農業世界遺産(GIAHS:Globally Important Agricultural Heritage Systems)は、国際連合食糧農業機関(FAO)が認定する仕組みで、世界中で重要かつ伝統的な農業システムを次世代へ継承することを目的としています。日本では、非常に多様な農業システムが評価されており、2025年現在で17の地域が認定を受けています。これらの地域は、単に古い農法が残っているだけでなく、生物多様性の保全や独自の文化、美しい景観が一体となって維持されている点が共通しています。
以下は、日本国内で認定されている主な農業世界遺産の一覧です。それぞれの地域が持つ「システム」の特徴に注目してください。
日本で最初に認定された地域の一つです。ため池や棚田を含む伝統的な土地利用と、海女漁や揚げ浜式製塩などの伝統技術が、豊かな生物多様性を支えています。2024年の震災からの復興においても、この「里山里海」の絆が地域のレジリエンス(回復力)として注目されています。
一度は絶滅したトキを野生復帰させるため、農薬や化学肥料を減らした「生きものを育む農法」を地域全体で導入しました。農業と環境保全が完全にリンクした成功事例として世界的に有名です。
高品質な茶の栽培のために、茶園の周辺にある草地(茶草場)の草を刈り取り、肥料として茶畑に敷く伝統農法です。この人為的な草刈りによって、希少な植物や昆虫が生息できる環境が守られています。
千年以上にわたり「野焼き」や「放牧」によって維持されてきた広大な草原景観と、それを利用した赤牛の生産などが評価されています。草原が水源涵養や防災機能も果たしています。
雨の少ない地域で農業を行うため、クヌギ林を管理して保水力を高め、ため池連携させて水を確保する循環システムです。原木シイタケの栽培もこのシステムの一部です。
「里川」という概念を提示し、林業、農業、内水面漁業(鮎漁)が相互に関連し合っているシステムです。川の環境を守ることが、巡り巡って海や山の豊かさにつながることを示しています。
養分に乏しい斜面を利用し、ウメと薪炭林(ウバメガシ)をモザイク状に配置することで、崩落を防ぎつつ高品質な梅を生産しています。ニホンミツバチを活用した受粉も特徴的です。
急峻な山間地で、棚田での米作り、焼畑、林業、畜産を巧みに組み合わせた複合経営が行われています。神楽などの伝統文化が農業と深く結びついています。
冷害や洪水の多い湿地帯において、高度な水管理技術と屋敷林(イグネ)を組み合わせ、過酷な環境を克服して豊かな水田地帯を作り上げた「たくましさ」が評価されています。
豊富な湧き水を利用し、棚田状のわさび田で高品質なわさびを栽培するシステムです。水を濁らせないための肥料管理や、水源の森を守る活動が一体となっています。
最大40度にもなる急傾斜地で、段々畑を作らずに、カヤを敷き詰めて土壌流出を防ぎながら農業を行う「コエグロ」などの独自技術が残っています。
急傾斜地での柑橘栽培において、石垣や排水溝を整備し、多様な品種を栽培することで、災害に強く持続可能な果樹農業を実現しています。
紅花生産と染色文化が結びついたシステム。美しい景観とともに、加工技術や流通の歴史的背景も評価されています。
丹波の黒豆や京野菜など、都市近郊でありながら伝統的な品種と栽培技術が継承されている点や、森林と河川、海のつながりが評価されました。
このほか、山梨県の峡東地域の果樹農業システムや、兵庫県美方地域の但馬牛システム、滋賀県の琵琶湖システムなど、日本の認定地域はそれぞれが極めてユニークな特徴を持っています。これらは単なる「遺産」リストではなく、現在進行形で稼働している生産の現場であるという点が重要です。
農林水産省のWebサイトでは、最新の認定地域やそれぞれの詳細な概要が公開されています。
農業世界遺産に認定されるためには、FAOが定める5つの基準を満たす必要があります。これは農家の方々にとって、「自分の地域の農業が世界的に見てどのような価値があるか」を再発見する物差しとなります。単に「美味しいものが採れる」だけでは認定されません。システムとしての完成度が問われるのです。
その農業システムが、地域の人々の食料確保や生計維持にどれだけ貢献しているか。経済的な基盤として機能していることが大前提です。自家消費だけでなく、市場経済における重要性も評価されます。
ここが非常に重要なポイントです。特定の作物だけでなく、その周辺に生息する野生動植物、固有種、遺伝資源が守られているか。例えば、静岡の茶草場農法が評価された最大の理由は、茶草場が絶滅危惧種の植物の避難場所になっていたからです。農地が「生態系の一部」として機能しているかどうかが問われます。
先人から受け継がれてきた独自の技術や知識です。水管理の方法、土壌改良の工夫、種子の保存方法など、教科書的な近代農業技術とは異なる、その土地ならではの「知恵」が存在するかどうかが審査されます。
農業に関連する祭り、儀式、食文化、相互扶助の仕組み(「結(ゆい)」など)が残っているか。農業が単なる産業ではなく、地域のアイデンティティやコミュニティの絆と不可分であることが求められます。
棚田や段々畑、屋敷林、ため池などが織りなす独特の美しい景観が維持されているか。これは観光資源としての価値にも直結しますが、単に美しいだけでなく、長い年月の農業活動の結果として形成された必然性のある景観であることが重要です。
さらに、これらの基準に加えて近年重視されているのが「アクションプラン(保全計画)」の実効性です。認定を受けること自体がゴールではなく、認定後にそのシステムをどのように守り、次世代につないでいくかという具体的な計画と、地域住民の合意形成が厳しく審査されます。
FAO駐日連絡事務所:世界農業遺産(GIAHS)の基準と概要
「世界農業遺産に認定されても、規制が増えるだけで儲からないのではないか?」という疑問を持つ農家の方もいるかもしれません。しかし、実際には認定をうまく活用することで、実利的なメリットを生み出している地域が多く存在します。ここでは、現場の農家にとっての具体的なメリットを3つの視点で解説します。
最も直接的なメリットは、農産物に「世界農業遺産認定地域産」という付加価値をつけられることです。
例えば、石川県の能登地域では、認定後に「能登棚田米」としてのブランディングを強化しました。その結果、一般的なコシヒカリと比較して価格が上昇し、販路も高級百貨店や都市部のこだわりスーパーへと拡大しました。消費者は単なる「米」ではなく、「美しい里山を守るための米」というストーリーにお金を払うようになります。認証シールやロゴマークを活用することで、他の産地との明確な差別化が可能になります。
世界農業遺産は、海外の富裕層や環境意識の高い旅行者にとって強力なフックとなります。
欧米では「サステナブル・ツーリズム」への関心が高く、日本の伝統的な農業景観や農村文化を体験すること自体が価値あるコンテンツとなります。農家民宿(農泊)や収穫体験、郷土料理の提供など、農業生産以外の収入源(農業の6次産業化)を確保するチャンスが広がります。岐阜県の長良川流域では、鮎漁の体験や流域の文化を巡るツアーが人気を博しています。
経済的なメリット以上に重要とも言えるのが、地域住民の意識変化です。「自分たちのやっている古い農業は時代遅れだ」と思っていた農家が、世界的に評価されることで自信と誇りを取り戻します。
この「誇り」は、若者のUターンやIターン、新規就農者を呼び込む大きな力になります。「世界遺産の地で農業をやりたい」という志を持った若者が集まることで、過疎化が進む地域に新しい風が吹き込み、労働力不足の解消にも寄与する可能性があります。
さらに、国や自治体からの支援(補助金や交付金など)を受けやすくなるという行政面でのメリットもあります。認定地域として維持管理を行うための活動に対して、多面的な支援措置が講じられるケースが一般的です。
よく混同されるのが、有名な「ユネスコ世界遺産」と今回の「農業世界遺産(GIAHS)」の違いです。この違いを正しく理解することは、農業世界遺産をビジネスや地域活動に活かす上で極めて重要です。最大の違いは、「保存」か「保全(動的保全)」かという点にあります。
| 比較項目 | ユネスコ世界遺産 | 農業世界遺産 (GIAHS) |
|---|---|---|
| 認定機関 | UNESCO(国連教育科学文化機関) | FAO(国連食糧農業機関) |
| 対象 | 遺跡、建造物、自然環境 | 農業システム(営みそのもの) |
| キーワード | 不動の資産、厳格な保護、普遍的価値 | 動的保全、変化への適応、レジリエンス |
| スタンス | 「過去の状態」を厳格に維持・保存する | 時代に合わせて「変化・進化」させることを許容する |
| 人の関わり | 自然遺産では人の手が入らないことが重要 | 人の手が入ることで維持される環境を評価 |
ユネスコ世界遺産(特に文化遺産)は、歴史的な建造物などを「当時のまま」残すことが求められます。勝手に改築したり、形状を変えたりすることは原則として許されません。いわば「博物館」的なアプローチです。
一方、農業世界遺産は「生きている遺産(Living Heritage)」と呼ばれます。
対象は「システム」であるため、時代に合わせて変化することが許容されるどころか、推奨されています。例えば、伝統的な景観や生物多様性を守るという本質的な機能が維持されるのであれば、最新のスマート農業機器(ドローンや自動運転トラクター)を導入しても問題ありません。むしろ、効率化によって農業が継続されることのほうが重要視されます。
農家の方にとって、これは非常に大きな意味を持ちます。「昔ながらの非効率な手作業を永遠に続けなければならない」という苦行の制度ではないのです。「伝統」と「革新」を融合させ、持続可能な形で次世代につなぐことこそが、農業世界遺産における「保全」の真の意味なのです。
農業世界遺産は、認定されればゴールというわけではありません。むしろ、そこからが本当の戦いの始まりと言えます。現在、日本の多くの認定地域が直面している最大の課題は、やはり「人」の問題です。
どれほど素晴らしいシステムであっても、それを運用する人間がいなくなれば、景観は荒廃し、生物多様性は失われます。特に、中山間地域が多い農業世界遺産の現場では、高齢化と後継者不足が深刻です。ここで重要になる独自視点が、「担い手の多様化」と「外部経済との接続」です。
従来の「代々続く農家の長男が継ぐ」というモデルだけでは、もはや限界があります。
成功している地域では、以下のような新しい動きが見られます。
専業農家だけでなく、ITの仕事などをしながら農業に関わる「半農半X」の移住者を積極的に受け入れる動きです。農業世界遺産のブランド力は、こうしたライフスタイルを志向する層への強力なアピールになります。
企業のCSR活動やSDGs対応の一環として、農業世界遺産の保全活動に企業が資金や人材を提供するケースが増えています。例えば、棚田のオーナー制度に企業が参加したり、社員研修の場として活用したりすることで、農家以外の資金と労働力を呼び込むことができます。
地元の子供たちが地域の農業システムを学ぶ「遺産教育」を徹底することで、一度は地域を出ても、将来的に戻ってくるシビックプライド(地域への誇り)を醸成する長期的な取り組みです。
農業世界遺産は、過去を懐かしむためのものではありません。過酷な環境変化や市場競争の中で、したたかに生き残ってきた先人の知恵の結晶です。この「生き残るためのシステム」を、現代のテクノロジーや新しい経済の仕組みとどう融合させるか。農家自身がそのイノベーションの主役になることが、未来への継承の鍵を握っています。