水稲栽培において「窒素中断(窒素切り)」のタイミングを正確に把握することは、収量と品質を両立させるための最大の分かれ道です。一般的に、窒素中断を開始する最も重要な指標となるのが「幼穂形成期(ようすいけいせいき)」です。この時期は、稲が栄養成長(葉や茎を伸ばす時期)から生殖成長(穂を作る時期)へと切り替わる転換点であり、田植え後の日数や積算温度だけで判断せず、実際の稲の生育ステージを確認する必要があります。
多くの農家が失敗する要因は、この「飢餓期間」を作れていないことにあります。窒素が効き続けていると、稲はさらに葉を伸ばそうとし、本来穂に送られるべきエネルギーが浪費されてしまいます。したがって、地域ごとの栽培暦を確認しつつ、自身の圃場の稲を一本抜き取り、カッターで縦に割って幼穂の長さを測る「幼穂長測定」を行うことが、最も確実な「いつから」の決定打となります。
農林水産省:水稲栽培のポイント(幼穂形成期の確認方法について詳述あり)
参考)https://www.maff.go.jp/j/seisan/gijutsuhasshin/techinfo/attach/pdf/suitou-2.pdf
「いつから窒素を切るべきか」という問いに対して、視覚的かつ数値的に答えてくれるのが「葉色(ようしょく)」の診断です。人間の目は天候や体調によって色の見え方が変わるため、感覚だけに頼るのは危険です。「葉色板(カラースケール)」や「SPADメーター(葉緑素計)」といった客観的なツールを使用することで、窒素中断の成功率が格段に上がります。
以下は、一般的なコシヒカリ系品種における窒素中断期の葉色目安です(地域や品種により異なります)。
| 診断時期 | 理想的な葉色板数値 | 理想的なSPAD値 | 状態の解釈 |
|---|---|---|---|
| 最高分げつ期 | 4.0 ~ 4.5 | 35 ~ 38 | 茎数を確保するため、ある程度の色が必要。 |
| 窒素中断期 | 3.5 以下 | 30 ~ 32 | ここが重要。色が「褪める(さめる)」状態を作る。 |
| 穂肥施用期 | 3.5 ~ 4.0 | 32 ~ 35 | 窒素中断後、再び色を上げていく段階。 |
窒素中断がうまくいっている圃場では、田んぼ全体が「黄色味を帯びた黄緑色(退色した色)」に変化します。これを「色が抜ける」と表現します。もし、幼穂形成期に入ってもSPAD値が40近い高い数値を維持している場合、窒素過多です。その場合は、中干しを強めに行う、あるいは穂肥の時期を遅らせる・減らすといった対策が必要になります。逆に、色が抜けすぎてSPAD値が25を下回るようであれば、窒素切れが早すぎて籾数(もみすう)が確保できないリスクがあるため、早期の追肥検討が必要です。
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なぜ「窒素中断」という工程が必要なのでしょうか?それは、窒素を適切な時期に切ることが、物理的な「倒伏防止」と、商品価値に関わる「食味向上」の二重のメリットをもたらすからです。このメカニズムを理解しておくと、窒素中断のモチベーションが大きく変わります。
窒素が効きすぎていると、稲は背丈を伸ばすことに注力してしまいます。特に、下位節間(地面に近い茎の節)がひょろ長く伸びてしまい、風雨に弱くなります。適切な時期(出穂40~20日前)に窒素を中断することで、この下位節間の伸長を抑制し、ガッシリとした太く短い茎を作ることができます。これにより、台風シーズンでも倒れにくい強靭な稲体となります。
近年の米作りでは「低タンパク米」が高評価を得る傾向にあります。玄米中のタンパク質含有量が低いほど、炊飯時に水を含みやすく、ふっくらとして粘りのある美味しいご飯になります。窒素はタンパク質の主成分です。登熟期まで窒素がダラダラと効いていると、米粒の中にタンパク質が多く蓄積され、食味が低下(硬く、粘りが少ない)してしまいます。窒素中断を徹底し、必要な時期(穂肥)にだけ最小限の窒素を与えることで、低タンパク・良食味米を実現できるのです。
特に「特A」ランクを狙うような栽培では、この窒素中断の徹底が必須条件とされています。単に肥料を減らすのではなく、「切るべき時に確実に切る」メリハリがプロの技術です。
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窒素中断の計画は、その年の気象条件によって柔軟に変更する必要があります。マニュアル通りに「〇月〇日から中断」と決めていても、冷夏や酷暑の年では稲の窒素吸収パターンが全く異なるからです。ここでは、天候パターン別の調整術を解説します。
天候不順時こそ、「いつから」の判断をカレンダーではなく、稲の姿(葉色・草丈・茎数)と相談して決める観察眼が問われます。
新潟県:SPAD値と葉色板による診断基準(気象変動時の対応参考)
参考)https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/attachment/414015.pdf
検索上位の記事ではあまり触れられていませんが、窒素中断には「根の垂直分布を深める」という極めて重要な生理学的効果があります。これは単なる肥料切れの話ではなく、稲のサバイバル能力を引き出すプロセスです。
通常、窒素が豊富な環境では、稲の根は地表近くの浅い部分に広く分布します(浅根)。養分がすぐ近くにあるため、わざわざ深く根を伸ばす必要がないからです。しかし、幼穂形成期前に窒素中断を行い、さらに中干しで土壌水分を制限すると、稲は水分と養分を求めて、根を土壌深層へと急速に伸ばし始めます。
この時期の窒素制限は、稲の地上部において「第4節間」「第5節間」と呼ばれる、株元の最も重要な支柱部分の徒長を強力に抑えます。ここが短く硬く固まることで、上部に重い穂が実っても耐えられる構造が完成します。
窒素過多の田んぼは還元状態(酸素不足)になりやすく、根腐れの原因となる硫化水素が発生しやすくなります。窒素中断によって土壌中の窒素レベルを下げることは、この還元害を回避し、収穫直前まで根の活力を維持する「秋落ち防止」に直結します。
つまり、「窒素中断いつから?」という問いへの究極の答えは、「下位節間が伸びようとする直前(出穂約35~40日前)」から開始し、根を地中深くへ誘導する準備期間と捉えることです。この視点を持つことで、単なる倒伏防止以上の、登熟期間後半までバテない強い稲作りが可能になります。