農業経営において、自家採種を行うかどうかの判断は、栽培する作物の品種特性を深く理解することから始まります。特に固定種(在来種)とF1種(一代交配種)の違いは、収益構造と作業体系に直結する重要な要素です。
F1種は、異なる親系統を交配させることで発現する「雑種強勢」を利用しており、生育の均一性や収量の多さ、特定の病害虫への抵抗性が強みです 。市場出荷型の慣行農業では、規格の揃った農産物を安定供給するためにF1種が主流となっています。しかし、F1種から自家採種を行うと、メンデルの法則に従って次世代(F2)で形質が分離し、親と同じ品質のものが揃わなくなるため、基本的には毎年種を購入する必要があります 。
一方、固定種は、数世代にわたって選抜淘汰を繰り返すことで形質が安定した品種です。自家採種を行っても親と同じ特性を持つ次世代が育つため、種苗コストを抑えることが可能です 。固定種の最大のメリットは「遺伝的多様性」と「環境適応性」にあります。特定の地域や土壌環境で繰り返し採種することで、その土地の気候風土に合った「自家製品種」へと進化させることができます 。
参考)自家選抜・自家採種のススメ。自分の畑、栽培方法に合うタネを得…
農業のプロフェッショナルとしては、これらを二項対立で捉えるのではなく、経営戦略に応じて使い分ける技術が求められます。例えば、主力商品として大量出荷する品目にはF1種を用いてリスクを分散し、直売所向けやレストラン契約栽培などの高付加価値商品には固定種を用いて独自のストーリーを付加するといったポートフォリオが有効です。また、近年ではF1種からあえて採種を行い、数年かけて形質を固定化していく高度な育種技術に挑戦する農家も現れており、独自のオリジナル品種開発への道も開かれています 。
参考)F1種から種取り成功への全ガイド
自家選抜・自家採種のススメ | カクイチ
参考:自家採種による環境適応のメリットや、畑に合うタネを育てるための基本的な考え方が解説されています。
2022年4月に完全施行された改正種苗法は、多くの農業者に誤解や不安を与えましたが、その核心は「育成者の権利保護」と「日本の新品種の海外流出防止」にあります 。実務上、最も注意すべきは、栽培している品種が登録品種(PVP)か、それ以外の一般品種かという区分です。
参考)種苗法で自家採種はどう変わる? - 農業メディア│Think…
登録品種とは、国に品種登録され、育成者権が存在する品種のことです。改正法により、登録品種を自家採種(自家増殖)する場合は、育成者権者の許諾が必要となりました 。これに違反した場合、権利侵害として損害賠償請求や差止請求の対象となる可能性があります。一方で、在来種や品種登録されていない品種、登録期間が満了した品種などの「一般品種」については、従来通り自由に自家採種が可能であり、何ら制限はありません 。
参考)翔栄ファーム│コラム:種苗法改正により自家採種はどうなるので…
農業者が現場で取るべきアクションは以下の通りです。
法改正は「自家採種禁止」を意味するものではありません。正しい知識を持ち、法的なリスクを管理しながら採種を行うことが、持続可能な農業経営の基盤となります。
種苗法の改正について | 農林水産省
参考:改正種苗法の詳細、農業者が行うべき手続き、Q&Aなどが網羅的に掲載されている公式情報源です。
自家採種の成功率を高め、品種の特性を維持・向上させるためには、交雑の回避と厳格な選抜、そして適切な保存管理が不可欠です。これらは種苗会社が行っている専門技術ですが、農業現場でもその原理を応用することで、高品質な種子を確保できます。
まず、交雑対策です。他殖性作物(アブラナ科、ウリ科など)は、虫や風によって他の品種の花粉が運ばれやすく、容易に交雑します 。交雑すると、期待した形質が得られないばかりか、商品価値のない作物ができてしまうリスクがあります。
参考)固定種・在来野菜を守りたい人必見!自家採種のやり方と工夫した…
具体的な回避策として、以下の3点(空間的・時間的・物理的隔離)を徹底します。
次に、選抜です。単に種を採るだけでなく、品種本来の特性を備え、かつ病気に強く生育の良い個体を選び抜くプロセスが重要です。「あえて厳しい環境で生き残った株」や「最も典型的な形状をした実」から採種することで、次世代の品質が向上します。逆に、生育が極端に早すぎるもの(抽苔のリスクがある)や、病斑のある株は徹底的に排除(ローギング)します 。
最後に、保存です。種子の寿命は保管環境に大きく左右されます。基本は「低温・低湿」です。茶筒や密閉容器に乾燥剤(シリカゲル)と共に入れ、冷蔵庫の野菜室(約5〜10℃)で保管するのが一般的です。十分に乾燥していない(水分含量が高い)状態で密閉すると、カビや腐敗の原因となるため、採種後は風通しの良い日陰で十分に乾燥させることが重要です(天日干しは種子温度が上がりすぎる場合があるため注意が必要です) 。
参考)自家採種_現代農業用語集
自然農の自家採種 メリットとデメリット | 自然農チャレンジ
参考:交雑のリスクや具体的な防ぎ方、選抜による環境適応の実践知が詳しく紹介されています。
自家採種を導入する最大の動機の一つは、生産コストの削減です。特に近年の資材高騰の中で、種苗費は経営を圧迫する要因となり得ます。例えば、F1種の種子は高度な育種技術の結晶であるため高価ですが、自家採種可能な固定種に切り替え、自給体制を構築できれば、この変動費を「労務費(固定費)」に転換することができます 。
参考)自然農の自家採種 メリットとデメリット
試算において重要なのは、単なる「種代 0円」という表面的な数字ではなく、採種にかかる人件費、圃場の占有期間、調整・保管コストを含めたトータルコストでの評価です。
自家採種のコスト構造を分解すると以下のようになります。
参考)https://www.shuminoengei.jp/?m=pcamp;a=page_tn_detailamp;target_xml_topic_id=textview_18630
経営的な最適解は、全ての作物を自家採種にするのではなく、「種代が高く、採種が容易な品目」や「他では手に入らない差別化品種」から戦略的に導入することです。また、自家育苗と組み合わせることで、苗購入費も同時に削減し、初期生育のコントロール精度を高めることで、最終的な歩留まり向上(収益増)につなげるアプローチも有効です 。
参考)農家の種苗費を安くする・節約する方法
農家の種苗費を安くする・節約する方法 | モレクル
参考:種苗費の圧縮に向けた具体的な計算式や、自家育苗と購入苗のコスト比較、経営視点での最適化手法が解説されています。
自家採種は、単なるコストダウンの手法にとどまらず、農産物のブランディングと気候変動適応という、攻めの経営戦略の中核を担う可能性を秘めています。ここには、検索上位の一般的なハウツー記事ではあまり語られない、プロフェッショナルならではの視点があります。
まず、ブランディングの観点です。市場に流通するF1種由来の野菜は、全国どこでも均一な品質が保証されていますが、裏を返せば「どこでも同じ味」になりがちです。一方、特定の農場で長年自家採種された作物は、その土地特有の土壌微生物や微気象に適応し、他にはない独自の風味や食感を持つようになります 。
参考)https://www.mdpi.com/2071-1050/10/11/4186/pdf?version=1542173430
これを「○○農園だけのオリジナル品種」「この土地でしか育たない味」としてストーリー化することで、一般的な市場価格競争から脱却し、高付加価値商品として販売することが可能です。実際に、伝統野菜や地方野菜のブランド化成功事例の多くは、種を守り継ぐ生産者の物語が消費者の共感を呼んでいます 。飲食店や実需者に対しても、「シェフのためだけに種を採り継いでいる」という提案は、強力な差別化要因となります。
参考)伝統野菜のブランド化に成功した5つの事例と戦略 |日本の伝統…
さらに、気候変動への適応という科学的な側面も見逃せません。植物には、DNAの配列変化を伴わずに遺伝子発現のスイッチを切り替える「エピジェネティクス」という仕組みがあり、環境ストレス(高温、乾燥など)の記憶を次世代に継承する能力があることが近年の研究で示唆されています 。
参考)https://www.jica.go.jp/activities/issues/agricul/jipfa/__icsFiles/afieldfile/2025/09/16/forum_06_02_05_01_01.pdf
つまり、年々厳しくなる気象条件の中で生き残り、実をつけた株から採種し続けることは、その過酷な環境に耐えうる形質(耐暑性や乾燥耐性など)を獲得した種子を「育成」していることと同義です。購入種子では毎年リセットされてしまうこの「環境への学習効果」を蓄積できるのは、自家採種を行う生産者だけの特権です。
「異常気象に強い強靭な農業」を構築し、かつ「唯一無二のプロダクト」を生み出す。この二重のメリットこそが、現代農業において自家採種に取り組む真の意義と言えるでしょう。
エピジェネティクス技術を用いた高温・干ばつ下での栽培適応策 | JICA
参考:植物が環境ストレスを記憶し次世代に伝えるメカニズムや、それを農業に応用する先端技術についての専門資料です。