農業生産者や食品加工業者にとって、収穫後の農産物が変色してしまう「褐変」は、商品価値を著しく低下させる深刻な課題です。この現象の主要な引き金となるのが、「ポリフェノールオキシダーゼ(PPO)」と呼ばれる酸化酵素です。PPOは植物界に広く存在しており、特にリンゴ、バナナ、ジャガイモ、レタスなどの果実や野菜に多く含まれています。
参考)花王
この酵素が引き起こす反応は「酵素的褐変」と呼ばれ、物理的な衝撃やカット加工によって植物の細胞組織が破壊されることから始まります。細胞が壊れると、通常は液胞内に隔離されているポリフェノール類と、細胞質や葉緑体などに存在するPPOが接触します。さらに空気中の酸素が介在することで、PPOはポリフェノールを酸化させ、「キノン」という物質を生成します。生成されたキノンは非常に反応性が高く、さらに重合反応を繰り返すことで「メラニン」という褐色の色素を形成し、これが私たちが目にする茶色の変色となります。
参考)食品製造における褐変・変色防止事例(青果・抹茶・肉など) -…
興味深いことに、このPPOは植物の生理機能において重要な役割を果たしていると考えられています。例えば、植物が昆虫や動物にかじられた際、傷口で即座に褐変反応を起こすことで、有毒なキノンを生成し、外敵の摂食を阻害する防御機構として機能しているという説が有力です。しかし、人間が食料として利用する場合には、この防御反応が逆に見た目の劣化や異臭の原因となってしまうのです。
参考)ミネラル第10回 植物と銅
農業現場において特に注意が必要なのは、収穫時の取り扱いです。落下や圧迫による打撲傷は、外部からは見えなくても内部で細胞破壊を引き起こし、PPOによる褐変を進行させます。これを防ぐためには、収穫から輸送に至るまで、物理的なストレスを最小限に抑える丁寧なハンドリングが求められます。また、PPOは銅イオンを活性中心に持つ酵素であるため、銅欠乏の植物では活性が低下することが知られていますが、生育に必要な微量要素でもあるため、極端な制限は現実的ではありません。
農研機構の詳しい解説には、リンゴの褐変メカニズムと遺伝的要因について記載があります。
農研機構:リンゴの果肉褐変性は3箇所の染色体領域に制御される
酸化酵素の例として、PPOと並んで農業分野で頻繁に言及されるのが「ペルオキシダーゼ(POD)」です。PPOが主に食品の変色というネガティブな文脈で語られることが多いのに対し、ペルオキシダーゼは植物の生存戦略やストレス耐性において、より広範で複雑な機能を担っています。
参考)ペルオキシダーゼ - Wikipedia
ペルオキシダーゼは、過酸化水素(H₂O₂)を電子受容体として様々な基質を酸化するヘムタンパク質酵素です。植物体内では、細胞壁の主要成分である「リグニン」の生合成に深く関与しています。リグニンは植物の体を支える木質化を促進し、物理的な強度を高める物質です。つまり、ペルオキシダーゼの働きによって植物は茎を硬くし、風雨に耐え、直立して成長することが可能になるのです。
さらに、ペルオキシダーゼは植物の「免疫システム」の最前線でも活躍しています。病原菌が侵入しようとした際、植物は急激に活性酸素種(ROS)を生成しますが、ペルオキシダーゼはこれを利用して細胞壁を強化したり、感染部位の細胞を意図的に死滅させたり(過敏感反応)することで、病原菌の拡散を封じ込めます。このため、病害抵抗性の強い品種では、感染時にペルオキシダーゼ活性が素早く上昇する傾向が見られます。
一方で、収穫後の品質保持という観点からは、ペルオキシダーゼは野菜の鮮度指標としても利用されます。例えば、ブランチング(加熱処理)が十分に行われたかどうかを確認する際、熱安定性の高いペルオキシダーゼが失活しているかどうかが一つの基準となります。もしペルオキシダーゼが活性を残していると、冷凍野菜などで長期保存中に不快な風味(オフフレーバー)が発生したり、変色が進行したりする原因となります。
また、ペルオキシダーゼは特定の条件下で食品の劣化にも関与します。例えば、脂質の酸化を促進したり、特定の色素を分解したりすることで、加工食品の品質を損なう場合があります。しかし、その強力な酸化力を利用して、排水中の有害物質(フェノール類など)を除去する環境浄化技術への応用も研究されており、農業環境の保全という面でも注目されています。
花王の健康科学研究会による記事では、食品の褐変と制御について化学的な視点から詳細に解説されています。
食品加工や6次産業化に取り組む農業従事者にとって、酸化酵素の制御は製品の品質を決定づける最重要課題の一つです。PPOやPODによる劣化を防ぐためには、酵素が働くための条件(基質、酵素、酸素、温度、pH)のいずれかを阻害することが基本戦略となります。以下に、現場で実践されている具体的な制御技術とその原理を詳述します。
最も確実かつ一般的な方法は加熱です。酵素はタンパク質でできているため、熱を加えることでその立体構造が変性し、触媒としての機能を失います(失活)。多くの酸化酵素は70℃〜90℃程度の加熱で数分以内に失活します。冷凍野菜の製造工程では、急速冷凍の前に必ずブランチング処理を行い、酵素活性を止めることで長期保存中の変色や異臭の発生を防いでいます。ただし、過度な加熱は素材の食感やフレッシュな風味を損なうため、品目ごとに最適な温度と時間の管理が不可欠です。
PPOを含む多くの酸化酵素は、pH6.0〜7.0付近の中性域で最も活性が高くなります。逆に、pHを酸性側(pH4.0以下)に傾けることで、酵素活性を著しく低下させることができます。カットフルーツの変色防止にレモン汁やクエン酸溶液を使用するのはこのためです。また、ビタミンC(アスコルビン酸)の添加は、pHを下げる効果に加えて、生成されたキノンを再び無色のポリフェノールに還元する作用も併せ持っており、二重の防止効果が期待できます。
酸化酵素が反応するためには酸素が不可欠です。したがって、物理的に酸素を遮断することも有効な対策となります。真空包装や脱気包装、または水に浸漬して空気との接触を断つ方法は、シンプルながら非常に効果的です。また、シロップ漬けや油漬けなどの加工形態も、酸素遮断による褐変防止の一例といえます。
食塩水にリンゴを浸すという伝統的な知恵も理にかなっています。塩化物イオン(Cl⁻)はPPOの活性を特異的に阻害する作用を持っています。ただし、高濃度の塩分は味に影響を与えるため、加工食品では0.5%〜1%程度の低濃度で使用されることが一般的です。
最近では、これらの物理的・化学的処理に加えて、「高圧処理」などの非加熱技術も研究されています。数千気圧という超高圧をかけることで、熱を加えずに酵素タンパク質を変性させ、フレッシュな風味を保ったまま褐変を防止する技術です。設備投資は必要ですが、プレミアムな加工品開発において差別化要因となり得ます。
三菱ガス化学フーズ株式会社による技術資料では、脱酸素剤を用いた具体的な変色防止事例が紹介されています。
酸化酵素による褐変問題に対する究極の解決策として、近年急速に進展しているのが「育種(品種改良)」によるアプローチです。加工や流通過程での対策に頼るのではなく、遺伝子レベルで酸化酵素の働きを抑えた作物を開発しようという動きが、世界中で加速しています。
参考)リンゴの果肉褐変性は3箇所の染色体領域に制御される
代表的な成功例として挙げられるのが、褐変しにくいリンゴ品種の開発です。従来の「ふじ」などの品種は、カットすると数分で茶色く変色してしまいますが、長野県果樹試験場などが育成した「シナノゴールド」や、海外の遺伝子組換え技術を用いた「Arctic Apple(北極リンゴ)」などは、PPOの活性が極めて低い、あるいはPPO遺伝子の発現が抑制されているため、カットしても長時間美しい色を保ちます。これにより、カットフルーツとしての流通期間が飛躍的に延び、食品ロスの削減にも貢献しています。
参考)https://iwate-u.repo.nii.ac.jp/record/15438/files/SHIMIZU-Taku-2021-A.pdf
また、小麦の分野でも画期的な進歩が見られます。うどんや麺類などの小麦製品は、時間が経つとくすんだ灰色に変色(あずき色化)することがありますが、これも小麦粉に含まれるPPOが原因です。農研機構などの研究グループは、小麦のPPO活性を支配する遺伝子座を特定し、DNAマーカー選抜を利用して、PPO活性が極めて低い小麦品種の開発に成功しています。これにより、時間が経っても白く美しい色調を維持できる麺用小麦が実用化され、製粉・製麺業界から高い評価を得ています。
参考)(研究成果) 小麦粉生地の色相が悪化しにくく、 国産小麦の高…
さらに最近では、ゲノム編集技術(CRISPR-Cas9など)を用いて、特定のPPO遺伝子のみをピンポイントで破壊(ノックアウト)する研究も進んでいます。ジャガイモやマッシュルームなどにおいて、褐変に関与する酵素を作らせないようにすることで、打撲による黒ずみや調理後の変色を防ぐ品種が開発されています。従来の交配育種に比べて短期間で改良が可能であり、褐変防止剤の使用を減らせるため、消費者の「食の安全・安心」へのニーズにも合致します。
こうした「褐変しにくい品種」の導入は、生産者にとっては見た目のクレーム減少につながり、加工業者にとっては歩留まりの向上や添加物の削減というメリットをもたらします。今後は、栽培特性だけでなく、「加工適性」としての酵素活性の低さが、品種選定の重要な基準になっていくでしょう。
農研機構による研究成果として、PPO遺伝子を制御した小麦の新品種開発に関するプレスリリースがあります。
農研機構:国産小麦の高品質化に役立つ新たな育種素材開発に成功
これまでは主に食品の品質劣化というネガティブな側面から酸化酵素を見てきましたが、視点を「土壌」に移すと、酸化酵素は農業生産を支える非常にポジティブで重要な役割を果たしていることが分かります。実は、土壌中には微生物や植物根から分泌された多様な酵素が存在しており、その中でもペルオキシダーゼやポリフェノールオキシダーゼなどの酸化酵素は、土壌の「地力」や「炭素循環」の鍵を握っています。
参考)【科学的/徹底解説】バイオスティミュラントの開発とは?その潜…
特に注目すべきは「腐植(フミン酸など)」の形成プロセスです。植物の遺体(リグニンやセルロース)は、そのままでは分解されにくい難分解性の有機物です。土壌中の糸状菌(カビの仲間)や放線菌などが分泌する酸化酵素は、これらの強固な構造を持つ有機物を分解・酸化し、より安定した「腐植」へと再合成する過程を触媒します。腐植は土壌の団粒構造を形成し、保肥力や保水力を高める農業にとっての「宝」です。つまり、酸化酵素の働きがなければ、豊かな土壌は作られないと言っても過言ではありません。
参考)http://www.infrc.or.jp/wxp/wp-content/uploads/NFM/NFM_7410.pdf
また、土壌中の酸化酵素活性を測定することで、その土壌の生物学的な活性度や健全性を診断する試みも行われています(生物肥沃度指数など)。一般に、有機物を適切に施用し、微生物相が豊かな土壌では、デヒドロゲナーゼやカタラーゼ、ペルオキシダーゼなどの酵素活性が高くなる傾向があります。これは、土壌が単なる無機物の粒子ではなく、物質循環が活発に行われている「生きている土壌」である証拠です。
さらに、一部の酸化酵素は、連作障害の原因となる有害物質の解毒にも関与している可能性があります。植物が根から分泌するアレロパシー物質(他感作用物質)の多くはフェノール性化合物ですが、土壌中の微生物が持つ酸化酵素によってこれらが速やかに分解・無毒化されれば、連作障害のリスクを軽減できると考えられています。
このように、酸化酵素は「食品の敵」であると同時に、「土壌の守護者」でもあります。農業従事者は、収穫後の褐変防止には細心の注意を払いつつ、栽培期間中は土壌中の酵素活性を高めるような土作り(良質な堆肥の投入や緑肥の活用など)を意識することが、持続可能な農業生産において重要です。一見矛盾するように見えるこの二面性を理解し、場面に応じて適切にコントロールすることこそが、プロフェッショナルな農業技術と言えるでしょう。
アグリテクノジャパンによる解説では、土壌中の酵素活性とバイオスティミュラントの関係について詳しく触れられています。