シャインマスカットは年間100億円の損失を生んでいます
農業分野において「アカデミック品種」という言葉を耳にすることがあります。これは大学や公的研究機関が学術的なアプローチで育成した植物品種を指す言葉として使われています。具体的には、農研機構や都道府県の試験研究機関、大学などが長期間かけて開発した品種のことです。
農研機構が育成したブドウ品種「シャインマスカット」を例に取ると、親系統の選抜から品種登録まで33年、交配試験開始からでも18年という膨大な時間が必要でした。この数字は、優良な新品種を生み出すために、どれほどの専門知識と労力、研究費が投じられているかを物語っています。一般的な品種改良でも10年以上の期間を要するのが通常で、果樹の場合は約30年かかることも珍しくありません。
つまり学術的品種育成です。
公的研究機関による品種育成には、民間企業では困難な長期投資が可能という強みがあります。年間予算950億円を持つ農研機構のような組織だからこそ、市場ニーズの変化を見据えた先進的な研究開発ができるわけです。こうした公的機関が育成した品種は、病害虫抵抗性や気候変動への適応性など、農業の持続可能性を高める特性を備えていることが多いのが特徴です。
農業従事者にとって、こうしたアカデミック品種を理解し活用することは、安定した農業経営の基盤となります。なぜなら、これらの品種は公的資金で開発されているため、比較的手頃な価格で種苗を入手できる場合が多く、技術指導や栽培情報も充実しているからです。ただし、後述する品種登録制度により保護されている場合は、適切な手続きが必要になります。
農研機構の品種情報ページでは、最新の登録品種や出願中品種の詳細情報を確認できます。
新品種の育成には、想像以上の時間とコストがかかります。米の品種改良では交配から品種完成まで最低でも7〜8年、果樹の場合は「桃栗3年、柿8年」という言葉があるように、さらに長い期間を要します。
具体的な費用面を見ると、品種育成には年間約5000万円規模の研究費が必要とされています。この内訳は、研究員の人件費が年間約3000万円、圃場作業員や補助員の人件費、そして研究費として年間2000万円程度です。しかもこれは1年分の費用であり、10年以上にわたる開発期間全体では膨大な投資額になります。
研究費の大半は人件費です。
北海道の事例では、品種開発のための拠出金として年間7600万円が試験研究機関に投じられ、圃場作業員の人件費を含めた品種開発や生産安定技術の開発に活用されています。このように地域レベルでも多額の研究投資が行われており、それだけ優良品種の価値が高いことを示しています。
品種育成の長期性は、育種家にとって大きな課題です。なぜなら、交配を行う時点で7〜8年後、あるいはそれ以上先の時代にどのような品種が必要になるのかを予測しなければならないからです。気候変動、消費者の嗜好の変化、病害虫の発生動向など、多様な要因を考慮した戦略的な品種設計が求められます。
このような膨大なコストと時間をかけて生まれた新品種を、無断で増殖されたり海外に流出されたりすれば、投資が回収できなくなります。だからこそ、品種登録制度による知的財産権の保護が極めて重要になるのです。農業従事者としては、こうした品種開発の背景を理解することで、育成者権の尊重や適正な種苗の利用につながります。
農業で使用される品種には「登録品種」と「一般品種」の2種類があります。この違いを正確に理解することは、法令遵守と経営リスク回避のために不可欠です。
登録品種とは、種苗法に基づき農林水産省に品種登録された新品種のことです。品種登録を受けると「育成者権」という知的財産権が発生し、育成者権者は登録品種の種苗、収穫物、一定の加工品を独占的に利用できます。保護期間は登録日から25年間、果樹などの木本性植物は30年間です。
一方、一般品種とは在来種、これまで品種登録されたことがない品種、登録期限が切れた品種を指します。これらは誰でも自由に利用することができ、許諾も許諾料も不要です。重要なのは、現在流通している品種のほとんどが一般品種であるという点です。
全体の約9割が一般品種です。
農林水産省の資料によると、登録品種の作付割合は米で17%、ブドウで13%、野菜で9%程度にとどまっています。コシヒカリのような著名な品種も、すでに登録期間が終了しているため一般品種として自由に栽培できます。つまり、多くの農家が普段使っている品種は、種苗法改正後も従来通り自由に自家増殖できるのです。
ただし、地域や作物によって状況は異なります。リンゴの栽培実績がある品種に限ると登録品種が64%を占め、青森県では99%、北海道では88%が登録品種です。新品種のブランド化が進む産地ほど、登録品種の割合が高くなる傾向にあります。
農業従事者が注意すべきは、登録品種を栽培する場合の手続きです。2022年4月1日以降、登録品種の自家増殖には育成者権者の許諾が必要になりました。許諾を得ずに増殖すると育成者権の侵害となり、法的責任を問われる可能性があります。自分が栽培している品種が登録品種かどうかは、農林水産省の品種登録ホームページで確認できます。
品種登録データベースで、品種名から登録状況を検索できます。
日本が開発した優良品種の海外流出は、農業界にとって深刻な経済損失をもたらしています。
その代表例がシャインマスカットです。
農林水産省の試算によると、シャインマスカットの中国への無断流出による損失額は年間100億円以上に達しています。中国の栽培面積は日本の約30倍に拡大し、韓国でも大規模に栽培されています。これらの国では2.5キロ約300円という低価格で販売されており、本来であれば日本から高級果実として輸出できたはずのアジア市場が失われてしまいました。
被害はシャインマスカットだけではありません。イチゴ、サクランボなどを含めた日本の育成品種全体の流出による損失額は、年間1000億円超と推計されています。これは日本農業の国際競争力を大きく損なう深刻な問題です。
損失総額は1000億円超です。
なぜこのような流出が起きたのでしょうか。改正前の種苗法では、登録品種が販売された後に海外に持ち出されることは違法ではなく、阻止する法的根拠がありませんでした。また、農家での自家増殖が認められていたため、登録品種の増殖実態を把握することが困難で、違法増殖された種苗の海外持ち出しを事実上防げなかったのです。
この問題を解決するため、2020年12月に種苗法が改正されました。
主な改正点は以下の通りです。
まず、出願時に種苗の海外持出し制限を届け出ることで、登録品種の種苗の海外持出しを法的に制限できるようになりました。次に、登録品種の自家増殖には育成者権者の許諾が必要となり、無断増殖を防止できるようになりました。さらに、国内の指定地域外での栽培を制限することで、新品種を活用した産地づくりが容易になりました。
農業従事者にとって、この改正は種苗の適正な管理と品質保証につながります。育成者権者の許諾に基づく増殖により、品質の良い種苗の利用と適正な生産管理が可能になるからです。許諾料の設定は、市場価格を逸脱しない合理的な金額になることが期待されており、農家の経営を大きく圧迫するものではありません。
海外流出を防ぐために、農業従事者ができることがあります。登録品種の種苗を譲渡する際は、信頼できる相手に限定し、海外持出し制限がある品種については特に注意を払うことです。また、不審な種苗の売買情報があれば、農林水産省や種苗管理センターに通報することも重要です。
農林水産省の種苗法改正ページには、海外流出防止の詳細情報が掲載されています。
登録品種を栽培する農業従事者が知っておくべき実務上のポイントを整理します。まず最も重要なのは、自分が栽培している品種が登録品種かどうかを確認することです。
確認方法は簡単です。農林水産省の品種登録ホームページにアクセスし、品種名で検索すれば登録状況がわかります。登録品種の場合、育成者権者の名前、登録番号、存続期間、海外持出し制限や栽培地域制限の有無などの情報が表示されます。
登録品種を自家増殖する場合は、育成者権者の許諾が必要になります。許諾を得るには、育成者権者に連絡して利用許諾契約を結びます。農研機構が育成者権を持つ品種の場合は、対象品目ごとに許諾手続きの方法が公開されています。許諾料は品種や用途によって異なりますが、通常は種苗購入費に比べて大幅に低い金額に設定されています。
手続きは意外と簡単です。
登録品種の種苗を販売する場合、種苗や包装に「登録品種」の文字、品種登録番号、またはPVPマークのいずれかを表示する義務があります。海外持出し制限や栽培地域制限がある品種については、その旨も併せて表示する必要があります。違反すると罰則の対象になる可能性があるため、注意が必要です。
一方、一般品種については従来通り自由に自家増殖できます。コシヒカリ、ひとめぼれなど、多くの主力品種は一般品種です。これらの品種を使用している農家は、種苗法改正による影響をほとんど受けません。
正規に購入した登録品種の種苗を用いて得られた収穫物の販売には、育成者権の効力は及びません。
これを「権利の消尽」といいます。
つまり、適法に種苗を購入して栽培し、収穫した農産物を販売する分には何の問題もないのです。問題になるのは、無断で種苗を増殖したり、海外に持ち出したりする行為です。
もし育成者権侵害の疑いをかけられた場合、農林水産大臣に判定を請求することができます。判定制度は、品種登録時の「特性表」と栽培している品種を比較して、侵害の有無を判断してもらえる仕組みです。判定結果は裁判での証拠となるほか、当事者間の示談交渉でも活用できます。
実務面で困ったときは、最寄りのJAや都道府県の農業改良普及センターに相談するとよいでしょう。品種登録制度の運用や許諾手続きについて、専門的なアドバイスを受けられます。また、種苗管理センターでは育成者権侵害対策に係る相談を受け付けており、情報提供や助言を得ることができます。
農業従事者にとって、品種登録制度を正しく理解し適切に対応することは、法令遵守はもちろん、優良品種を長期的に利用し続けるためにも重要です。育成者権を尊重することで、研究機関や種苗会社による新品種開発が促進され、結果として農業全体の発展につながります。このような視点を持つことで、持続可能な農業経営が実現できるのです。