稲作において、苗作りは「苗半作」と言われるほど重要ですが、そこで発生する最も厄介な病気の一つが馬鹿苗病です。この病気の最大の特徴は、感染した苗が通常の苗よりもひょろひょろと長く伸びてしまう「過徒長」という現象にあります。これは、単なる栄養不足や日照不足による徒長とは根本的に異なります。
原因となるのは、糸状菌(カビの一種)である「ジベレラ・フジクロイ(Gibberella fujikuroi)」です。この菌は、植物ホルモンの一種である「ジベレリン」を大量に生成・放出する能力を持っています。通常、植物体内のジベレリン濃度は厳密に制御されており、適切な時期に適切な伸長を促す役割を果たしています。しかし、馬鹿苗病菌に感染すると、菌が勝手に生成した過剰なジベレリンが苗の組織に送り込まれます。
これにより、細胞の伸長成長が異常に促進され、葉色が薄く(淡黄色)、茎が細く、背丈だけが高い「馬鹿苗」となってしまいます。重度の場合は苗の段階で枯死しますが、生き残ったとしても本田移植後に枯れたり、出穂しても中身が入らない「しいな」になったりします。さらに厄介なことに、本田で発病した株には大量の分生子が形成され、開花期の健全な籾に付着して、次年度の種子伝染の源となります。
農研機構によるイネ馬鹿苗病菌と胞子の詳細な画像資料(PDF)
ここでは、実際の感染株の様子や、顕微鏡レベルでの菌の形状などが詳細に解説されており、初期診断の参考になります。
馬鹿苗病は「種子伝染性病害」であるため、最も効果的な対策は播種前の「種子消毒」です。一度発病してしまうと、治療することはほぼ不可能です。したがって、菌を種子から完全に除去することが防除の全てと言っても過言ではありません。近年、環境保全型農業の観点や、薬剤耐性菌の問題から、化学農薬を使わない「温湯消毒」が非常に注目され、広く普及しています。
温湯消毒の基本条件は「60度のお湯に10分間」浸漬することです。この条件は、イネの種籾が死滅せず、かつ馬鹿苗病菌や他の主要な種子伝染性病原菌(いもち病菌、もみ枯細菌病菌など)を殺菌できるギリギリのラインを突いています。温度管理が甘いと効果が出ず、逆に温度が高すぎたり時間が長すぎたりすると発芽率が著しく低下します。
【温湯消毒の厳密な手順と注意点】
温湯消毒だけで不安な場合や、重度の汚染が疑われる場合は、生物農薬(トリコデルマ菌など)との併用や、温湯処理後の薬剤処理を組み合わせる体系防除が推奨されます。
広島県による水稲種子の温湯消毒手順の完全マニュアル(PDF)
温度と時間の関係、処理後の冷却の重要性、さらには乾燥方法まで、失敗しないための具体的なフローチャートが掲載されています。
長年、馬鹿苗病の防除には化学農薬が使われてきましたが、同じ系統の薬剤を使い続けることで、その薬剤が効かない「耐性菌」が出現し、全国的な問題となっています。特に、DMI剤(ステロール脱メチル化阻害剤)やQoI剤(ストロビルリン系)に対する耐性菌の報告が多く、防除の失敗事例が後を絶ちません。
薬剤を使用する場合は、以下のポイントを遵守し、耐性菌の増殖を防ぐ必要があります。
| 薬剤系統 | 作用機作 | 耐性リスク | 備考 |
|---|---|---|---|
| DMI剤 | エルゴステロール生合成阻害 | 高い | トリフルミゾール、ペフラゾエートなど。連用を避ける。 |
| QoI剤 | ミトコンドリア呼吸阻害 | 高い | アゾキシストロビンなど。耐性菌が出現しやすい。 |
| SDHI剤 | コハク酸脱水素酵素阻害 | 中〜高 | 比較的新しい系統だが、既に耐性報告あり。 |
| MBC剤 | チューブリン重合阻害 | 極めて高い | ベノミルなど。古くから耐性菌が確認されている。 |
【ローテーション防除の徹底】
毎年同じ薬剤を使うのではなく、作用機作(モード・オブ・アクション)が異なる薬剤をローテーションで使用します。例えば、今年はDMI剤を使用したなら、来年はSDHI剤や生物農薬を使用する、といった具合です。また、地域ですでに発生している耐性菌の情報を、最寄りのJAや普及指導センターで確認することが必須です。「去年効いたから今年も大丈夫」という考えは非常に危険です。
さらに、種子消毒剤だけでなく、本田での散布剤(いもち病防除など)の影響も受けることがあります。育苗期から本田期までを含めたトータルの防除体系を見直す必要があります。近年では、微生物由来の生物農薬(非病原性菌による競合作用などを利用したもの)が、耐性菌リスクの低い資材として注目されています。これらは化学農薬と異なり、耐性が発達しにくいため、ローテーションの柱として有効です。
薬剤耐性菌の出現メカニズムと対策に関する研究論文(PDF)
なぜ耐性菌が生まれるのか、そして具体的にどのような薬剤体系を組めばよいのか、科学的なエビデンスに基づいた詳細なデータが確認できます。
このセクションでは、多くの栽培マニュアルでは語られない、しかし日本人として知っておくべき「独自の視点」を紹介します。実は、「ジベレリン」という植物ホルモンの発見は、この馬鹿苗病の研究がきっかけであり、日本の科学者が世界に誇る偉大な業績なのです。
物語は1920年代、日本統治時代の台湾に遡ります。当時、台湾総督府農事試験場の技師であった黒澤英一(くろさわ えいいち)氏は、イネ馬鹿苗病の原因解明に取り組んでいました。彼は、病原菌そのものがイネの中にいなくても、菌を培養した液体をイネにかけるだけで、典型的な馬鹿苗病の症状(異常な徒長)が再現されることを発見しました。これは、菌が何らかの「毒素」あるいは「物質」を分泌し、それがイネを伸ばしていることを示唆する画期的な発見でした(1926年発表)。
その後、東京大学の薮田貞治郎氏と住木諭介氏らがこの物質の結晶化に成功し、馬鹿苗病菌の学名 Gibberella fujikuroi にちなんで「ジベレリン(Gibberellin)」と命名しました(1935年・1938年)。
【なぜこれがすごいのか?】
馬鹿苗病は農家にとって憎むべき病害ですが、そのメカニズムの解明が、皮肉にも人類の食糧生産に大きく貢献することになりました。この歴史を知ることで、単なる防除対象としてだけでなく、植物の生命現象の不思議さを感じることができるでしょう。
黒澤英一とジベレリン発見の歴史的経緯に関する詳細資料(PDF)
台湾での研究生活や、発見当時の興奮、そしてその後の世界的な評価に至るまでのドラマチックな経緯が記されています。
万全を期して種子消毒を行っても、残念ながら本田で馬鹿苗病が発生してしまうことがあります。その場合、翌年への被害拡大を防ぐために徹底的な「抜き取り」と「採種禁止」が必要です。
本田で異常に背の高い株を見つけたら、直ちに抜き取って圃場外へ持ち出し、処分します。この際、単に引き抜くだけでなく、周辺の土ごと除去するのが理想的です。なぜなら、発病株の節からは無数の胞子が飛散しており、隣接する健全な株の花に付着して感染させるからです。特に、出穂期以降の感染は見かけ上は健全な籾に見えても、内部に菌糸が侵入している「保菌種子」となり、翌年の大発生の原因となります。
【本田管理のチェックリスト】
馬鹿苗病は「1粒の感染種子から広がる」と言われるほど感染力が強い病気です。翌年の苗作りの成功は、今年の本田管理にかかっています。「少しぐらい大丈夫だろう」という油断が、地域全体への蔓延を招く恐れがあるため、厳格な対応が求められます。
本田における発病株の除去効果と次年度発生率のデータ(PDF)
抜き取りを行った場合と行わなかった場合で、次年度の種子保菌率にどれほどの差が出るかが数値で示されており、抜き取りの重要性が理解できます。