近年、世界中で叫ばれている「脱炭素」の動きですが、学術的な世界においては「脱炭素は意味ない」とする論文や、現在の温暖化対策の効果に疑問を投げかける研究も少なからず存在することをご存知でしょうか。主流派の意見としては、人為的な二酸化炭素(CO2)の排出が地球温暖化の主因であるとされていますが、それに異を唱える科学者たちは、気候変動のメカニズムがもっと複雑であることを指摘しています。
まず、議論の焦点となるのが「CO2濃度と気温上昇の相関関係」です。
一部の論文では、過去の気候データを分析すると、気温が上昇した「後」にCO2濃度が上昇しているケースがあることが示されています。これは、海水の温度が上がることによって、海水中に溶け込んでいたCO2が大気中に放出された結果であるという解釈です。もしこの説が正しいとすれば、CO2を削減したとしても、気温の上昇を止めることはできないという結論に至ります。これが「脱炭素は意味ない」と言われる科学的な論拠の一つです。
また、地球の気候は太陽活動のサイクルや、数万年単位のミランコビッチ・サイクルといった自然要因によって大きく変動しています。
現在の温暖化も、氷河期から間氷期への移行に伴う自然な温度上昇の一部であるとする説もあります。実際に、中世温暖期のように、現代と同程度かそれ以上に暖かかった時期が、産業革命以前にも存在していました。当時の人為的なCO2排出量はほぼゼロであったため、CO2だけが気温上昇の犯人ではないという強力な証拠として引用されることがあります。
さらに、気候モデルの信頼性についても指摘があります。
将来の気温上昇を予測するシミュレーションモデル(気候モデル)は、雲の形成や海洋の熱吸収といった複雑な要素を完全には再現できていないと言われています。実際に観測された気温のデータと、モデルが予測した気温のデータに乖離が生じている期間(ハイエイタス現象など)もあり、過度な危機感を煽るための「誇張された予測」ではないかという疑念が、一部の論文で提示されています。
以下のリンク先では、温暖化の科学的合意に対する異論や、極端な対策への警鐘について詳しく解説されています。
キヤノングローバル戦略研究所:「地球温暖化」のウソに騙されるな(科学的な観点からの懐疑論や欧州のエネルギー事情について解説)
もちろん、これらは主流派の科学に対する反証の一部であり、全ての科学者が脱炭素を否定しているわけではありません。しかし、「脱炭素さえすれば全て解決する」という単純な話ではないこと、そして「科学的根拠」とされるデータの中にも解釈の余地や不確実性が残されていることは、冷静に知っておく必要があります。
次に、「経済的・物理的な側面」から脱炭素の意味を問う論文やレポートに焦点を当ててみましょう。特に日本のような資源の乏しい島国において、無理な脱炭素の推進は国益を損なう可能性があるという指摘がなされています。
再生可能エネルギー(再エネ)への急激な移行に伴うコストの問題は深刻です。
太陽光発電や風力発電は、天候に左右されるため発電量が安定しません。この不安定な電力を補うためには、バックアップとしての火力発電所を維持するか、莫大なコストをかけて蓄電池を大量に導入する必要があります。これらの「統合コスト」を含めて計算すると、再エネは決して安い電源ではありません。
実際に、再エネ賦課金として私たちの電気代にはすでに多額のコストが上乗せされており、これが家計や企業の経済活動を圧迫しています。日本の製造業が高コストを嫌って海外へ流出すれば、国内の産業空洞化を招き、結果として日本経済全体が疲弊してしまいます。
また、ライフサイクルアセスメント(LCA)の視点も重要です。
LCAとは、製品の製造から廃棄までに排出されるCO2の総量を評価する手法です。例えば、電気自動車(EV)は走行中にはCO2を出しませんが、そのバッテリーを製造する過程で大量のエネルギーを消費し、CO2を排出します。また、太陽光パネルも製造時に多くの電力を使い、寿命を迎えた後の廃棄処理には有害物質の管理など多くの課題が残されています。
ある論文では、バッテリー製造時の排出量や、電源構成(その国がどうやって電気を作っているか)まで考慮すると、EVへの移行が必ずしも地球全体のCO2削減に寄与しないケースがあることが指摘されています。特に火力発電への依存度が高い国では、EV化の効果は限定的であり、「脱炭素は意味ない」どころか、かえって環境負荷を高めるリスクさえあるのです。
以下のリンクは、日本のエネルギー政策や脱炭素に向けた経済的な課題について触れている資料です。
みずほリサーチ&テクノロジーズ:脱炭素社会に向けた日本の課題(産業構造への影響やエネルギー転換の難しさについての詳細な分析)
日本は平地が少なく、太陽光パネルを設置できる場所には限りがあります。山を切り崩してメガソーラーを作れば、土砂災害のリスクが高まり、森林によるCO2吸収機能も失われます。本末転倒な環境破壊を引き起こしてまで脱炭素を進めることに、合理的な意味はあるのでしょうか。論文や専門家の指摘は、理想論ではない現実的なエネルギーミックスの必要性を訴えています。
このセクションでは、あまり一般には知られていない、農業分野における「脱炭素の矛盾」について深掘りします。実は、農業の現場、特に施設園芸(ビニールハウスなど)の世界では、CO2は「削減すべきゴミ」ではなく「作物を育てるための貴重な肥料」として扱われています。
植物は光合成によって成長します。
光合成とは、光のエネルギーを使って「CO2」と「水」から炭水化物(栄養)を作り出す反応です。つまり、植物にとってCO2は私たち人間にとっての「お米」や「パン」と同じ主食なのです。大気中のCO2濃度は約400ppm程度ですが、閉め切ったハウス内で植物が光合成を行うと、あっという間にCO2が消費され、濃度が低下してしまいます。CO2濃度が下がると光合成の速度が落ち、作物の生育が悪くなり、収穫量が減ってしまいます。
そこで、プロの農家が行っているのが「CO2施用(施肥)」という技術です。
これは、灯油やプロパンガスを燃焼させて意図的にCO2を発生させ、それをハウス内に送り込む技術です。これにより、ハウス内のCO2濃度を大気の2倍~3倍(800ppm~1000ppm以上)に高め、光合成を促進させて収穫量を大幅にアップさせています。トマトやイチゴ、パプリカなどの栽培では、この技術は常識となっており、品質向上や収量増加に不可欠な要素です。
ここに、「脱炭素」というスローガンとの大きな矛盾が生じます。
農業の現場では、食料を効率よく生産するために「わざわざ燃料を燃やしてCO2を出している」のです。もし、農業分野で厳格な脱炭素を行い、CO2施用を禁止したり、大気中のCO2濃度を極端に下げたりすれば、どうなるでしょうか?
以下のような深刻な影響が懸念されます。
以下のリンクでは、農業におけるCO2の有効利用について解説されています。
キヤノングローバル戦略研究所:農業におけるCO₂の有効利用(CCU)の推進(CO2施肥効果による増収メカニズムと脱炭素との関係性)
もちろん、農業機械の電動化などで排出を減らす努力は必要ですが、植物生理学の観点から見れば、CO2は生命の源です。「CO2=悪」という単純な図式で農業を語ることは危険であり、科学的な論文やデータに基づけば、適度なCO2濃度が地球の緑化(グリーニング)を促進しているという側面も無視できません。脱炭素という言葉が独り歩きし、生物としての植物のニーズを無視することは、本質的な意味での「環境保護」とは言えないのではないでしょうか。
最後に、排出削減の数値目標に潜む「まやかし」と、これからの未来について考えます。
多くの国や企業が「2050年カーボンニュートラル」を掲げていますが、その達成手段の一部には実効性が疑わしいものも含まれています。
その代表例が「カーボンオフセット」や「排出権取引」です。
これは、自分たちが排出したCO2を、他所での削減分や森林吸収分をお金で買って「帳消し」にする仕組みです。しかし、これは数字上の計算でプラマイゼロにしているだけで、実際に排出されたCO2が消えるわけではありません。一部の論文では、このシステムが「排出削減の免罪符」となり、本質的な技術革新や排出削減努力を遅らせていると批判されています。
例えば、途上国の森林保護にお金を払ったとしても、その森林が将来火災で燃えてしまえば、吸収されたはずのCO2は再び大気中に放出されます。このような不確実な「吸収」を根拠に「脱炭素達成」を謳うことは、科学的な誠実さを欠いていると言わざるを得ません。
また、「見せかけの脱炭素」であるグリーンウォッシングの問題も深刻です。
環境に配慮しているようなイメージ広告を打ち出しながら、実態が伴っていない企業活動は後を絶ちません。投資家から資金を集めるためのESG投資(環境・社会・ガバナンスへの投資)が目的化してしまい、実際の環境改善効果よりも、アピール合戦になっている側面があります。これでは、脱炭素は「環境のための活動」ではなく、「ビジネスのためのツール」に成り下がってしまいます。
以下のリンクでは、脱炭素政策の国際的な動向や、それが抱える政治的な背景について触れられています。
環境省:長期低炭素ビジョン小委員会(脱炭素社会に向けた世界の潮流と日本の立ち位置についての公式な議論)
本当に必要なのは、「脱炭素」という言葉に踊らされることではなく、エネルギー効率の向上や省資源化といった、地道で実質的な取り組みです。
「脱炭素は意味ない」という論文が示唆しているのは、決して環境保護を放棄せよということではありません。政治的なパフォーマンスや利権構造に歪められた「行き過ぎた脱炭素」を見直し、科学的データと経済的合理性に基づいた、持続可能な対策へと軌道修正する必要があるということです。
私たち一般市民も、一方的な情報だけでなく、こうした懐疑的な視点やデータを持つ論文にも目を向けることで、バランスの取れた判断ができるようになります。農業におけるCO2の恵み、再エネの隠れたコスト、そして気候変動の自然要因。これら全てを総合的に判断した上で、日本が取るべき道を選択していくことこそが、真に意味のある未来への投資となるはずです。