いちご栽培において、花芽分化(かがぶんか)は収益を決定づける最も重要な生理現象の一つです。花芽分化とは、それまで葉やランナーを作っていた生長点が、花や果実になるための組織へと変化することを指します。このスイッチが入らなければ、どれだけ立派な苗を育てても果実は実りません。日本の主要な一季成り品種(とちおとめ、あまおう、紅ほっぺなど)において、このスイッチを入れる最大の要因は「温度」と「日長」の組み合わせにあります。
参考)https://www.takii.co.jp/tsk/manual/strawberry.html
基本的に、いちごの花芽分化は「低温」と「短日」の条件下で誘起されます。具体的には、平均気温が約25℃を下回り、かつ日長(日の出から日没までの時間)が13時間以下になると分化が始まるとされています。しかし、この条件は絶対的なものではなく、温度帯によって反応が異なります。例えば、気温が5℃〜15℃という強い低温環境下では、日長の長さに関係なく花芽分化が起こります。逆に、25℃以上の高温環境下では、いくら日が短くなっても花芽分化は阻害され、栄養成長(葉や茎の成長)が優先されてしまいます。
参考)【羽生農場】 イチゴの花芽分化ついて(イチゴ)|モデル農場見…
近年の温暖化により、秋口の気温が下がりにくくなっていることは、いちご農家にとって深刻な課題です。9月に入っても夜温が下がらないと、自然条件下の花芽分化が大幅に遅れ、結果として12月のクリスマス商戦に果実が出荷できないという事態を招きます。そのため、多くの産地では自然任せにせず、後述するような人為的な環境制御を行っています。
参考)Instagram
| 温度環境 | 花芽分化の反応 | 備考 |
|---|---|---|
| 25℃以上 | 阻害される | 短日でも分化しない(栄養成長優先) |
| 15℃〜25℃ | 短日条件で分化する |
一般的な秋の条件(日長13時間以下) |
| 5℃〜15℃ | 日長に関係なく分化する | 強い低温感応による分化 |
| 5℃未満 | 休眠・分化停止 |
生育自体が停滞する |
このように、温度と日長は相互に関連しており、特に「夜間の温度」をいかに下げるかが、早期収穫を目指す促成栽培の鍵となります。
温度や日長といった物理的環境に加え、植物体内の栄養状態、特に窒素(チッソ)レベルも花芽分化に深く関与しています。いちごは体内の窒素濃度が低下し、炭素と窒素の比率(C/N比)が高まると、生殖成長(花を作ること)へと傾く性質を持っています。この性質を利用した技術が「窒素中断(窒素切り)」です。
窒素中断は、定植予定日の約1ヶ月前から肥料を切り、苗に含まれる窒素成分を意図的に減少させる管理方法です。一般的には8月中旬〜下旬頃から行われます。葉色が濃い緑色から、やや淡い黄緑色へと変化していくのが、窒素が抜けてきているサインです。体内の窒素濃度が高いままだと、いくら低温・短日条件が整っても花芽分化の感度が鈍り、分化時期が遅れる原因となります。
参考)https://ibseikaken.amebaownd.com/posts/54807756/
しかし、極端な窒素切れはリスクも伴います。花芽分化期に栄養が不足しすぎると、分化した花芽の発育が悪くなり、貧弱な花房になったり、雌しべの発達不良(不稔)を引き起こしたりする可能性があります。また、苗自体の体力が落ちて病害虫に対する抵抗性が弱まることも懸念されます。
近年の指導では、単に肥料を切るだけでなく、「置肥」などでコントロールする方法も推奨されています。必要な時期まではしっかり栄養を与えてクラウンを太らせ、分化誘導期に合わせて肥効が切れるような肥料設計が重要です。特に「よつぼし」のような種子繁殖型品種や、特定の多収性品種では、従来の窒素中断よりも株の充実を優先させたほうが、結果的に分化がスムーズに進むケースも報告されています。自身の栽培品種が「窒素に敏感なタイプ」か「肥料食いのタイプ」かを把握し、葉色や草勢を見ながら微調整を行う高度な管理が求められます。
参考)「よつぼし」栽培技術の要点
花芽分化がいつ起きたか、外見だけで正確に判断することはベテラン農家でも困難です。そこで行われるのが花芽検鏡(かがけんきょう)です。これは、実体顕微鏡を用いて苗の生長点を直接観察し、花芽ができているか、またどの段階まで進んでいるかを確認する作業です。
参考)イチゴ定植に向け花芽検鏡開始!
花芽検鏡は、いちご栽培のスケジュールを決定する羅針盤のような役割を果たします。最も重要なルールは、「花芽分化を確認してから定植する」ということです。もし、花芽が未分化の状態で暖かい本圃(ハウス)に定植してしまうと、ハウス内の高温と長日条件、そして土壌の豊富な肥料分によって、苗は「まだ成長期だ」と勘違いし、再び栄養成長に戻ってしまいます。これを「ボケ」や「座止」と呼びますが、一度こうなると次の花芽ができるまで1ヶ月以上遅れることがあり、年内収穫が絶望的になります。
参考)いちごの育苗期の高温対策|技術と方法|アグリくまもと
検鏡の手順は以下の通りです。
判定はステージ別に行われます。
地域のJAや普及センターが定期的に検鏡を行い、情報を発信している場合も多いですが、大規模農家やこだわりの強い生産者は、自前の顕微鏡を用意し、自分の圃場の苗を毎日チェックして、最適な定植日をピンポイントで決定しています。たった数日の定植のズレが、数ヶ月後の収益に直結するため、この手間は惜しむべきではありません。
自然条件では9月中旬〜下旬になる花芽分化を、人為的に早めて8月下旬〜9月上旬に完了させ、11月中からの収穫を可能にする技術が夜冷育苗(やれいいくびょう)や短日夜冷処理です。これは、専用の冷蔵施設や冷房設備を備えたハウスを利用し、苗に「もう冬が来た」と錯覚させる強力な促進方法です。
参考)アイポットを使った夜冷育苗(正式名:夜冷短日処理育苗)
具体的な方法として、以下のような処理が行われます。
参考)https://www.pref.tochigi.lg.jp/g04/kikoguide/documents/20240606102211.pdf
夜冷処理のメリットは、計画的な出荷が可能になる点です。クリスマスケーキ需要のピークに合わせて収穫の山を持ってくることができるため、高単価での販売が見込めます。しかし、デメリットとしてコストと労力が挙げられます。冷却設備の導入費用や電気代に加え、毎日苗を出し入れする(ポット移動式の場合)重労働が発生します。
また、処理中の管理も繊細です。低温暗黒条件が続くと苗が徒長し(ひょろ長く伸びる)、軟弱になりやすい傾向があります。そのため、日中の「陽光処理(しっかり光合成させること)」が非常に重要です。光合成が不足すると体内の炭水化物が不足し、花芽の質が悪くなります。最近では、苗の出し入れを自動化した施設や、クラウン部分だけを局所的に冷却する省エネ技術も開発されていますが、基本原理は「温度と光のコントロール」に尽きます。
参考)https://www.farc.pref.fukuoka.jp/farc/seika/h16a/06-05.pdf
最後に、近年特に問題視されている「花芽戻り(分化のキャンセル)」と、それに対する独自視点の対策について解説します。これは、一度花芽分化が始まった(検鏡で確認できた)にもかかわらず、その後の定植や育苗環境で強烈な高温ストレスを受けた結果、分化したはずの花芽が退化し、再び葉芽(葉っぱ)に戻ってしまう、あるいは発育が停止してしまう現象です。
参考)【イチゴ編】症状別で見る! 生理障害・病害虫の原因と予防の基…
特に注意すべきは、「根域(根圏)環境」の温度です。気温(地上部の温度)には気を使っていても、ポリポットの中や定植直後の培地温度は見落とされがちです。黒色のポリポットは直射日光で容易に40℃近くまで上昇し、根に深刻なダメージを与えます。根の活性が落ちると、サイトカイニンなどの植物ホルモンの生産が滞り、花芽の発達維持ができなくなります。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10203444/
この「見えない高温障害」を防ぐための対策として、以下の手法が注目されています。
参考)https://www.maff.go.jp/j/seisan/kankyo/ondanka/attach/pdf/report-59.pdf
「検鏡で確認したから安心」ではなく、「第1花房が出蕾するまでは花芽分化ステージの延長戦」という意識を持つことが重要です。定植直後の1週間、いかに苗にストレスを与えず、涼しい環境を提供できるか。それが、花芽を確実に果実へと変え、シーズンのスタートダッシュを決めるための隠れた重要ポイントなのです。
参考リンク:タキイ種苗によるイチゴの生理生態と花芽分化条件の基礎解説
参考リンク:農研機構による一季成り性イチゴの短日条件と限界温度の研究データ
参考リンク:高温による花芽分化の中止(生理障害)と対策に関する記事