疑似好気層の水はけが良すぎると、窒素が1作で20〜30%も無駄に流れ出ています。
水田を湛水状態にすると、土壌はすぐに酸素が乏しい「嫌気的」な環境になります。しかし表面のごく薄い層(おおむね数mm〜1cm程度)には、水面からの酸素拡散や植物根からの酸素放出によって、わずかに酸素が供給され続けます。
この層を「疑似好気層」と呼びます。
「疑似」という言葉がついているのは、完全な好気状態ではないからです。酸素濃度は畑土壌と比べてはるかに低く、好気性微生物が活動できるギリギリのレベルにとどまっています。それでも、この薄い層が土壌の物質循環に対して非常に大きな役割を果たしています。
形成のカギは「酸素の供給源」です。
主に3つあります。
これが基本です。この3つのバランスが、疑似好気層の厚さと活性を左右します。
疑似好気層は厚ければいいわけではありません。薄すぎると硝化が進まず、厚くなりすぎると下層の嫌気状態が崩れて還元力が低下し、メタン生成菌の活動が抑制されすぎて有機物分解に偏りが生じます。
つまり「適度な厚さ」が条件です。
疑似好気層が形成されると、層内ではアンモニア酸化細菌(AOB)や亜硝酸酸化細菌(NOB)が活動し始めます。この硝化反応によって、肥料として施用したアンモニア態窒素(NH₄⁺)が硝酸態窒素(NO₃⁻)へと変換されます。
ここが問題です。
硝酸態窒素は土壌粒子に吸着されにくく、下層の嫌気ゾーン(還元層)へと移動しやすい性質を持っています。嫌気ゾーンでは脱窒菌が硝酸を還元し、最終的に窒素ガス(N₂)や一酸化二窒素(N₂O)として大気中に放出されます。
これが「脱窒による窒素損失」です。
研究によると、水田での窒素肥料の利用率は平均40〜50%程度にとどまることが多く、残りの30〜40%は脱窒・揮散・溶脱によって失われます。施用した窒素の半分近くが無駄になっているということですね。
農業従事者にとって直接的なダメージは「肥料費の損失」です。窒素肥料20kgを施用して40%が損失するなら、実質8kg分の肥料代が土に消えています。近年の肥料高騰(2022〜2023年に一部の窒素系肥料は前年比で30〜50%超の値上がりを記録)を考えると、この損失は無視できません。
脱窒損失を抑えるためには、硝化抑制剤(ニトラピリン配合肥料など)の活用が有効です。硝化抑制剤入りの肥料を使うことで、アンモニア態窒素が硝酸に変換されるスピードを遅らせ、窒素が作物に吸収されやすい状態を維持できます。圃場の土壌pH・温度・有機物含量をまず確認してから選択するのが基本です。
イネは水中でも生育できる特殊な構造を持っています。茎や葉から根まで連続した通気組織(エアレンキマ)が発達しており、地上部で取り込んだ酸素を根先端まで届け、そこから根圏へ放出します。この「根圏酸素放出(Radial Oxygen Loss:ROL)」こそが、疑似好気層の維持に欠かせない機能です。
意外なことに、品種によってROL量は2〜3倍以上異なります。
国内の試験データでは、コシヒカリ系統と比較して、根の通気組織が発達した品種(例:ひとめぼれ、あきたこまち系の一部)でROL量が高く、根圏疑似好気層がより安定して形成されることが確認されています。ROLが多い品種では根圏の酸化力が高まり、有害な還元性物質(硫化水素・有機酸など)の無毒化が進み、根腐れリスクが低下します。
これは使えそうです。品種選定の段階から疑似好気層のことを意識すると、同じ土壌・同じ施肥でも結果が変わります。
特に問題になるのが「作土の還元が進みやすい重粘土ほ場」です。このような圃場では、ROL能力の高い品種を選ぶことが還元障害の回避につながります。圃場の土壌タイプと品種特性を組み合わせた管理が、収量の底上げには有効です。
農研機構:水稲根の酸素放出と根圏酸化力に関する研究報告(PDF)
農業従事者が疑似好気層をコントロールする最も現実的な手段が「水管理」です。具体的には、中干し(中間落水)と間断かんがいが中心になります。
中干しとは、出穂前の一定期間(一般に移植後30〜40日頃)に田んぼの水を落とし、土壌を乾燥させる管理方法です。
この作業には複数の効果があります。
間断かんがいは、湛水と落水を交互に繰り返す管理法です。FAO(国連食糧農業機関)の試算では、間断かんがいを適切に実施すると灌漑用水を25〜30%節減できるとされています。水道代や揚水ポンプの電気代換算で、10a(1反)あたり年間数千円のコスト削減になる圃場もあります。
中干し・間断かんがいが進みすぎると問題が起きます。乾燥が行き過ぎると土壌中の硝化が過剰に進み、復水後に脱窒が一気に加速して窒素損失が増大するケースがあります。「ひび割れはあぜ際から見てコインが立つ程度(深さ1〜2cm)」を目安にするのが原則です。
農林水産省:水田からの温室効果ガス削減に向けた水管理技術マニュアル(PDF)
疑似好気層の話題で見落とされがちなのが、土壌有機物(SOM)の分解への影響です。
これは独自視点として重要なポイントです。
嫌気条件下(還元層)では有機物の分解が遅く、土壌中に炭素が蓄積されやすい傾向があります。一方、疑似好気層が発達すると好気性微生物の分解活動が活発になり、有機物の消耗が加速します。
日本の水田土壌の炭素含有量は、過去50年で一部地域では平均10〜15%程度減少したというデータがあります(農研機構・土壌調査データより)。これは土壌の「体力」が落ちていることを意味します。
有機物が減ると何が起きるでしょうか?
厳しいところですね。疑似好気層を過剰に発達させると、短期的な窒素循環の改善と引き換えに、長期的な土壌有機物を消耗させるリスクがあります。
この問題への対策として注目されているのが、稲わらや緑肥(ヘアリーベッチ・レンゲなど)の積極的な鋤き込みです。稲わらを10a(1反)あたり400〜500kg鋤き込むと、分解による土壌炭素供給と微生物活性の維持に効果があるとされています。ただし、鋤き込み直後は有機酸が発生しやすく、過剰な還元障害を招くこともあるため、鋤き込み時期は収穫後できるだけ早く(秋〜初冬)に行うのが基本です。
土壌診断(土壌の有機物含量・CEC・pH)を定期的に実施し、有機物の収支を把握しておくことが、疑似好気層管理の長期的な成功につながります。都道府県の農業技術センターでは、1検体あたり数百〜数千円程度で土壌分析サービスを提供しています。まず圃場の現状を数値で把握することが大切です。
農研機構:水田土壌炭素の長期変動に関するモニタリング報告(PDF)
近年、農業分野でも脱炭素の取り組みが加速しています。疑似好気層の管理は、温室効果ガス(GHG)削減の文脈でも注目を集めています。
水田から排出されるメタン(CH₄)は、地球温暖化ポテンシャル(GWP)がCO₂の約28倍とされています(IPCC第6次評価報告書)。日本の水田全体のメタン排出量は年間約200万t-CO₂換算にのぼり、農業部門のGHG排出量の中で無視できない割合を占めます。
疑似好気層が適切に形成・管理されると、土壌表面付近でメタンが酸化されてCO₂に変換されます。これを「メタン酸化」と呼び、メタン放出量を最大で30〜50%削減できるとする研究データもあります。
農林水産省が推進する「みどりの食料システム戦略」では、2050年までに農業分野のGHG排出量を削減する目標を掲げており、水田の水管理改善(疑似好気層の適正化)がその具体的施策の一つとして位置付けられています。
また、J-クレジット制度(農林水産省・経済産業省・環境省が運営)では、水田の適切な水管理によるGHG削減を「クレジット」として認証・売却できる仕組みが整備されています。10a(1反)あたり年間数百円〜数千円相当のクレジット収入を得られるケースもあり、環境対策がコスト回収につながる実例も出てきています。
環境保全と収量維持を両立するためのカギは、疑似好気層の「薄く・安定して・維持する」管理にあります。
これが原則です。
過剰な酸化でも過剰な還元でもなく、中間的な酸化還元電位(Eh:150〜250mV程度)を土壌表層で維持することが、GHG削減・窒素利用効率・土壌微生物活性のすべてを高い水準でバランスさせる条件です。
圃場ごとに土壌の還元状態を簡易的に確認する方法として、市販の「土壌酸化還元電位計(ORP計)」があります。価格は1万〜3万円程度で入手でき、差し込むだけでEh値(mV)が確認できるため、水管理の調整指標として活用できます。まず自分の圃場のEhを1度測定してみることをおすすめします。
農林水産省:みどりの食料システム戦略 温室効果ガス削減目標と水田管理の位置付け(PDF)