニウムが硝酸に変わるスピードを化学的に遅らせる成分(硝化抑制剤)を含んだ肥料を利用することで、脱窒の原料となる硝酸の急激な増加を防ぎます。
意外な事実として、土壌の水はけ(排水性)を良くすることもN2O削減に寄与します。排水不良の畑は酸素不足になりやすく、脱窒菌が活発化してN2Oが出やすくなるためです。明渠や暗渠の整備は、作物の生育だけでなく地球環境にも優しい土壌管理と言えるのです。
日本の農業における温室効果ガス対策で、最も重要かつ即効性が高いのが「水田からのメタン削減」です。日本人の主食であるお米を作る水田は、実は巨大なメタン発生装置になり得るポテンシャルを持っています。
なぜ水田からメタンが出るのか?
水田に水を張ると、土壌の中は空気が遮断され、酸素がない「還元状態」になります。この環境は、土壌に含まれる稲わらなどの有機物をエサにする「メタン生成菌」にとって天国のような場所です。彼らは有機物を分解し、活発にメタンを生成します。生成されたメタンは、イネの茎の中を通る通気組織を経由して、大気中へと放出されます 。
参考)農業の脱炭素化とは?温室効果ガスの種類や具体的な取り組みにつ…
このメカニズムを知ると、逆説的に「水を抜いて酸素を入れればメタンは止まる」ということが分かります。これが、伝統的な技術である「中干し」が環境対策として再評価されている理由です。
中干し期間の延長による劇的な効果
通常、夏場に行われる中干しは、土壌を引き締め、イネの根を健全に保つために行われます。この中干し期間を、慣行(その地域の標準的な日数)よりも7日間程度延長するだけで、メタン発生量を約30%削減できることが実証されています。
たった1週間の延長で3割も削減できる技術は、他の産業分野を見渡しても稀です。しかも、適切な水管理を行えば、収量や玄米品質への悪影響はほとんどないことも確認されています。
秋耕(あきこう)と稲わらの腐熟促進
もう一つのポイントは、エサとなる有機物(稲わら)の管理です。収穫後の稲わらをそのまま田んぼに残し、翌春まで放置すると、春の代かき後に新鮮なエサとしてメタン菌に利用されてしまいます。
そこで推奨されるのが「秋耕」です。秋のうちに稲わらを土にすき込み、腐熟分解を進めておくことで、翌年の田植え時期にはメタンの発生源となる有機物を減らしておくことができます。腐熟促進剤(石灰窒素など)の併用も効果的です。
【農林水産省】地球温暖化対策(J-クレジット制度における水田の中干し延長の方法論や申請手引きが公開されています)
ここまで温室効果ガスの「排出」についてお話ししてきましたが、最後に農業だけが持つ特別な能力、「吸収・貯留」というポジティブな側面(多面的機能)に光を当てたいと思います。農業は温室効果ガスを出す産業であると同時に、それを地面に閉じ込めることができる稀有な産業です。
「4パーミル・イニシアチブ」と土壌炭素貯留
世界的な取り組みとして「4パーミル・イニシアチブ」という言葉をご存知でしょうか。これは、世界の土壌中の炭素量を毎年0.4%(4パーミル)ずつ増やすことができれば、人間活動によるCO2排出量を実質的に相殺できるという考え方です 。
参考)https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fsufs.2023.1104252/pdf
農地土壌には、大気中のCO2を植物(作物や緑肥)を通じて有機物として蓄積する機能があります。堆肥の投入やカバークロップ(被覆作物)の栽培、不耕起栽培などは、土壌を肥沃にするだけでなく、地球上の炭素を地中に固定する巨大な「炭素銀行」としての役割を果たします。
バイオ炭による半永久的な炭素固定
近年、特に注目されているのが「バイオ炭(バイオたん)」の農地施用です。剪定枝や竹、もみ殻などを炭化させて作った炭を農地に混ぜ込む技術です。
通常の有機物は分解されて再びCO2として大気中に戻りますが、炭化した炭素(難分解性炭素)は数百年から数千年にわたって土壌に残ります。これは物理的にCO2を地中に封じ込める行為と同義です。さらに、バイオ炭は土壌の透水性や保肥力を向上させ、酸性土壌の改良にも役立つため、営農上のメリットも非常に大きい資材です 。
「環境対策」を「現金」に変えるJ-クレジット
こうした努力は、今や単なるボランティアではありません。
「中干し期間の延長」や「バイオ炭の農地施用」によって削減・吸収された温室効果ガスは、国の認証制度である「J-クレジット」を通じて売買可能な価値(クレジット)に変えることができます。
企業はカーボン・オフセットのためにこのクレジットを欲しがっており、農家にとっては農産物以外の新たな収入源となり得ます。実際に、JAや自治体が主体となって地域の農家をまとめ、集団でクレジット認証を取得し、販売益を農家に還元する事例も増えてきました。
温室効果ガスの「原因」と「割合」を知ることは、単に悪者探しをすることではありません。どのプロセスに介入すれば効率的に削減でき、それがどう経営改善や新たな収益につながるかを見極めるための戦略図を手に入れることなのです。
見えないガスの動きを「見える化」し、賢く管理することで、日本の農業は環境保全型産業のトップランナーになれるポテンシャルを秘めています。あなたの圃場でも、まずは「中干しの日数を数える」ところから、未来への投資を始めてみませんか?