農業の現場で長年愛用されている有機リン系殺虫剤ですが、その作用機序(虫が死ぬ仕組み)を正確に理解している人は意外と少ないかもしれません。有機リン系薬剤は、昆虫の神経系にある酵素「アセチルコリンエステラーゼ」の働きを阻害することで効果を発揮します。
通常、昆虫(そして人間などの哺乳類も)の神経伝達には「アセチルコリン」という物質が使われます。神経の命令が次の神経に伝わった後、このアセチルコリンは速やかに分解されなければなりません。その分解役を担うのがアセチルコリンエステラーゼです。有機リン剤はこの酵素と強力に結びつき、その働きを止めてしまいます。
結果として、分解されずに溜まったアセチルコリンが神経を過剰に刺激し続けます。これにより、害虫は異常な興奮状態に陥り、痙攣(けいれん)や麻痺を起こし、最終的に死に至ります。これが「神経毒」と呼ばれる所以です。この作用は即効性が高く、散布してすぐに虫がポトポトと落ちる「ノックダウン効果」が見込めるため、大発生した害虫を緊急で叩く際に非常に頼りになります。
しかし、このメカニズムは人間も持っている共通のものです。そのため、人間が大量に吸い込んだり触れたりした場合も、同様に神経系の異常(縮瞳、発汗、吐き気など)を引き起こすリスクがあります。これが「有機リン系は毒性が強い」と言われる科学的な理由です。ただし、近年の製剤は人間などの哺乳類に対しては体内で速やかに分解・解毒されるよう改良が進んでおり、用法用量を守れば安全に使用できるよう設計されています。
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ホームセンターや農協で必ず目にする「スミチオン」や「マラソン」。これらは全て有機リン系ですが、それぞれの特徴を理解して使い分けることで、防除効率は劇的に変わります。また、オルトランのように浸透移行性を持つかどうかも重要な選定基準です。
主な有機リン系殺虫剤の特徴と使い分けを整理しました。
| 薬剤名(成分名) | 特徴と使い分けのポイント | 浸透移行性 |
|---|---|---|
| マラソン乳剤(マラソン) | 【家庭菜園の王道】野菜から果樹まで登録作物が非常に広いのが特徴です。毒性が比較的低く、分解が早いため、収穫までの期間が短い作物にも使いやすいです。アブラムシやハダニなど広範囲の害虫に効きますが、残効性は短めです。 | ほぼ無し(接触・食毒) |
| スミチオン乳剤(MEP) | 【プロ農家の定番】マラソンよりもさらに殺虫スペクトルが広く、カメムシ類やシンクイムシ類など、硬い虫や内部に入り込む虫にも効果が高いです。植物体組織への浸透力がややあり、葉の裏にいる虫にも効きやすいですが、アブラナ科や特定の果樹品種(高温時の散布など)で薬害が出やすい点に注意が必要です。 | わずかにあり(深達性) |
| オルトラン(アセフェート) | 【手間いらずの持続型】最大の特徴は強力な浸透移行性です。根や葉から吸収された成分が植物全体に行き渡り、汁を吸った虫や葉を食べた虫を退治します。効果が長持ちするため、予防的な散布に適していますが、収穫直前の使用には制限が多い場合があります。 | あり(強力) |
| DDVP(ジクロルボス) | 【ガス効果の即効型】気化しやすく、薬剤がガスとなって隙間に潜む害虫に届きます(蒸散作用)。ビニールハウス内での燻煙処理などで威力を発揮しますが、残効性は極めて短く、吸入毒性に特に注意が必要です。 | なし(蒸散・接触) |
このように、同じ有機リン系でも「今すぐ目の前の虫を殺したいならマラソンやDDVP」「作物を守り続けたいならオルトラン」といった使い分けが重要です。特にオルトラン粒剤などは定植時に撒くだけで初期防除ができるため、省力化に貢献します。一方で、スミチオンとマラソンを混用して「スミマラ」として販売されている製剤もあり、両者のメリット(即効性とスペクトルの広さ)を掛け合わせた使い方も一般的です。
「最近、スミチオンが効かなくなった気がする」…そう感じたことはありませんか?それは害虫が薬剤に対する抵抗性を獲得しているサインかもしれません。ここで農業従事者が絶対に知っておかなければならないのが、IRAC(アイラック:殺虫剤抵抗性対策委員会)の作用機構分類コードです。
有機リン系殺虫剤は、IRACコードの「1B」に分類されます。抵抗性対策の基本は「異なるコードの薬剤をローテーション散布する」ことですが、ここで多くの人が陥る罠があります。それは「カーバメート系(コード1A)」との関係です。
ご覧の通り、有機リン系(1B)とカーバメート系(1A)は、実は「作用点が全く同じ」なのです。これを「交差抵抗性」と呼びます。つまり、有機リン系が効かなくなった害虫に対して、「種類を変えよう」と思ってカーバメート系(デナポンやランネートなど)を散布しても、効果が薄い可能性が高いのです。
正しいローテーションの例:
特にアブラムシやハダニ、コナガといった世代交代が早い害虫は、同じ系統の薬剤を使い続けるとあっという間に生き残った強い個体だけで繁殖してしまいます。農薬のラベルやWebサイトで必ず「IRACコード」を確認し、数字が異なるものを選ぶ習慣をつけましょう。これが「薬が効かない」という悩みを解決する最短ルートです。
農薬の作用機構分類表(JCPA農薬工業会) - IRACコードを確認してローテーション防除を実践
近年、「有機リン系は危険だから世界中で禁止されている」という情報をインターネットで見かけることがあります。確かにEU(欧州連合)では、予防原則の観点からクロルピリホスなどの有機リン系殺虫剤の多くが登録抹消や厳格な規制対象となっています。これには、子供の脳の発達への影響(発達神経毒性)に対する懸念が強く反映されています。
では、なぜ日本では未だにホームセンターで普通に売られ、農業現場で重宝されているのでしょうか?「日本が農薬大国で、基準が甘いから」という単純な話ではありません。そこには、日本特有の気候と害虫事情、そしてリスク評価の考え方の違いがあります。
日本はアジアモンスーン気候に属し、欧州に比べて圧倒的に害虫の種類と発生数が多い国です。特にカメムシ類やカイガラムシ類など、吸汁性害虫の被害は深刻です。これらを効果的に、かつ経済的に防除できる薬剤として、有機リン系は代えがたい地位にあります。もし有機リン系を全廃すれば、農作物の生産コストが跳ね上がり、安定供給が困難になるリスクがあります。
EUは「ハザードベース(危険性が少しでもあるなら疑わしきは排除)」という予防原則を強く採用する傾向があります。一方、日本やアメリカは「リスクベース(実際にどれくらいの量を摂取すると危険か、使用方法で暴露を減らせるか)」という科学的評価に基づいて基準を設定しています。日本の残留農薬基準は、一日摂取許容量(ADI)に基づき、毎日一生食べ続けても健康に影響がないレベルよりもさらに低く設定されており、適切に使用される限り安全性は担保されています。
前述の通り、特定の薬剤(例えばネオニコチノイド系だけ)に頼るとすぐに抵抗性がつきます。有機リン系という「強力な選択肢」を残しておくことは、IPM(総合的病害虫・雑草管理)の観点からも、薬剤の寿命を延ばすために必要なのです。
もちろん、世界的な動向として、より毒性の低い薬剤へのシフトは進んでいます。しかし、「EUで禁止=日本でも即危険」と短絡的に結びつけるのではなく、日本の栽培環境において必要な資材を、適正な基準で管理して使うという視点が重要です。
有機リン系殺虫剤を使用する際、最も気を付けなければならないのが使用者自身の安全と、作物への薬害です。
【中毒症状と対処】
有機リン剤の中毒症状は特徴的です。もし散布中や散布後に以下のような異変を感じたら、直ちに作業を中止し、医師の診断を受けてください。
病院へ行く際は、必ず「使用していた農薬のボトル(ラベル)」を持参してください。有機リン系中毒には「PAM(パム)」や「アトロピン」という特異的な解毒剤が存在します。医師が薬剤の種類を特定できれば、適切な処置で重症化を防ぐことができます。
【混用における注意点】
農作業の効率化のために、殺菌剤や液肥と混ぜて散布(混用)することはよくあります。しかし、有機リン系には「アルカリ性に弱い」という弱点があります。
【薬害の落とし穴】
「登録があるから大丈夫」と過信は禁物です。有機リン系は特定の条件下で激しい薬害(葉焼けや変色)を起こします。
有機リン系殺虫剤は、安価で切れ味が鋭い「農家の刀」です。しかし、その刃は使い方を誤れば自分や作物を傷つける諸刃の剣でもあります。最新の知見と基本のルールを守り、賢く付き合っていくことが、持続可能な農業への第一歩です。

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