ゲノム編集技術、特にCRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)の登場により、品種改良のスピードは劇的に加速しました。しかし、この技術には「オフターゲット効果」と呼ばれる重大な技術的課題が存在し、その安全性については現在も活発な議論が続いています。オフターゲット効果とは、編集しようとした標的のDNA配列と似た配列を持つ別の場所を、酵素が誤って切断・編集してしまう現象のことです 。
参考)ゲノム編集~新しい育種技術~:農林水産技術会議
この現象が起きると、本来維持されるべき重要な遺伝子が破壊されたり、予期せぬタンパク質が生成されたりする可能性があります。農業分野において、これが単なる形質の変化で済めば良いですが、植物が本来持っていないアレルゲン物質を生成したり、毒性を持つ代謝産物を作り出したりするリスクもゼロではありません 。
参考)ゲノム編集技術応用へのハードル 医学では生命倫理だが農作物や…
現在の技術では、これらのオフターゲット効果を完全に予測し、防ぐことは困難です。もちろん、研究段階では全ゲノムシーケンス解析を行い、意図しない変異がないか確認する作業が行われていますが、検出限界以下の微細な変異や、世代を超えて顕在化する影響については未解明な部分も多く残されています。
さらに、「モザイク」と呼ばれる現象も課題の一つです。これは、受精卵や細胞塊にゲノム編集を行った際、一部の細胞では編集が成功しても、別の細胞では編集が起きていない、あるいは異なる変異が起きている状態を指します。モザイク個体が親となり次世代を残す場合、その遺伝形質がどのように分離・継承されるかを予測することは非常に複雑になります。
参考:農林水産技術会議 - ゲノム編集~新しい育種技術(オフターゲット変異についての解説)
農業現場におけるもう一つの大きな懸念は、ゲノム編集作物が自然環境や生物多様性に与える不可逆的な影響です。実験室や閉鎖系温室での栽培とは異なり、一般の農地で栽培された場合、花粉の飛散や種子の流出を完全に防ぐことは不可能です。もし、除草剤耐性や病害虫耐性を持たせたゲノム編集作物が、近縁の野生植物と交雑した場合、その形質が野生種に広がり「スーパーウィード(超雑草)」を生み出すリスクがあります 。
参考)https://www.maff.go.jp/j/syouan/nouan/carta/tetuduki/attach/pdf/201225_sympo-12.pdf
特に議論の的となっているのが「遺伝子ドライブ」という技術の応用です。これは、特定の遺伝子改変を、メンデルの遺伝法則を超えて集団全体に急速に広める技術です。害虫駆除などの目的で研究されていますが、一度環境中に放出されると、特定の種を絶滅させたり、生態系のバランスを根本から崩壊させたりする恐れがあります。一度拡散した遺伝子を自然界から回収することは事実上不可能であり、この「不可逆性」こそが最大の環境リスクと言えます 。
参考)https://www.mdpi.com/2073-4395/11/6/1183/pdf
| リスク要因 | 具体的な懸念事項 | 生態系への影響度 |
|---|---|---|
| 交雑による拡散 | 近縁野生種への耐性遺伝子の移動 | 中〜高(雑草化の懸念) |
| 非標的生物への影響 | 特定の害虫以外(益虫など)への被害 | 中(食物連鎖の混乱) |
| 遺伝子ドライブ | 特定の種の根絶や形質の強制拡散 | 甚大(生態系の不可逆的変化) |
日本ではカルタヘナ法に基づき、遺伝子組換え生物の環境放出が規制されていますが、ゲノム編集の一部(外来遺伝子が残っていないSDN-1など)はこの規制の対象外となるケースがあり、環境影響評価(アセスメント)が十分になされないまま野外栽培が進むことが懸念されています 。
参考)ゲノム編集食品はいらない | コープ自然派 ~オーガニック、…
参考:農林水産省 - ゲノム編集技術を用いた農林水産物への期待と懸念
私たちが口にする食品としての安全性と、それをどう選択するかという「知る権利」の問題も深刻です。現在、日本の規制では、外部から別の遺伝子を導入する「遺伝子組換え(GMO)」とは異なり、自然界でも起こりうる変異(塩基の欠失など)を人工的に起こしただけのゲノム編集食品については、安全性審査の義務がなく「届出」だけで流通が可能となっています 。
参考)https://www.pref.kanagawa.jp/documents/104373/r5-4kiso_eiken_news_218.pdf
最も消費者が懸念しているのは、食品表示の問題です。遺伝子組換え食品には表示義務がありますが、ゲノム編集食品には現在のところ法的な表示義務がありません。これは、科学的に「自然変異と区別がつかない」ため、検査で検知することが技術的に困難であるという理由からです。しかし、消費者にとっては「表示がないため、避けたとしても知らずに食べてしまう」という状況が生まれています 。
参考)【特別決議】「ゲノム編集食品の厳格な規制と表示義務化を求める…
この「見えない流通」は、食の安全に対する不信感を招きかねません。一部の市民団体や生協などは、独自の基準でゲノム編集食品を取り扱わない方針を掲げていますが、一般のスーパーマーケットや外食産業でこれらが使用された場合、消費者が選択する術はほとんど残されていないのが現状です。
参考:厚生労働省 - ゲノム編集作物に規制は必要か(消費者の視点からの検討資料)
技術的な安全性や法規制を超えて、より根源的な「倫理」の問題も無視できません。ゲノム編集は、生命の設計図を人間が意図的に書き換える行為であり、これはしばしば「神の領域」への介入として批判されます。特に動物への応用においては、生産効率を上げるために過剰に筋肉を発達させたり(例:マダイやトラフグ)、特定の病気に耐性を持たせたりする操作が行われていますが、これが動物福祉(アニマルウェルフェア)の観点から適切なのかという議論があります 。
参考)https://www.semanticscholar.org/paper/9de67fe3cdf829dfbb6b980e2048dd59831ed3a7
例えば、筋肉量を増加させた家畜は、骨格への負担が増して歩行困難になったり、内臓機能に障害が出たりする可能性があります。経済的な利益のために、動物に対して苦痛を伴うような遺伝的改変を行うことは、倫理的に許されるのでしょうか。
また、この技術が「スリッパリー・スロープ(滑りやすい坂道)」となり、最終的には人間の生殖細胞や受精卵への介入、いわゆる「デザイナーベビー」につながるのではないかという懸念も根強く存在します。植物や家畜での技術蓄積は、そのままヒトへの応用技術の基盤となり得るため、どこで線を引くかという国際的な合意形成が急務となっています 。
参考)https://www.cape.bun.kyoto-u.ac.jp/wp-content/uploads/2014/03/ba49fed30b26a9aba3999ea520014981.pdf
「自然な状態」とは何か、人間が生物の進化のプロセスにどこまで介入してよいのかという哲学的な問いは、技術の進歩があまりにも早すぎる現代において、置き去りにされがちです。
参考:ナフィールド生命倫理評議会 - ゲノム編集の倫理的検討(詳細な倫理レポート)
最後に、あまり語られることの少ない、しかし農業関係者にとって死活問題となるのが「知的財産権(特許)」の問題です。CRISPR-Cas9などのゲノム編集技術は、ブロード研究所(Broad Institute)やカリフォルニア大学バークレー校(UC Berkeley)などの海外機関が基本特許を保有しており、激しい特許紛争が繰り広げられています 。
参考)ゲノム編集技術の基本特許と農業分野の社会実装への影響と対策
この技術を利用して品種改良を行う場合、莫大な特許使用料(ライセンス料)が発生する可能性があります。これは、大資本を持つ多国籍企業(バイオメジャー)による種子の独占を招き、中小規模の種苗会社や地域の農家が市場から排除される「農業格差」を拡大させる恐れがあります。
従来の育種であれば、農家が自家採種を行って次作に備えることができましたが、特許で守られたゲノム編集種子には厳しい契約条件が課され、自家採種が禁止されたり、毎年高額な種子を購入しなければならなくなったりする可能性があります。これは「種子の支配」とも呼べる状況で、食料主権を脅かす深刻な問題です 。
参考)https://www.mhlw.go.jp/content/11121000/000404388.pdf
日本の農業が海外の特許技術に依存することになれば、国家としての食料安全保障上のリスクも高まります。技術の恩恵を誰が受け、そのコストを誰が払うのか、経済的な視点からの検証も不可欠です。
参考:化学と生物 - ゲノム編集技術の基本特許と農業分野の社会実装への影響と対策