農業、特にイチゴの促成栽培において「花芽検鏡(はなめけんきょう)」は、その年の収益を左右すると言っても過言ではない極めて重要な工程です 。花芽検鏡とは、苗の成長点(クラウンの内部)を顕微鏡で観察し、花芽が形成(分化)されているかを確認する作業のことです。この確認作業を行わずに、暦(カレンダー)だけで判断して定植を行うと、花芽が未分化のまま定植してしまい、以下のような重大な失敗につながるリスクがあります。
参考)https://www.ja-mizuma.or.jp/library/64017d8024e9927f11a45c24/66f9dd817b94bb1e0d06c583.pdf
一般的に、花芽検鏡は9月中旬頃から行われますが、近年の温暖化の影響で、9月の気温が下がりにくく、花芽分化が遅れる傾向にあります 。そのため、過去のデータや勘に頼るのではなく、実際に目で見て確認する検鏡の重要性は年々増しています。この記事では、プロの農家が実践するステージ判定の基準から、自分で検鏡を行うための具体的な道具選び、さらには外部へ依頼する場合の相場までを詳しく解説します。
参考)https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/130500/nourinsuisan/index_d/fil/R609fukyuinfo.pdf
農研機構:大規模いちご生産技術導入マニュアル(花芽検鏡の重要性について記載)
花芽検鏡で最も重要なのは、成長点がどの「ステージ」にあるかを正確に見極めることです。イチゴの花芽分化は、連続的な変化ですが、栽培管理上、明確なステージ(段階)に分けて判定されます 。定植の適期とされるのは、一般的に「ガク片形成期」以降ですが、品種や作型(促成、半促成など)によって微妙に異なります。
参考)http://www.plantphysiol.org/content/142/2/414.full.pdf
以下に、主要なステージとその特徴をまとめます。
| ステージ名 | 判定 | 特徴 | 定植の可否 |
|---|---|---|---|
| 未分化期 | - | 成長点が平ら、または小さく盛り上がっているだけの状態。まだ葉になるか花になるか決まっていない。 | 不可(ランナーになる可能性大) |
| 肥厚期(ドーム形成) | ± | 成長点が明らかに盛り上がり、ドーム状(半球状)になる。花芽分化のスイッチが入った合図。 | 注意(早すぎる場合が多い) |
| ガク片形成期 | + | ドームの基部に突起(ガク片の元)が見え始める。イチゴの花の外側の緑の部分。 | 適期(多くの品種で定植GOサイン) |
| 花弁形成期 | ++ | ガク片の内側に、さらに小さな突起(花びらの元)が見える。 | 適期(安心できる段階) |
| 雄蕊(おしべ)形成期 | +++ | 花弁の内側に、雄しべとなる突起が多数確認できる。 | 適期~やや遅め |
| 雌蕊(めしべ)形成期 | ++++ | 中心部に雌しべ(果実になる部分)の凸凹がはっきり見える。 | 遅れ気味(活着に注意が必要) |
特に判断が難しいのが「肥厚期」と「未分化期」の違いです 。肥厚期に入っていれば、数日以内にガク片形成に進むと予測できますが、気温が高いと肥厚期のまま進行が止まる「分化停止」が起こることもあります 。そのため、初心者は「ガク片形成期」を確実に確認してからの定植が推奨されます。
参考)いちご(越後姫)の花芽分化のルールについて - 苺の花ことば…
栃木県:いちご育苗後半の栽培管理のポイント(ステージ図解あり)
かつては普及センターに依頼するのが一般的でしたが、自分のタイミングで迅速に判断したい農家が増え、自分で検鏡を行うケースが増えています。自分でやる最大のメリットは、天候や苗の状態に合わせて、その日のうちに定植の判断ができることです 。
必要な道具リスト
参考)顕微鏡観察に使用される染色液
手順のコツ
最初は成長点を潰してしまったり、見失ったりすることがよくあります。「練習用に古い苗を使って数こなす」ことが上達への近道です 。
YouTube:イチゴ栽培の実践 育苗管理編3 花芽検鏡準備(実際の剥き方が動画でわかります)
自分で検鏡するのが難しい、あるいは時間がない場合は、専門機関に依頼することができます。最も一般的な依頼先は、地域のJA(農業協同組合)の営農指導課や、県の農業改良普及センターです 。
参考)https://www.ja-hyogominami.com/_src/20222062/202411_faminn-magajin.pdf?v=1740967992340
依頼の相場と特徴
参考)https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/070900/hukyu/katudo_d/fil/H30hukyujisseki.pdf
依頼時の注意点
依頼する際は、苗を「根付き」で持っていくか、「クラウンのみ」にするかなど、指定された状態で持ち込むことが重要です。また、乾燥を防ぐために濡れた新聞紙で包むなどの配慮も必要です。最近では、持ち込んだその場で一緒に顕微鏡を覗かせてくれて、見方を教えてくれる指導員も増えています 。
花芽検鏡の結果、まだ「未分化」だった場合、農家はどうすべきでしょうか?ただ待つだけではありません。花芽分化を促進させるための「窒素切り」と「温度管理」が重要になります 。
イチゴは体内の窒素濃度が下がると、子孫を残そうとして花芽を作り始めます。定植予定日の1ヶ月ほど前から肥料を切る(追肥を止める)ことで、意図的に窒素レベルを下げ、分化を誘導します。「葉色が薄くなってきたら分化のサイン」と言われるのはこのためです 。
イチゴの花芽分化には「低温」と「短日」が必要です。
参考)https://www.pref.iwate.jp/agri/_res/projects/project_agri/_page_/002/004/332/r02_nenpou_all.pdf
検鏡で「肥厚期(ステージ±)」が確認できたら、そこから一気に温度を下げすぎないように注意しながら、定植準備に入ります。逆に、未分化なのに低温に当てすぎると「休眠」に入ってしまうリスクもあるため、検鏡結果に基づいた緻密な温度管理がプロの腕の見せ所です。
最後に、少し意外な最新技術と今後の課題について触れます。現在、農業界では「AI(人工知能)」による画像診断の研究が進んでいますが、花芽検鏡の分野でも自動化の波が来ています。
従来は熟練者の「目」に頼っていたステージ判定ですが、顕微鏡に取り付けたカメラで撮影した画像をAIに解析させ、自動でステージを判定するシステムの開発が進んでいます 。これにより、経験の浅い新規就農者でも正確な判定が可能になったり、大量のサンプルを短時間で処理できる可能性があります。種の発芽率検査では既に実用化されている技術もあり、花芽検鏡への応用も時間の問題と言えます。
参考)種の発芽率自動検査 AI発芽検査®| NTTテクノクロス株式…
しかし、技術が進化する一方で、気候変動という大きな課題が立ちはだかっています。
9月~10月の気温が平年より高い年が頻発しており、「いつもの時期に肥料を切ったのに分化しない」「検鏡したらまだ未分化だった」というケースが増えています 。過去の「暦通りの栽培マニュアル」が通用しなくなっている現在、AIによるデータ解析と、アナログな「花芽検鏡」による現物確認を組み合わせることが、安定生産への唯一の解となりつつあります。
「花芽検鏡」は、単なる顕微鏡観察ではなく、植物の生理状態と対話するための最強のツールなのです。