農業の現場において、土壌環境の改善や病害対策として微生物資材の活用が進んでいますが、その中でも特に強力な効果を発揮するのが「トリコデルマ菌」です。市販の微生物資材は品質が安定している反面、広い圃場に定期的に投入するにはコストがかさむという課題があります。しかし、トリコデルマ菌は条件さえ整えれば、身近な資材を使って農家自身の手で増やす(拡大培養する)ことが可能です。
トリコデルマ菌は自然界のどこにでも存在する糸状菌(カビ)の一種であり、特に分解されにくい植物遺体(セルロース)を好んで栄養源とします。この性質を利用し、米やもみ殻などを培地として菌糸を広げ、爆発的に密度を高めることが「自家培養」の核心となります。成功すれば、数千円分の種菌から数十倍、数百倍の土壌改良資材を生み出すことができ、コストパフォーマンスは劇的に向上します。
ここでは、単なる「はんぺん(白カビ)」を集める土着菌採取とは異なり、狙ったトリコデルマ菌を確実に増やし、実際の栽培に役立てるための専門的な培養プロセスと、その土壌への投入方法について深掘りしていきます。菌の特性を理解し、適切な管理を行うことで、誰でも高品質な微生物資材を作ることができるようになります。
農文協 ルーラル電子図書館:トリコデルマ菌ボカシの作り方と活用事例
トリコデルマの増やし方において、最も確実で一般的な培地(エサ)となるのが「米」です。米は炭水化物が豊富で、菌糸が食いつきやすく、初期の増殖スピードを最大化させるのに適しています。以下に、米を使った具体的な培養手順と、最重要パラメータである温度管理について解説します。
まず、古米やクズ米を用意します。これらを通常通り洗米し、炊飯器で少し硬めに炊くか、蒸し器で蒸し上げます。重要なのは、米の表面だけでなく内部まで水分を含ませつつ、ベチャベチャにしないことです。水分過多はバクテリア(細菌)の増殖を招き、腐敗の原因となります。炊き上がった米は、人肌程度(35℃以下)になるまで冷まします。熱いうちに種菌を混ぜると菌が死滅してしまうため、この冷却工程は必須です。
冷ました米に、市販のトリコデルマ資材(粉末や粒剤)を種菌として混ぜ込みます。米1升(約1.5kg)に対して、種菌を10〜20g程度、まんべんなく振りかけます。この際、米ぬかを全体の1割程度添加することで、菌の活着が良くなり、発酵のスターターとしての役割を果たします。米ぬかに含まれるリン酸やミネラルが、菌糸の伸長を助けるからです。
培養容器(通気性のあるプラスチックコンテナや木箱)に移し、新聞紙や布で蓋をして直射日光の当たらない場所に置きます。ここで最も重要なのが温度です。トリコデルマ菌は25℃前後で最も活発に活動します。
順調にいけば、2〜3日で白い菌糸が米全体を覆い始めます(いわゆる「はんぺん状」)。そして、5〜7日経過すると、白い菌糸の上に濃い緑色の胞子が形成されます。これこそがトリコデルマ菌が健全に増殖した証拠です。もし、黒色や赤色(ピンク色)のカビが発生した場合は、雑菌汚染の可能性が高いため、その部分は廃棄してください。特に赤カビ(フザリウム)は病原菌そのものなので、絶対に畑に入れてはいけません。
カクイチ:トリコデルマ菌の効果と培養における米やもみ殻の活用法
米で培養した高濃度の「トリコデルマ米」は、そのまま畑に撒くこともできますが、コストと効果の持続性を考えると、さらに「堆肥」や「もみ殻」を使って二次培養(拡大培養)を行い、ボカシ肥として仕上げてから土壌に投入するのがベストです。
培養した米を種菌として、次は大量の「もみ殻」と「米ぬか」の混合物に接種します。もみ殻はリグニンやセルロースの塊であり、トリコデルマ菌にとって絶好の住処かつ食料です。
このプロセスを経ることで、わずかな米麹から、軽トラック1台分の土壌改良資材を生み出すことができます。
完成した「トリコデルマボカシ」は、作付けの2週間〜1ヶ月前に土壌に混和します。重要なのは、有機物(エサ)と一緒に浅くすき込むことです。トリコデルマ菌は好気性(酸素を好む)であるため、深くまで耕しすぎると酸素不足で死滅してしまいます。表層10〜15cm程度の浅い層に混ぜることで、菌が呼吸しやすく、また地表付近に多い病原菌と接触する機会が増えます。
トリコデルマ菌は、有機物を分解する過程で粘着性のある物質を分泌します。これが土の粒子同士を接着させる「糊」の役割を果たし、土壌の団粒構造を形成します。団粒構造が発達した土は、水はけと水持ちが両立し、作物の根がスムーズに伸長できるフカフカの土になります。また、未分解の有機物(前作の残渣など)を急速に分解・堆肥化するため、ガス害の発生を防ぎ、次作の初期生育を安定させる効果も期待できます。
ヤンマー アグリプラス:もみ殻を堆肥に変え、微生物と共に土を作る実例
トリコデルマ菌を増やす最大の目的は、多くの農家にとって「土壌病害の抑制」にあります。なぜトリコデルマ菌が病気に効くのか、その具体的なメカニズムと対象となる病気について理解しておくことは、効果的な運用に不可欠です。
トリコデルマ菌の最もユニークな特徴は、他のカビ(糸状菌)に巻き付き、細胞壁を溶かして栄養を奪い取る「重寄生」という性質です。多くの土壌病害は糸状菌によって引き起こされますが、トリコデルマ菌はこれらを「エサ」として認識します。
土壌中には、利用できる養分や生存できるスペースに限りがあります。トリコデルマ菌は増殖スピードが非常に速いため、病原菌が増える前に土壌中のスペースや栄養を先取りしてしまいます。病原菌が入り込む隙間を物理的に埋めてしまうことで、病気の発症を未然に防ぐ「予防効果」が高いのです。したがって、病気が出てから投入するよりも、発病前の予防投与が鉄則です。
近年の研究では、トリコデルマ菌が植物の根に共生することで、植物自身の免疫システムをスイッチオンにする(プライミング効果)ことが分かってきました。これにより、土壌病害だけでなく、地上部の病気や環境ストレス(乾燥や塩害)に対する抵抗力も高まるとされています。
トリコデルマ菌自体がカビの一種であるため、広範囲の糸状菌を殺す化学殺菌剤(ベンレートやトップジンなど)と同時に使用すると、せっかく増やしたトリコデルマ菌まで死滅してしまいます。使用する場合は、時期をずらすか、トリコデルマ菌に影響の少ない薬剤を選定する必要があります。
トリコデルマ菌の自家培養に挑戦しても、失敗して「ただの腐った米」を作ってしまうケースが後を絶ちません。失敗の9割は「水分過多」と「資材の選定ミス」に起因します。ここでは、失敗しないための具体的なチェックポイントを解説します。
培養における最大の敵は「酸欠」です。水分が多すぎると資材の隙間が水で埋まり、好気性菌であるトリコデルマ菌が呼吸できずに死滅します。代わりに嫌気性の腐敗菌が増殖し、ドブのような臭いを発します。
トリコデルマ菌を効率よく増やすには、炭素(C)と窒素(N)のバランスが重要です。
失敗しない配合は、もみ殻主体(体積比で7〜8割)にし、米ぬかはあくまで添加剤(2〜3割)として使うことです。初心者がやりがちな「米ぬかだけで培養」は、温度制御が難しく失敗の元です。
培養中に以下のような兆候が見られたら、直ちに対処が必要です。
健全な培養では、森の土のような香りや、キノコのような芳醇な香りがします。
中鎌戸農園:トリコデルマ発生と管理基準のアップデート(失敗からの学び)
基本の「米・もみ殻」に加え、独自の視点として提案したいのが、産業廃棄物として処理されがちな「コーヒー粕」と、放置竹林対策で注目される「竹パウダー」の活用です。これらはトリコデルマ菌と非常に相性が良く、組み合わせることで相乗効果を生み出します。
コーヒー粕は通常、カフェインやポリフェノールを含み、植物の生育を阻害するためそのままでは肥料にできません。しかし、トリコデルマ菌はこれらの成分に強く、コーヒー粕を優れた炭素源として分解・利用できます。
竹パウダーは、糖分と強固な繊維(セルロース・リグニン)を含んでいます。これをいきなりトリコデルマ菌で分解するのは時間がかかりますが、「乳酸発酵」を前段階に挟むことで爆発的な効果が得られます。
この「竹パウダー×乳酸菌×トリコデルマ」のリレー栽培は、土壌消毒剤を使わずに連作障害を克服する秘策として、一部の有機農家の間で密かに実践されている高度な技術です。地域の未利用資源を活用できるため、SDGsの観点からも非常に推奨される手法です。
YabuLoveWalker:竹パウダーによる土壌改良と菌の増殖効果について