未分化定植とは、イチゴの苗が花芽分化を起こす前、つまり成長点がいまだ葉芽の状態である段階で、最終的な栽培場所である本圃(ほんぽ)へ定植してしまう栽培技術のことです。通常、イチゴ栽培では9月中旬から下旬にかけて、顕微鏡で花芽の分化(クラウン内部で花の元ができていること)を確認してから定植するのがセオリーです。これは、花芽ができていない状態で定植すると、肥料の効いた本圃の環境下では栄養成長ばかりが促進され、いつまでたっても花が咲かない「木ボケ」状態に陥るリスクがあるためです。しかし、近年の温暖化による育苗の難化や、農業従事者の高齢化・労働力不足を背景に、あえてこのセオリーを破り、早期に定植することで育苗期間を短縮する手法が注目されています。
参考)【第2回】イチゴの未分化定植・本圃増殖栽培 花芽分化を促すに…
この技術の最大の狙いは「省力化」と「病害回避」にあります。特に「本圃増殖法」と呼ばれる手法では、親株からランナーで切り離したばかりの小さな苗や、ポット受けをせずに直接本圃に植え付ける方法がとられ、夏の炎天下での過酷なポット管理作業を一掃できる可能性があります。静岡県や愛知県など、大規模産地の一部ではマニュアル化が進んでおり、品種としては「きらぴ香」や「紅ほっぺ」、「よつぼし」などで導入事例が増えています。しかし、成功のためには、単に早く植えるだけでなく、本圃という広い空間で意図的に花芽分化を誘導させる高度な環境制御技術が求められます。
未分化定植の最大の魅力は、夏場の育苗作業にかかる膨大な労力を劇的に削減できる点にあります。慣行のポット育苗では、親株からの採苗、ポットへの土詰め、鉢上げ(植え替え)、そして毎日の灌水や葉かき作業が必要となり、これらはイチゴ栽培全体の労働時間の約30〜40%を占めると言われています。特に7月から8月の猛暑日に行う作業は身体的負担が極めて大きく、熱中症のリスクとも隣り合わせです。
未分化定植、特に「本圃直接定植」や「本圃増殖」と呼ばれるスタイルを採用した場合、以下のような具体的な省力化効果が得られます。
参考)https://www.pref.miyagi.jp/documents/52206/r05gijutu04.pdf
このように、未分化定植は「苗半作」と言われるイチゴ栽培の常識を覆し、最も辛い夏の作業を簡素化することで、規模拡大や雇用労力の削減に直結する技術です。また、空いた育苗ハウスを別の用途(例えば太陽熱消毒や次作の準備、あるいは早期の葉物野菜栽培など)に活用できるため、経営全体の回転率を高める効果も期待できます。
未分化定植は、イチゴ農家にとって最大の脅威である「炭疽病」への強力な対抗策としても機能します。炭疽病は、高温多湿を好み、雨や頭上灌水による水はね(スプラッシュ)によって胞子が飛散し、周囲の苗へと感染が爆発的に広がります。慣行のポット育苗では、苗が密集して並べられているため、一株でも感染株が出ると周囲に蔓延しやすく、廃棄ロスが甚大になるケースが後を絶ちません。
未分化定植が炭疽病対策に有効な理由は、以下の物理的環境の変化にあります。
参考)https://www.pref.ehime.jp/uploaded/attachment/126313.pdf
実際に、炭疽病で苗が全滅に近い被害を受けた経験のある農家が、未分化定植(特に本圃での無仮植育苗)に切り替えたことで、被害をほぼゼロに抑えられたという報告もあります。ただし、これは「本圃がクリーンであること」が大前提です。前作の残渣処理や太陽熱消毒を徹底し、土壌中に病原菌がいない状態を作ってから定植しなければ、逆に本圃全体が汚染されるリスクもあるため、土作りとセットでの対策が必要です。
未分化定植の成否を分けるのは、定植後の「本圃管理」です。通常の栽培とは異なり、まだ花芽ができていない苗を植えるため、本圃という環境下で人為的に花芽分化を誘導しなければなりません。ここで最も重要になるのが「窒素(チッソ)レベルのコントロール」です。
イチゴの花芽分化は、体内の窒素濃度が低下し、かつ一定の低温・短日条件に遭遇することでスイッチが入ります。しかし、本圃の土壌に元肥(もとごえ)として窒素が大量に残っていると、苗はそれを吸収し続け、いつまでたっても「栄養成長(葉や茎を伸ばす成長)」から「生殖成長(花や実を作る成長)」へ切り替わりません。これを防ぐために、以下の管理を徹底する必要があります。
参考)https://www.agrinet.pref.tochigi.lg.jp/nousi/seikasyu/seika10/sep_010_4_3_04.pdf
特に注意が必要なのは、定植直後の「活着促進」と「窒素切り」のバランスです。活着までは水が必要ですが、活着後は速やかに窒素を切らなければなりません。この切り替えのタイミングを見誤ると、後述する「花芽分化の遅れ」に直結します。
未分化定植における最大のリスク、それは「花芽分化の遅れ」による収穫開始の大幅な遅延です。これを業界用語で「遅れ」や「中休み(なかやすみ)の長期化」と呼ぶことがありますが、最悪の場合、クリスマスや年末の商戦期にイチゴが出荷できないという経営的な大打撃につながります。
参考)Instagram
通常、ポット育苗であれば、夜冷庫(やれいこ)に入れたり、窒素中断処理をしたりして確実に花芽を分化させてから定植します。しかし、未分化定植では、コントロールの難しい本圃(広いハウス内)で自然の気温低下を待つか、先述したようなシビアな窒素管理に頼るしかありません。もし、9月が暖秋で気温が下がらなかったり、土壌中の窒素が予想外に効いてしまったりすると、以下のような生理障害が発生します。
愛媛県や熊本県などの指導指針でも、基本的には「検鏡(顕微鏡での検査)による花芽分化の確認後の定植」を強く推奨しており、未分化定植はあくまで「高度な技術と環境制御が可能な生産者」向けの例外的な手法であると位置づけられています。安易な導入は危険であり、定期的な検鏡を行い、分化していない場合は遮光ネットで日照時間を調整したり、葉かきを行って株に刺激を与えたりする等のリカバリー策を用意しておく必要があります。
参考)https://www.pref.kagawa.lg.jp/documents/36802/houjou60.pdf
最後に、検索上位の記事ではあまり触れられない、未分化定植ならではの「独自視点のメリット」について解説します。それは「圧倒的な根量の確保」と、それに伴う「厳寒期の樹勢維持」です。
通常の定植(9月中下旬)では、定植から地温が低下するまでの期間が短く、本格的な寒さが来る前に十分な根を張らせる時間が限られています。これに対し、未分化定植(7月下旬〜9月上旬)では、地温がまだ高く、植物の生育が旺盛な時期に本圃へ根を下ろすことができます。これにより、以下の生理的なアドバンテージが生まれます。
もちろん、これも「過繁茂(葉が茂りすぎること)」とのバランス調整が必要ですが、適切に制御された未分化定植株は、単なる省力化以上の「高品質・多収」のポテンシャルを秘めています。リスクを恐れず、しかし科学的なデータ(窒素濃度や検鏡結果)に基づいて管理できる生産者にとって、未分化定植は次世代のスタンダードになり得る技術と言えるでしょう。