宮城県北部に広がる大崎平野は、古くから「大崎耕土(おおさきこうど)」と呼ばれ、東北有数の穀倉地帯として知られています。この地は、単に広大な農地が広がっているだけでなく、数百年以上にわたる苦難の歴史と、それを乗り越えるために築き上げられた高度な農業システムが存在します。2017年、その価値が国際的に認められ、国際連合食糧農業機関(FAO)により「世界農業遺産(GIAHS)」に認定されました 。
参考)世界農業遺産「大崎耕土」 - 宮城県公式ウェブサイト
世界農業遺産とは、社会や環境に適応しながら何世代にもわたって継承されてきた独自性のある伝統的な農林水産業と、それに関わって育まれた文化、景観、生物多様性などが一体となった世界的に重要な地域を認定する制度です 。大崎耕土が評価された最大のポイントは、「持続可能な水田農業を支える大崎耕土の伝統的水管理システム」にあります 。
参考)大崎耕土とは – 大崎耕土「世界農業遺産」
この地域は、奥羽山脈から流れる江合川(えあいがわ)と鳴瀬川(なるせがわ)の流域に位置していますが、地形的な特性から常に「渇水」と「洪水」という二つの相反するリスクにさらされてきました。山間部からの水は豊かである一方で、急流であるため大雨が降ればすぐに洪水となり、逆に雨が少なければすぐに水不足に陥るという、農業を行うには非常に厳しい環境だったのです 。
参考)https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2018/06/201802_24.pdf
さらに、東北地方特有の冷たく湿った季節風「やませ」による冷害も頻発し、先人たちは常に飢饉の恐怖と戦わなければなりませんでした。このような過酷な環境下で、いかにして水をコントロールし、安定した食料生産を行うか。その答えとして編み出されたのが、地形を巧みに利用した複雑かつ合理的な水管理システムと、屋敷林「居久根(いぐね)」を中心とした暮らしの知恵でした 。
参考)宮城県 大崎地域:農林水産省
現代の農業においても、気候変動による異常気象や災害のリスクは高まっています。大崎耕土に残る、自然と共生しながらリスクを分散・回避する仕組み(レジリエンス)は、これからの持続可能な農業経営を考える上で、非常に多くの示唆を与えてくれる生きた教科書と言えるでしょう。認定から数年が経過し、この遺産を守りながら、いかに経済的なメリットに変えていくかという新たな挑戦も始まっています 。本記事では、大崎耕土が世界に認められた理由を深掘りし、そこから得られる農業のヒントを紐解いていきます。
参考)https://www.chisou.go.jp/tiiki/kankyo/teian/2022sdgs_pdf/presentation/02_P_oosakishi.pdf
大崎耕土の核心とも言えるのが、「巧みな水管理」と呼ばれるシステムです。これは単に用水路が整備されているということではなく、地域の高低差や河川の特性を極限まで利用した、非常に精緻なネットワークを指します。
まず特筆すべきは、上流域と下流域での水管理の役割分担と連携です。上流域や中流域では、江合川や鳴瀬川から水を取り込むために多くの「堰(せき)」が設けられています。しかし、平野部は高低差が複雑で、水が届きにくい場所も多々あります。そこで先人たちは、山や丘陵をくり抜いた「隧道(ずいどう)」や、川底の下をくぐらせる「潜穴(せんけつ)」、さらにはサイフォンの原理を利用した施設など、高度な土木技術を駆使して水路を張り巡らせました 。
参考)https://www.jcca.or.jp/kaishi/302/302_toku2.pdf
巧みな水管理基盤 - ギャラリー – 大崎耕土「世界農業遺産」
参考リンク:大崎耕土の「巧みな水管理」を支える堰や潜穴などの具体的な施設写真と解説が見られます。
特に興味深いのは、「番水(ばんすい)」と呼ばれる水配分のルールと、排水を再利用する「還元水(かんげんすい)」の仕組みです。渇水時には、地域全体で厳格なルールの下、時間を区切って順番に水田に水を入れる番水が行われます。また、上流の水田から排出された水(落ち水)を、下流の農家が再び用水として利用する仕組みが整っており、限られた水資源を一滴も無駄にしない徹底したリサイクルシステムが機能しています 。
一方で、下流域においては「洪水対策」が主眼に置かれます。大雨の際には、水田そのものを一時的なダムとして機能させるほか、広大な遊水地(蕪栗沼など)に水を逃がすことで、集落や市街地への浸水を防いでいます。つまり、水田農業のためのシステムが、そのまま地域全体の防災インフラとして機能しているのです。このように、利水と治水を巧みに組み合わせ、地域全体で水を統御するシステムこそが、世界が驚嘆した「大崎耕土」の真髄なのです 。
大崎耕土の風景を特徴づけるもう一つの要素が、「居久根(いぐね)」と呼ばれる屋敷林です。これは農家の屋敷の北側や西側に植えられた杉や竹、果樹などの林のことで、単なる庭木ではありません。居久根は、厳しい自然環境の中で農家の暮らしを守るための「多機能な緑の要塞」としての役割を果たしてきました 。
参考)https://www.shinaimotsugo.com/ivent/yousi/yousi_2018_10/121.pdf
第一の機能は「防災」です。冬の季節風「やませ」や地吹雪から家屋を守る防風林としての役割に加え、洪水時には水の勢いを弱め、屋敷への漂流物の衝突を防ぐ役割も果たします。また、根がしっかりと張ることで地盤を強化し、土砂崩れを防ぐ効果もあります。実際に過去の洪水災害においても、居久根があったことで家屋の流失を免れた事例が多く報告されています 。
第二の機能は「資源の供給」です。居久根には、建築用材となる杉や、日用品の材料となる竹だけでなく、柿や栗などの果樹、山菜などが植えられています。かつては、落ち葉が貴重な燃料や堆肥の材料となり、持続可能な循環型農業の拠点となっていました。居久根はいわば、敷地内にある「小さな里山」であり、自給自足的な暮らしを支えるインフラだったのです 。
参考)https://www.city.osaki.miyagi.jp/material/files/group/12/1iguneneitya-pozitibu.pdf
そして近年、再評価されているのが「生物多様性の保全」機能です。調査によると、居久根には600種以上の植物が確認されており、水田と居久根を行き来するカエルやトンボ、鳥類などにとって、貴重な隠れ家や繁殖地となっています。広大な水田地帯の中に点在する居久根は、生き物たちのネットワークをつなぐ重要な結節点(エコロジカル・ネットワーク)として機能しており、これが大崎耕土の豊かな生態系を支えています 。
世界農業遺産の認定は、単なる名誉称号にとどまらず、農産物のブランド価値を高めるための強力なツールとしても活用されています。その代表例が、絶滅危惧種の淡水魚「シナイモツゴ」の保全活動と連携したお米のブランド化です 。
参考)https://osakikoudo.jp/wp-content/uploads/2020/07/%E5%89%AF%E8%AA%AD%E6%9C%AC%E6%A6%82%E8%A6%81%E7%89%88%EF%BC%88%E5%85%A8%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%EF%BC%89.pdf
シナイモツゴは、かつては大崎地域のため池に多く生息していましたが、外来種の影響や環境変化により絶滅の危機に瀕していました。そこで、地元農家やNPOが協力し、シナイモツゴが生息するため池の水を使い、農薬や化学肥料を大幅に減らして栽培した米を「シナイモツゴ郷の米」としてブランド化しました。このお米は、環境保全に貢献する商品として消費者から高く評価され、通常のお米よりも高値で取引されています 。
参考)https://www.shinaimotsugo.com/katudo/satomai/satomai_2020.pdf
また、大崎地域全体で「大崎耕土世界農業遺産ブランド認証」制度が設けられています。これは、大崎耕土の理念に基づいて生産された農産物や加工品を認証し、ロゴマークの使用を認めるものです。対象は米だけでなく、伝統野菜や、それらを使った日本酒、味噌、豆腐などの加工品にも広がっています 。
参考)豊饒の大地「大崎耕土」世界農業遺産ブランド認証の受け付けが始…
ブランド認証・申請について - 大崎耕土「世界農業遺産」
参考リンク:自身の農産物を「世界農業遺産ブランド」として認証してもらうための要件や手続きの流れが詳しく解説されています。
この認証制度のメリットは、消費者に「環境に配慮した高品質な商品」というストーリーを明確に伝えられる点にあります。SDGsへの関心が高まる中、単に「美味しい」だけでなく、「背景に物語がある」「環境を守っている」という付加価値は、差別化の大きな武器となります。実際に、認証を受けた商品は、道の駅や都市部の百貨店などで特設コーナーが設けられるなど、販路拡大にもつながっています 。
世界農業遺産への認定は、農業以外の分野、特に観光産業にも新しい風を吹き込んでいます。大崎地域には、鳴子温泉郷などの有名な温泉地がありますが、これらと農業体験を組み合わせた「農泊湯治(のうはくとうじ)」という新しいツーリズムが注目されています 。
参考)世界農業遺産「大崎耕土」ツーリズム – 大崎耕土…
従来の観光は「見る」ことが中心でしたが、農泊湯治は「体験する」ことに重きを置いています。観光客は、農家に民泊したり、日帰りで農業体験(田植え、稲刈り、伝統野菜の収穫など)を行ったりします。そして、作業の後は温泉で疲れを癒やし、地元の食材を使った料理を味わう。この一連の流れが、都市部の住民や外国人観光客にとって、特別な「非日常体験」として受け入れられています 。
参考)https://www.city.osaki.miyagi.jp/material/files/group/22/20190110-174057.pdf
例えば、農作業体験を通して、観光客は大崎耕土の巧みな水管理や居久根の役割を肌で感じることができます。農家にとっては、農産物を販売するだけでなく、体験料という新たな収入源を得る機会になります。また、直接消費者と交流することで、ファン(固定客)を獲得し、継続的な農産物の購入につなげることも可能です 。
さらに、「フィールドミュージアム(屋根のない博物館)」という構想も進められています。これは、博物館の建物の中に展示物を並べるのではなく、大崎耕土全体を一つの博物館と見立て、現地を巡りながら歴史や文化を学ぶというスタイルです。案内板の設置やガイドの育成が進められており、農業者が自らの言葉で地域の魅力を語る「語り部」としての役割も期待されています 。
参考)大崎耕土「世界農業遺産」
最後に、農業従事者の皆様にぜひ知っていただきたい、大崎耕土ならではの技術的な「独自視点」をご紹介します。それは、寒冷地で稲作を行うために編み出された、水温管理の極意です。
大崎耕土は、夏場にオホーツク海気団から吹き付ける冷たい風「やませ」の影響を受けやすく、過去に何度も深刻な冷害に見舞われてきました。この冷害から稲を守るために確立されたのが、「深水管理(ふかみずかんり)」と「昼間止め水」という技術です 。
参考)世界農業遺産「持続可能な水田農業を支える『大崎耕土』の伝統的…
「深水管理」とは、低温注意報などが発令された際、水田の水位を通常よりも深く(例えば15cm〜20cm程度)保つ技術です。水は空気よりも熱容量が大きいため、冷たい外気にさらされても水温が急激に下がりにくいという性質があります。水位を深くして稲の幼穂(ようすい)を水中に沈めることで、冷たい風から物理的に守り、保温効果を高めるのです 。
参考)https://www.city.osaki.miyagi.jp/material/files/group/23/20180620-132028.pdf
一方、「昼間止め水」は、晴れた日の日中に水口を締め切り、水田内の水の動きを止める技術です。水の動きを止めることで、太陽熱によって水温が上昇しやすくなります。そして、十分に温まった水を夕方まで保ち、夜間の気温低下に備えるのです。逆に、夜間に水温よりも気温が下がる場合は、夜間に水を入れて水温の低下を防ぐ「夜間入水」を行うなど、気象条件に合わせてきめ細やかな水管理が行われています 。
参考)https://www.shinaimotsugo.com/ivent/yousi/yousi_2019_10/13_takemoto.pdf
これらの技術は、現代のようにポンプや自動給水機が普及する前から、農家の経験と勘、そして重労働によって支えられてきました。現在では、ICTを活用した自動水管理システムの導入実験なども進められていますが、その根底にあるのは「水を操り、熱を管理する」という先人の知恵です 。この基本原理は、大崎地域に限らず、気候変動による極端な気象現象が増えている現代において、あらゆる地域の稲作で応用可能なリスク管理の要諦と言えるのではないでしょうか。
参考)世界農業遺産「大崎耕土」を維持し、持続可能な農業に取り組む—…