農業の現場において、健全な苗作りは「苗半作(なえはんさく)」と言われるほど、その年の収量を決定づける極めて重要な工程です。特に、種籾(たねもみ)の段階での適切な処理は、後の病害虫発生を抑え、農薬使用量を削減するために欠かせません。
国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)などの公的研究機関は、環境負荷を低減しつつ安定した収量を確保するための種子消毒技術や選別方法を確立し、マニュアル化しています。ここでは、農研機構が推奨する技術や知見に基づき、プロの農業従事者が実践すべき種籾の下処理から浸種、病気対策までの工程を深掘りして解説します。単なる作業手順だけでなく、なぜその処理が必要なのかという科学的根拠や、意外と見落とされがちなポイントも含めてご紹介します。
近年、環境保全型農業(エコ農業)への関心の高まりや、薬剤耐性菌の出現により、化学農薬を使わない「温湯消毒(おんとうしょうどく)」が標準的な技術として定着しつつあります。農研機構が普及を進めるこの技術は、単にお湯に漬けるだけではなく、温度と時間の厳密な管理が求められる繊細な工程です。
温湯消毒は、種籾に付着あるいは内部に潜む病原菌と、種籾(イネの種子)自身の「熱に対する耐性の差」を利用した物理的防除法です。一般的に、イネの種籾は乾燥状態であれば比較的高温に耐えられますが、病原菌(いもち病菌、バカ苗病菌、イネシンガレセンチュウなど)は60℃前後の熱で死滅します。
標準的な処理条件は「60℃のお湯に10分間浸漬」です。この条件を守ることで、以下の病害虫に対して農薬と同等の防除効果が期待できます。
しかし、近年問題となっている「バカ苗病」の強力な菌株や、種子の内部深くに侵入した菌に対しては、60℃処理だけでは不十分なケースが報告されています。ここで重要になるのが、農研機構が開発した「事前乾燥を取り入れた高温温湯消毒」という応用技術です。
通常の種籾(水分14〜15%程度)を60℃以上の高温に長時間さらすと、発芽率が低下するリスクがあります。しかし、農研機構の研究により、種籾の水分含有率を10%以下まで「事前乾燥」させることで、種子の高温耐性が飛躍的に高まることが明らかになりました。
水分を減らした種籾であれば、「65℃・10分間」という、より過酷な条件での消毒が可能になります。この5℃の差が決定的な違いを生み、従来防除が難しかったバカ苗病に対しても高い殺菌効果を発揮します。
参考リンク:農研機構 種子生産のための最新技術マニュアル(P.23 温湯消毒技術の解説)
温湯消毒において、加熱と同じくらい重要なのが処理直後の「冷水による急冷」です。指定の時間(10分)が経過したら、直ちに冷水(流水または大量の冷水)に浸し、種籾の余熱を取り除く必要があります。余熱が残っていると、種子の胚が必要以上に加熱され、発芽障害を引き起こす原因となります。
温湯消毒の前に行うべき重要な工程が「塩水選(えんすいせん)」です。これは、種籾の充実度(中身が詰まっているかどうか)を比重液を用いて選別する作業です。農研機構や各都道府県の普及センター指導指針においても、健苗育成の第一歩として推奨されています。
外見が立派に見える種籾でも、中身の胚乳が未熟であったり、虫害を受けてスカスカになっていたりするものが混ざっています。これらは発芽しても苗の伸びが悪く、病気にかかりやすかったり、田植え後の活着が悪かったりします。塩水選を行うことで、比重の重い(=デンプンがぎっしり詰まった)種籾だけを選抜でき、発芽揃いの向上や初期生育の安定につながります。
塩水の濃度(比重)は、栽培するイネのタイプ(うるち米・もち米)によって異なります。農研機構等の標準的な指導では以下の数値が基準となります。
| 品種タイプ | 推奨比重 | 使用する塩の目安(水10L対) | 備考 |
|---|---|---|---|
| うるち米 | 1.13 | 約2.1kg | 浮いた卵が水面から大きく出る |
| もち米 | 1.08 | 約1.7kg | 浮いた卵が水面とほぼ同じ |
| 酒米 | 1.08~1.10 | 品種による | 粒が大きいため厳しすぎない選別 |
比重計がない場合、新鮮な生卵を使って濃度を確認する方法が伝統的かつ有効です。
塩水選を行った後は、種籾に付着した塩分を完全に洗い流す必要があります。塩分が残っていると、その後の浸種工程で吸水が阻害されたり、発芽障害の原因になったりします。真水で丁寧に洗い、塩気がなくなるまですすぎを行ってください。
また、近年では「温湯消毒」を先に行うか、「塩水選」を先に行うかで議論になることがありますが、基本は「塩水選(選別)→洗浄→(乾燥)→温湯消毒」または「温湯消毒→塩水選→洗浄」の順です。ただし、塩水選で濡れた種籾を温湯消毒する場合、お湯の温度が下がりやすいため、温湯処理機の能力に合わせた投入量の調整が不可欠です。農研機構の推奨する「事前乾燥温湯消毒」を行う場合は、手順が複雑になるため、購入種子(すでに選別・消毒済み)を利用するか、マニュアルを熟読する必要があります。
参考リンク:大阪府環境農林水産総合研究所 育苗マニュアル(塩水選の手順詳細)
種籾を目覚めさせ、発芽の準備を整える工程が「浸種(しんしゅ)」です。単に水に漬けておけば良いというわけではなく、「積算温度」という概念を用いた科学的な管理が、発芽の均一性を左右します。
イネの種籾が発芽するために必要な吸水プロセスは、水温と時間の積算で管理されます。一般的に、コシヒカリなどの主要品種における浸種の目安は「積算温度100℃」とされています。
積算温度=平均水温 (℃)×日数 (日)
例えば、以下の組み合わせはすべて積算温度100℃となります。
浸種中は種籾も呼吸をしています。特に水温が高くなると微生物の活動が活発になり、水中の酸素が欠乏しやすくなります。また、種籾から発芽抑制物質などが溶け出すため、定期的な「水換え」が必要です。
参考リンク:農林水産省 稲栽培のポイント(浸種水温と積算温度の目安についてP.5)
「バカ苗病」は、育苗箱の中で苗が徒長(ひょろ長く伸びる)し、枯死したり、本田移植後に発症して減収につながったりする厄介な病気です。近年、全国的に発生が増加傾向にあり、農研機構も対策に力を入れています。
バカ苗病は「種子伝染」が主な感染ルートです。つまり、種籾の段階で保菌していると、どんなに良い土を使っても発病します。しかし、見落とされがちなのが「二次感染」のリスクです。
農研機構の防除指針では、種子消毒(温湯や薬剤)だけでなく、資材の消毒と作業環境の清掃をセットで行うことを強く推奨しています。育苗箱は専用の洗浄機や薬剤できれいにし、コンテナ類もケミクロンGなどの塩素系薬剤で消毒することが重要です。
環境保全型農業において、温湯消毒の効果を補完するために「生物農薬(微生物農薬)」の使用が注目されています。これは、バカ苗病菌に対して拮抗作用を持つ非病原性の微生物(例:タラロマイセス菌など)を種籾に付着させる方法です。
参考リンク:JA全農 イネバカ苗病の発生と防除対策(温湯消毒と微生物農薬の併用効果)
最後に、技術的な処理方法ではなく、「種籾の調達元」に関する視点から解説します。皆さんは毎年、種籾を全量購入していますか?それとも自家採種(自家採取)していますか?
自分で収穫した米を翌年の種籾にすることを「自家採種」と言います。コスト削減のために行われることがありますが、農研機構や種子協会は定期的な「種子更新(新しい種籾の購入)」を推奨しています。
なぜなら、自家採種を何年も繰り返すと、以下のようなデメリットが生じるからです。
種子更新率(農家が新品の種籾を購入する割合)が高い地域ほど、単位面積あたりの収量が安定し、一等米比率が高い傾向にあります。これは、購入種子(都道府県の指定種子農家が生産し、農研機構などの指導の下で厳格に管理された種籾)が、遺伝的に純粋であり、充実度が高く、病原菌フリーの状態に近いからです。
特に、農研機構が近年育成している「高温耐性品種(にじのきらめき、こいごころ等)」や「多収品種」などの新品種は、その特性を最大限発揮させるために、100%の種子更新が前提となっている場合が多いです。目先の種代を節約するために自家採種を続けた結果、病気の多発や収量減で、種代以上の損失を出してしまっては本末転倒です。
「3年に1回は全量更新」あるいは「毎年全量更新」をルール化することが、結果として最も低コストで確実なリスク管理となります。プロの農家として、種籾という「最上流」の資材には最大の投資と注意を払うべきなのです。