日本の農業現場において、営農指導を取り巻く環境はかつてないほど厳しい状況に直面しています。その中心にあるのが、指導員自身の不足と高齢化、そして指導を受ける側の農家の減少という「二重の構造問題」です。かつては地域ごとに密接な人的ネットワークが存在し、頻繁な訪問指導が可能でしたが、現在はその前提が崩れつつあります。
まず、営農指導員の人員不足について詳しく見ていきましょう。JA(農業協同組合)の合併が進み、管轄エリアが広域化したことで、指導員一人が担当する耕地面積や農家戸数が物理的に増大しています。これにより、以下のような弊害が顕在化しています。
さらに、指導員自体の年齢層も上がっており、若手指導員の確保が難航しているのが現状です。農業大学校や農学部出身者の採用競争は激しく、民間企業との競合により、優秀な人材がJAの営農指導部門に定着しにくいという課題もあります。
一方で、担い手となる農家側の変化も見逃せません。
農家の高齢化はさらに深刻で、平均年齢は68歳を超えています。これにより、営農指導員には単なる栽培技術の指導だけでなく、以下のような「生活支援」に近いサポートまで求められるようになっています。
このように、本来の業務である「技術指導」や「経営コンサルティング」に加え、地域社会の維持活動に多くのリソースが割かれているのが実情です。この構造的な課題を解決しなければ、日本の地域農業は維持できなくなるという危機感が、現場には漂っています。
参考リンク:農林中金総合研究所 - 待ったなし、営農指導事業改革(現状の構造変化と指導員不足の詳細な分析)
営農指導の質を担保してきたのは、長年現場で経験を積んできたベテラン指導員たちの「暗黙知」です。地域の気候特性、土壌のクセ、農家一人ひとりの性格や技術レベルまで把握した上で行われる指導は、マニュアル化できない高度なスキルでした。しかし、団塊の世代を含むベテラン層の大量退職に伴い、この貴重なノウハウの継承が大きな壁にぶつかっています。
育成体制における主な問題点は以下の通りです。
この状況を放置すれば、JAの営農指導機能は弱体化し、農家からの信頼を失うことになりかねません。組織としていかに効率的にノウハウを可視化し、若手を早期戦力化できるかが、今後の組織存続の鍵を握っています。
参考リンク:JA営農指導員のキャリア形成実態と人材育成の課題(指導員の成長プロセスと育成の壁について)
人手不足と技術継承の危機的状況を打開する切り札として期待されているのが、DX(デジタルトランスフォーメーション)とAI(人工知能)の活用です。これまでアナログな対面指導が中心だった営農指導の世界にも、デジタル化の波が押し寄せています。
具体的には、以下のようなツールやシステムの導入が進められています。
効率化の効果は明確ですが、導入には課題も残っています。最大のハードルは、ユーザーである農家の「ITリテラシー」です。高齢農家の多くはスマートフォンの操作に不慣れであり、せっかく導入したシステムが使われないまま放置されるケースも散見されます。
また、導入コストやランニングコストを誰が負担するのか(JAか、農家か)という経済的な問題も解決する必要があります。
それでも、AIやDXはあくまで「ツール」であり、指導員の仕事を奪うものではありません。むしろ、データ入力や単純な問い合わせ対応といった「作業」を機械に任せることで、人間は「人間にしかできない判断や対話」に時間を割くことができるようになります。
参考リンク:JAレーク滋賀、農業特化型生成AI「栽培アシストAI」を試験導入(具体的なAI導入事例と機能紹介)
かつての営農指導は「良いものを作ること(多収・高品質)」が最大のゴールでした。しかし、国内市場の縮小や資材価格の高騰が続く現代において、単に良い作物を作るだけでは農家の経営は成り立ちません。「作ったものをいかに高く売るか」、あるいは「売れるものを作るか」という視点が不可欠になっています。ここで求められているのが、販売事業との強力な連携と、農家の所得向上に直結するコンサルティング機能です。
従来の縦割り行政的な組織構造では、営農指導部門(作る指導)と販売部門(売る業務)が分断されていることが少なくありませんでした。
「指導員は作り方を教えるだけ、販売担当は集荷して市場に送るだけ」というスタイルでは、市場ニーズと生産現場のミスマッチ(需給のズレ)が生じてしまいます。
これからの営農指導員に求められる「稼ぐための指導」とは、以下のようなものです。
| 従来の指導スタイル | これからの指導スタイル(販売連携型) |
|---|---|
| 目的 | 収量アップ、品質向上 |
| 視点 | プロダクトアウト(作ってから売る) |
| 提案内容 | 栽培技術、農薬・肥料の選定 |
| データ | 気象データ、生育調査データ |
具体的には、実需者(スーパーマーケットや加工業者)と直接契約を結ぶ契約栽培の推進や、市場価格が高い時期を狙った作型(早出し・遅出し)の提案などが挙げられます。
また、規格外品を加工品として商品化する際の衛生管理指導や、ブランド化戦略の立案など、マーケティングに近い領域まで踏み込んだ指導も必要とされています。
このように、営農指導員は「栽培の先生」から「農業経営のパートナー」へと役割を進化させる必要があります。販売部門と密に情報を共有し、「今、市場で何が求められているか」をリアルタイムで現場にフィードバックする体制の強化が、農家の生き残りには不可欠なのです。
参考リンク:JAグループ - 営農指導事業の紹介(営農指導と販売・経済事業との連携の重要性について)
最後に、技術やシステム論では語りきれない、しかし最も重要な視点について触れたいと思います。それは、営農指導の根幹にあるのはあくまで「人と人との信頼関係」であるという点です。
DX化が進み、LINEやチャットボットで気軽に相談できるようになったとしても、農家が本当に困ったときに頼りにするのは、「自分の畑に足を運び、一緒に汗を流して考えてくれる指導員」の存在です。特に、天候不順で凶作になった時や、新しい技術導入に失敗した時など、農家の精神的な不安を受け止めるメンタルケアの側面は、AIには代替できません。
一方で、デジタル化の推進が、かえって農家との心理的な距離を広げてしまうリスクも孕んでいます。
「最近の指導員はタブレットばかり見て、畑や作物を見てくれない」
「チャットで質問しても、機械的な返答ばかりで温かみがない」
といった不満が現場から聞こえてくることもあります。
ここで重要になるのが、コミュニケーションの質的転換です。
デジタルツールで効率化して浮いた時間を、デスクワークではなく、「農家との対話」に再投資する必要があります。
「デジタルは冷たい」「アナログは温かい」という二項対立ではなく、デジタルの利便性を活かしてアナログな信頼関係をより強固にする。そんな「ハイタッチ・ハイテク」な営農指導こそが、次世代のスタンダードになるでしょう。農家と共に悩み、共に喜ぶという営農指導の原点を忘れずに、新しい技術を使いこなす姿勢が求められています。
参考リンク:Frontiers - 農家の認識と意思決定(農業移行期における多様な農家の視点と対話の重要性)