近年、肥料価格の高騰や環境保全型農業への関心の高まりから、ヘアリーベッチ(マメ科の越年草)を緑肥として水稲栽培に導入する農家が増加しています。このセクションでは、ヘアリーベッチがもたらす最大のメリットである「窒素固定」のメカニズムと、具体的な供給量について深掘りします。
ヘアリーベッチは、他のマメ科緑肥(レンゲなど)と比較しても、圧倒的な窒素固定能力を持っています。その秘密は、根に共生する「根粒菌」の働きと、旺盛な地上部の生育量にあります。
一般的な生育状況(草丈が十分に確保されている状態)における、10アール(1反)あたりの窒素供給量の目安は以下の通りです。
この数値は、一般的な水稲栽培(慣行栽培)で必要とされる基肥(元肥)の窒素量のほぼ全量、あるいはそれ以上をカバーできる量です。つまり、ヘアリーベッチを適切に栽培し、土壌に還元することで、化学肥料の窒素成分を大幅に削減、あるいは「ゼロ」にすることが理論上可能となります。
ヘアリーベッチ由来の窒素は、有機態窒素として土壌に供給され、微生物による分解(無機化)を経て稲に吸収されます。このプロセスは、化学肥料のように即効性があるわけではありませんが、水稲の生育期間を通してじわじわと効き続ける「緩効性」の特徴を持っています。
滋賀県の研究データによると、ヘアリーベッチすき込み後の水稲収量は、慣行の化学肥料栽培と比較して同等、あるいはやや増収となるケースが多く報告されています。これは、単なる窒素供給だけでなく、土壌の団粒化促進や微生物多様性の向上といった「土づくり効果」が複合的に作用していると考えられます。
滋賀県:ヘアリーベッチを活用した水稲栽培の手引き(詳細な窒素計算式や栽培指針が掲載されています)
ヘアリーベッチの能力を最大限に引き出し、水稲へのスムーズな移行を行うためには、適切な時期管理と栽培手順が不可欠です。ここでは、秋の播種から春のすき込みまでの具体的なスケジュールと作業のポイントを解説します。
| 時期 | 作業内容 | ポイント |
|---|---|---|
| 10月上旬〜11月上旬 | 播種 | 稲刈り後、早めに播種します。寒冷地ほど早めが推奨されます。 |
| 11月〜2月 | 生育・越冬 | 初期生育で地面を被覆させ、越冬します。排水対策が重要です。 |
| 3月〜4月 | 旺盛な生育 | 気温上昇とともに急激に生長し、窒素を蓄積します。 |
| 4月下旬〜5月上旬 | すき込み | 田植えの約3週間前に行います。開花期がバイオマス量のピークです。 |
| 5月中旬〜下旬 | 入水・分解 | 土壌中で微生物による分解を促進させます。 |
| 5月下旬〜6月上旬 | 田植え | ガス湧きが収まったのを確認して移植します。 |
ヘアリーベッチは「湿害」に非常に弱い作物です。水稲の裏作として利用する場合、最も失敗しやすいのが「排水不良による発芽不良・生育不良」です。
水稲栽培への切り替え時、大量の有機物を田んぼに入れる「すき込み」作業は、その後の水管理や田植え精度に直結します。
農研機構:緑肥利用マニュアル(ヘアリーベッチの特性や栽培法が網羅的に解説されています)
緑肥利用で最も恐れられるトラブルが、未熟有機物の分解に伴う「ガス害(湧き)」と、それに伴う水稲の根腐れです。
腐熟のプロセスを理解し、適切な対策を講じなければ、逆に減収を招くことになります。
大量の生の植物体(ヘアリーベッチ)を土壌にすき込み、すぐに入水して酸素を遮断すると、土壌微生物が有機物を分解する過程で急激に酸素を消費し、土壌が強い「還元状態」になります。この時、以下のような有害物質が発生します。
これらのガス害を防ぐための鉄則は、「すき込みから田植えまでの期間(腐熟期間)を十分に確保すること」です。
ヘアリーベッチは茎が繊維質であるため、分解が不十分だと入水後の代掻き時に、分解しきれなかった茎や葉が水面に浮き上がってきます。これを「ウワカス」と呼びます。
農林水産省:環境負荷低減に資する栽培技術集(ガス害対策やすき込み時期の目安が記載されています)
農業経営において、肥料コストの削減は喫緊の課題です。ヘアリーベッチ緑肥の導入は、種子代という新たなコストが発生するものの、トータルでのコストバランスはどうなるのでしょうか。ここでは、具体的な数字を用いて減肥による経済効果を試算します。
※価格は市場変動しますが、近年の肥料高騰を考慮した概算値です。
| 項目 | 慣行栽培(化学肥料のみ) | 緑肥栽培(ヘアリーベッチ) | 差額・備考 |
|---|---|---|---|
| 種子代 | 0円 | 約5,000円〜6,000円 | 播種量3〜4kg想定 |
| 基肥(一発肥料等) | 約8,000円〜10,000円 | 0円 | 全量代替可能(状況による) |
| 追肥(穂肥) | 約2,000円 | 約2,000円 | 生育状況により必要 |
| 播種労賃 | 0円 | (自家労賃) | 散布・覆土の手間増 |
| 施肥労賃 | (自家労賃) | 0円 | 基肥散布の手間減 |
| 合計(現金支出) | 約10,000円〜12,000円 | 約7,000円〜8,000円 | 約3,000円〜4,000円の削減 |
上記の直接的なコスト比較に加え、以下のような間接的なメリットも経営に寄与します。
種子代は前払いの現金コストとなるため、キャッシュフローには注意が必要です。また、湿害などでヘアリーベッチの生育が失敗した場合、急遽化学肥料を購入しなければならず、二重コストになるリスクもあります。「まずは一部の田んぼから試験導入する」のが賢明なアプローチです。
農林水産省関連資料:肥料コスト低減技術マニュアル(緑肥活用による具体的なコスト削減事例が紹介されています)
ヘアリーベッチは「天然の除草剤」とも呼ばれるほど、強力な抑草(雑草抑制)効果を持っています。この効果は、単に地面を覆う物理的な遮光だけでなく、植物が本来持っている化学的な作用(アレロパシー)によるものです。ここでは、そのメカニズムと実際の効果について解説します。
ヘアリーベッチが雑草を抑える主要な要因として、「シアナミド」という物質が関与していることが研究により明らかになっています。
アレロパシーに加え、圧倒的なバイオマスによる物理的な被覆効果も強力です。
ヘアリーベッチがつるを伸ばして地面を密に覆うことで、太陽光が遮断されます。これにより、春先に発生するホトケノザ、ヒメオドリコソウ、スズメノテッポウなどの冬雑草の発芽・生育をほぼ完璧に抑え込むことができます。
しかし、万能ではありません。以下の点には注意が必要です。
農研機構:ヘアリーベッチのアレロパシーによる雑草の制御技術(科学的メカニズムについての詳細な研究成果)