耐性菌(薬剤耐性菌)が人から人へ、あるいは環境から人へと「うつる」主な原因は、実は非常に身近な行動の中に潜んでいます。農業従事者の皆さんにとって、細菌やウイルスといった目に見えない病原体との接触は日常的なリスクと言えますが、特に耐性菌に関しては、その感染経路を正しく理解しておくことが、自分自身だけでなく大切な家族や地域社会を守るための第一歩となります。
参考)一般の方への情報提供:多剤耐性菌を正しく理解するためのQ&A…
最も一般的な感染経路は「接触感染」です。これは、耐性菌を持っている人の皮膚や、その人が触れた手すり、ドアノブ、あるいは農業器具などに触れることで、自分の手に菌が付着し、その手で口や鼻、目などの粘膜を触ることで体内に侵入するというものです。健康な人の場合、菌が体に付着してもすぐに病気を発症するとは限らず、単に皮膚や腸内に住み着くだけの「保菌(定着)」という状態になることが多いです。しかし、この保菌状態であっても、手洗いが不十分なまま食事をしたり、他の人と触れ合ったりすることで、知らず知らずのうちに菌を広げてしまう「運び屋」になってしまうリスクがあります。
参考)薬剤耐性菌による感染症/奈良県公式ホームページ
さらに、耐性菌の恐ろしい点は、細菌同士で「耐性遺伝子」をやり取りする能力を持っていることです。細菌はプラスミドと呼ばれる小さなDNAの輪を持っており、これを他の細菌に受け渡すことで、薬剤に対する耐性を急速に獲得させることができます。つまり、元々は薬が効く普通の細菌だったものが、耐性菌と接触することで、強力な耐性菌へと変貌してしまう可能性があるのです。
参考)薬剤耐性菌に関する用語集
農業現場においては、作業中に生じた小さな切り傷や擦り傷から菌が侵入するケースも想定されます。土壌や家畜、あるいは汚染された水などに触れる機会が多い環境では、一般的な生活環境よりも多様な細菌と接触する頻度が高くなります。特に、薬剤耐性菌は病院の中だけの問題だと思われがちですが、近年では「市中感染」といって、病院外の一般生活環境や自然環境でも耐性菌が見つかるケースが増えてきており、どこで誰が感染してもおかしくない状況になっています。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11628260/
| 感染の種類 | 特徴 | 農業現場でのリスク |
|---|---|---|
| 接触感染 | 菌が付着した人や物に触れることでうつる | 共有の農具、汚れた作業着、家畜との接触 |
| 飛沫感染 | 咳やくしゃみなどのしぶきを吸い込む | 作業小屋などの密閉空間での会話 |
| 経口感染 | 汚染された水や食品を摂取する | 手洗い不十分での食事、井戸水の使用 |
参考:厚生労働省 薬剤耐性(AMR)対策について(耐性菌の基本的なメカニズムや現状が解説されています)
耐性菌がうつることで最も警戒しなければならないのは、自分自身が発症することだけでなく、同居している家族、特に高齢者や基礎疾患を持っている人たちにうつしてしまうことです。「自分は健康だから大丈夫」と考えていても、免疫力が低下している人にとって、耐性菌は命に関わる重大な脅威となり得ます。
参考)多剤耐性菌への対応
高齢者や、がん治療を受けている人、糖尿病や透析治療を行っている人などは、免疫の働きが弱くなっているため、健康な人なら何ともないような少量の菌であっても感染症(日和見感染)を引き起こしやすくなります。例えば、黄色ブドウ球菌などは健康な人の皮膚にも常在していますが、これが薬剤耐性を持つMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)となり、抵抗力の弱い高齢者に感染すると、難治性の肺炎や敗血症を引き起こす原因となります。
参考)https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/318548.pdf
家庭内での感染リスクを下げるためには、「持ち込まない」ことと「広げない」ことが重要です。農業現場で着用した作業着や長靴には、土壌細菌や家畜由来の細菌が付着している可能性があります。これらをそのままリビングや寝室に持ち込むことは、目に見えないリスクを家族の生活空間に広げているのと同じです。特に、小さな孫がいる家庭や、介護が必要な高齢者がいる家庭では、作業ゾーンと生活ゾーン(特に高齢者の部屋)を明確に区分けする必要があります。
参考)http://www.kms.ac.jp/~mrsa/infection_control/manual/pdf/4_3(040301).pdf
また、もし家族の誰かが耐性菌を持っている(保菌者である)と診断された場合でも、過度に恐れて隔離する必要はありませんが、タオルの共用を避ける、入浴の順番を最後にする、トイレの後の手洗いを徹底するといった基本的な衛生管理をより厳格に行うことが求められます。健康な家族への伝播リスクは低いとされていますが、油断は禁物です。
参考)https://dcc.jihs.go.jp/prevention/resource/resource05.pdf
参考:国立感染症研究所 薬剤耐性菌に関する情報(専門的なデータや家族へのリスク管理のヒントが含まれています)
一般的に耐性菌というと「病院内での抗生物質の使いすぎ」が原因だと思われがちですが、農業従事者の皆様にとって見逃せないのが「ワンヘルス(One Health)」という考え方です。これは、人の健康、動物の健康、そして環境の健全性はすべてつながっているという概念で、耐性菌の問題もまさにこのサイクルの中で捉える必要があります。実は、農業環境である土壌や家畜、そして堆肥が、耐性菌がうつる意外なルートの一つとなっていることが近年の研究で明らかになってきています。
参考)https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/mbo3.1375
畜産現場で使用される抗菌薬は、家畜の病気治療や成長促進のために使われますが、投与された抗菌薬の一部はそのまま糞尿として排泄されます。また、家畜の腸内で発生した耐性菌も糞尿に含まれます。これらが適切に処理されずに環境中に放出されたり、不完全な堆肥化処理のまま農地に散布されたりすると、土壌中の細菌に耐性遺伝子が受け渡され、土壌細菌自体が薬剤耐性を持つようになるリスクがあります。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11974299/
特に注目すべきは「堆肥」です。発酵温度が十分に上がらない「未熟堆肥」を使用した場合、中に含まれる耐性菌が死滅せずに残り、それが土壌に入り、最終的にそこで育った野菜などの農作物に付着する可能性があります。もし、その野菜を生で食べた場合、耐性菌が人の体内に入るというサイクルが完成してしまいます。これは「農場から食卓へ(Farm to Table)」のリスク管理として非常に重要な視点です。
参考)301 Moved Permanently
ただし、過度な不安を持つ必要はありません。適切に発酵・完熟させた堆肥であれば、発酵熱によって多くの病原菌や耐性菌は死滅または大幅に減少することが分かっています。農業従事者としてできる最大の対策は、自家製の堆肥を作る際は温度管理を徹底して完熟させること、そして購入する際も品質の確かな完熟堆肥を選ぶことです。また、土壌と接する機会の多い農業者は、土埃の吸入や傷口からの土壌細菌感染のリスクも一般の人より高いため、手袋やマスクの着用といった物理的な防御が非常に有効です。
参考)家畜感染制御ネットワーク
農業環境における耐性菌サイクルの例:
参考:農研機構 畜産環境における薬剤耐性菌の研究成果(堆肥化による菌の低減効果などが詳しく報告されています)
農業現場から家庭内に耐性菌を持ち込まない、そして家庭内でうつるのを防ぐためには、日常的な消毒と予防の習慣化が欠かせません。特別な高価な機材は必要ありませんが、「どこで断ち切るか」というポイントを押さえた対策が効果的です。
まず、基本中の基本である「手洗い」です。耐性菌の多くは接触感染で広がるため、手に付いた菌を洗い流すことが最も強力な予防策になります。農作業から戻った際、トイレの後、食事の前には必ず石鹸を使って流水で洗いましょう。特に指先、爪の間、親指の周り、手首は洗い残しが多い箇所です。アルコール消毒も有効ですが、手に目に見える汚れ(土や泥、有機物)が付いていると消毒効果が著しく低下するため、まずは物理的に汚れを落とすことが先決です。
次に「作業着の洗濯」についてです。農作業で使った衣類には、目に見えないレベルで土壌細菌や家畜由来の菌が付着している可能性があります。これらを家族の普段着や下着と一緒に洗うことは避けるべきです。理想的には、作業着専用の洗濯機を使用するか、作業着を先に洗い、その後に洗濯槽を洗浄してから家族の衣類を洗うといった工夫が推奨されます。もし耐性菌(MRSAなど)の保菌が疑われる家族がいる場合は、その人の衣類やタオルは最後に洗うか、60度以上の熱湯に10分以上浸してから洗濯すると除菌効果が高まります。
参考)https://www.tairahos.or.jp/relays/download/206/810/45/1383/?file=%2Ffiles%2Flibs%2F1382%2F201409011531416591.pdf
家庭内の環境消毒については、ドアノブ、手すり、リモコン、照明のスイッチなど「みんなが触る場所」を重点的に行います。多くの耐性菌に対しては、市販の消毒用エタノールや、0.05%程度に希釈した次亜塩素酸ナトリウム(家庭用塩素系漂白剤)が有効です。ただし、次亜塩素酸ナトリウムは金属を腐食させたり色落ちさせたりするので、使用後は水拭きが必要です。スプレーで噴霧すると菌が舞い上がる可能性があるため、消毒液を染み込ませた布やペーパーで「一方向に拭き取る」のがコツです。
参考)耐性菌情報・国内
| 対策項目 | 具体的なアクション | 注意点 |
|---|---|---|
| 手指衛生 | 石鹸と流水で30秒以上洗う+アルコール消毒 | 泥汚れがある場合は先に洗い流す |
| 洗濯 | 作業着と普段着を分けて洗う | 汚れがひどい場合は予洗い・つけ置き |
| 環境消毒 | ドアノブ等をアルコールや希釈漂白剤で拭く | スプレー噴霧ではなく「拭き取り」を行う |
| 入浴 | 作業後はすぐにシャワーを浴びる | 傷口がある場合は防水絆創膏で保護 |
参考:看護roo! 感染対策の基礎知識(医療従事者向けですが、家庭でも使える消毒のコツが具体的です)
最後に、耐性菌がうつる、あるいは体内で発生するのを防ぐために、私たちが医療機関とかかわる際の心構えについて触れておきます。耐性菌が増える最大の原因は「抗菌薬(抗生物質)の不適切な使用」です。農業従事者の皆さんは、ご自身の健康管理において、以下の点を医師に正しく伝えることが非常に重要です。
もし体調を崩して病院にかかる際、特に感染症が疑われる場合は、自分が農業(特に畜産や土壌を扱う仕事)に従事していることを医師に伝えてください。一般的な生活環境とは異なる細菌(人獣共通感染症の原因菌など)に感染している可能性があり、医師が選択する薬の種類が変わる可能性があるからです。早期に適切な診断を受けることで、無駄な抗菌薬の使用を避けることができます。
「症状が良くなったから」と自己判断で薬を飲むのをやめてしまうのが一番危険です。中途半端に薬をやめると、完全に死滅しなかった菌が薬に対する耐性を獲得し、生き残ってしまう可能性があります。処方された分は、指示通り最後まで飲み切ることが、自分の体内で耐性菌を作らないための鉄則です。
風邪(感冒)のほとんどはウイルスが原因であり、細菌を殺す抗菌薬は効きません。「念のために抗生物質を出してください」と医師に頼むことはやめましょう。不必要な抗菌薬の服用は、腸内の善玉菌まで殺してしまい、結果として耐性菌が繁殖しやすい環境を自ら作ってしまうことになります。
耐性菌の問題は、一人ひとりの行動が社会全体のリスクに直結しています。農業という、自然や生命と密接に関わる仕事をしている皆さんだからこそ、菌との共生とコントロールについて正しい知識を持ち、リーダーシップを発揮して対策に取り組んでいただければと思います。
参考:AMR臨床リファレンスセンター(一般の方向けに、抗菌薬の正しい使い方や耐性菌についてのわかりやすい解説があります)