植物が不調を訴えるとき、それが「病害虫」によるものなのか、それとも「生理障害」によるものなのかを見極めることは、農業の現場において最も重要な初期対応の一つです。生理障害とは、病原菌やウイルス、害虫が原因ではなく、栄養素の過不足や温度、光、水などの環境要因によって植物の代謝が正常に行われなくなる状態を指します。これを病気と勘違いして薬剤を散布しても効果がないばかりか、かえって植物にストレスを与えてしまうことがあります。
診断の最初のステップは、症状の出方を観察することです。一般的に、生理障害には以下のような特徴的なパターンが見られます。
あまり知られていない意外な事実として、「潜在的欠乏(ヒドゥンハンガー)」という状態があります。これは、目に見える症状(可視的な障害)が現れるずっと前から、植物体内では栄養不足による代謝異常が起きており、収量や品質が低下し始めている現象です。葉の色が変わってから対処するのではなく、定期的な土壌診断や葉柄汁液分析を行うことが、プロの栽培管理では求められます。
農林水産省のウェブサイトでは、主要な野菜の生理障害に関する画像付きのデータベースが公開されており、現場での診断に非常に役立ちます。
農林水産省:病害虫・生理障害情報(野菜ごとの詳細な画像診断ガイド)
植物の生育に不可欠な多量要素(窒素、リン酸、カリウム)と、中量・微量要素(カルシウム、マグネシウム、鉄、マンガン、ホウ素など)は、それぞれのバランスが崩れることで特有の生理障害を引き起こします。ここでは、単なる不足だけでなく、現代農業で問題になりやすい「過剰」による弊害と、要素間の「拮抗作用」について深掘りします。
| 要素 | 欠乏時の症状 | 過剰時の症状・影響 |
|---|---|---|
| 窒素 (N) | 植物全体が小さくなり、古い葉から黄色く変色(黄化)します。生育が停滞し、収量が激減します。 | 葉色が濃すぎる緑になり、葉が過繁茂します。細胞壁が薄くなり、病害虫に対する抵抗力が低下します。また、カルシウムの吸収を阻害することがあります。 |
| リン酸 (P) | 葉が暗緑色になり、古い葉が紫色(アントシアン色素)を帯びることがあります。根の伸長が悪くなります。 | 直接的な過剰障害は出にくいですが、亜鉛や鉄、マグネシウムなどの微量要素の吸収を阻害し、それらの欠乏症を誘発します。 |
| カリウム (K) | 古い葉の縁が黄色くなり、やがて枯れ込みます(葉縁枯れ)。果実の肥大が悪くなります。 | マグネシウム(苦土)やカルシウム(石灰)の吸収を強力に阻害します(拮抗作用)。カリ過剰はトマトの尻腐れ症の間接的な原因になります。 |
| カルシウム (Ca) | 新芽や成長点が枯死したり、果実の先端が黒く腐る(トマトの尻腐れなど)症状が出ます。 | 土壌がアルカリ化し、鉄やマンガン、ホウ素などの微量要素が不溶化して吸収できなくなります。 |
| マグネシウム (Mg) | 古い葉の葉脈間が黄色くなりますが、葉脈の緑色は残ります(虎狩り症状)。光合成能力が低下します。 | カルシウムやカリウムの吸収バランスを崩しますが、単独での過剰害は比較的少ないです。 |
特に注意が必要なのは、上記の表にもある「拮抗作用(アンタゴニズム)」です。例えば、トマト栽培で「尻腐れ果」が出た場合、単純にカルシウム不足だと判断して石灰を追肥することがあります。しかし、土壌分析をしてみるとカルシウムは十分に存在しているにもかかわらず、カリウムやアンモニア態窒素が過剰に含まれているために、根がカルシウムを吸収できていないケースが非常に多いのです。この場合、石灰を足すことは無意味であり、むしろ土壌バランスをさらに悪化させる原因になります。
また、微量要素の欠乏は、土壌中にその成分がないことよりも、土壌pH(酸度)が不適切であるために起こることが大半です。例えば、pHが高く(アルカリ性に)なりすぎると、鉄、マンガン、亜鉛は土壌中で水に溶けない形に変化してしまい、根から吸収できなくなります。逆にpHが低すぎる(酸性)と、アルミニウムが溶け出して根を傷めたり、モリブデンが吸収できなくなったりします。
高知県農業技術センターが提供している情報は、施設園芸における生理障害の対策として非常に具体的で権威があります。
高知県農業技術センター:施設野菜の生理障害対策マニュアル(土壌肥料と環境制御の視点)
生理障害は、土壌中の栄養素の問題だけでなく、温度、湿度、光線量などの「環境ストレス」によっても頻繁に引き起こされます。特に近年は異常気象による高温や日照不足が頻発しており、環境制御の失敗が生理障害の主因となっているケースが増えています。
具体的な環境ストレス要因とその対策は以下の通りです。
意外な情報として、「曇天続きの後の急な晴天」が最も危険であるという事実があります。曇天に慣れて軟弱化した組織に、急激な強い光と高温が当たると、葉焼けや萎れ(ウィルティング)が一気に発生します。これを防ぐには、天候回復時にあえて一時的に遮光するなど、環境変化のショックを和らげる「馴化(じゅんか)」のプロセスが必要です。
※このセクションでは、検索上位の記事ではあまり触れられていない、土壌生物学的な視点からの独自のアプローチを紹介します。
これまでの生理障害対策は、肥料成分の化学的な調整(バランス)に主眼が置かれてきました。しかし、最新の農業研究では、植物の根と共生する「根圏微生物」の働きが、生理障害の予防に決定的な役割を果たしていることが明らかになってきています。
植物の根は、単に養分を吸うだけのストローではありません。根からは「根酸」や「糖類」などの有機物が分泌されており、これが特定の微生物(根圏微生物)を引き寄せ、活性化させます。健全な根圏環境は、以下のようなメカニズムで生理障害を防ぎます。
「根腐れ」も一種の生理障害(酸素欠乏)から始まりますが、これは単なる水はけの問題だけでなく、土壌中の腐敗菌の増殖が関与しています。対策として、完熟堆肥や腐植酸資材を投入し、土壌の団粒構造を発達させることで、酸素の通り道を確保しつつ、有用微生物の住処を作ることが根本治療となります。
生理障害対策として、単に「足りない要素を足す」という対症療法から、「根が自ら養分を獲得できる環境(根圏)を整える」というバイオロジカルなアプローチへ視点を切り替えることが、持続可能で失敗の少ない栽培への近道です。
タキイ種苗の専門情報サイトでは、根の重要性と生理障害の関連について、非常に実践的な解説がなされています。
タキイ種苗:野菜の病害虫・生理障害(根の環境改善を含めた総合対策)