農業や畜産の現場において、「アニマルウェルフェア(動物福祉)」という言葉を耳にする機会が増えてきました。しかし、その中心的な概念である「5つの自由」について、具体的な定義や歴史的背景まで深く理解している方はまだ少ないかもしれません。アニマルウェルフェアとは、単に動物を愛護するという精神論ではなく、家畜が生まれてから死を迎えるまでの間、その生活環境において精神的・身体的に健全な状態にあることを指す科学的な概念です。
この「5つの自由」は、1960年代のイギリスで発足したブランベル委員会(Brambell Committee)の報告書を起源としています。当時、集約的な畜産システムが普及する中で家畜の福祉懸念が高まり、政府が専門家による委員会を設置しました。この報告書は、家畜が最低限享受すべき権利として「立つ、寝る、向きを変える、身繕いをする、手足を伸ばす」という自由を提唱しました。その後、この概念は整理・拡張され、1990年代にイギリスのFAWC(家畜福祉協議会)によって現在の「5つの自由」として確立されました。
現在、この基準は国際獣疫事務局(OIE、現WOAH)の陸生動物衛生規約にも採用されており、世界的な畜産貿易のルールや品質基準のベースとなっています。日本の農林水産省もこのOIEの基準に準拠し、「アニマルウェルフェアの考え方に対応した飼養管理指針」を策定しています。つまり、「5つの自由」は欧州だけの特別なルールではなく、日本の畜産農家にとっても無視できない国際的な「品質管理のスタンダード」となっています。
農林水産省:アニマルウェルフェアについて(飼養管理指針など)
OIE陸生動物衛生規約 第7.11章 アニマルウェルフェアと乳用牛(参考訳)
具体的には以下の5つの要素から構成されています。
これらは「すべてを完璧に満たさなければならない」という実現不可能な理想論として捉えるのではなく、現状の飼養管理におけるリスクを洗い出し、改善するための「チェックリスト」として活用することが重要です。
現場レベルで最も具体的かつ数値化しやすいのが、環境に関連する「飢え・渇き」「物理的・熱の不快」への対策です。ここでは、単にエサや水があるかどうかだけでなく、その「質」と「アクセス性」が問われます。
1. 水と栄養のアクセス性
「水を与えている」といっても、水槽が汚れていたり、水圧が弱くて十分な量が飲めなかったりする場合、家畜はストレスを感じます。特に乳牛などの高泌乳牛は大量の水を必要とします。
2. 物理的環境とアンモニア濃度
「不快からの自由」において見落とされがちなのが、畜舎内の空気環境です。特にアンモニア濃度は、家畜の呼吸器系に直接的なダメージを与え、発育不良や疾病の原因となります。
OIEのコードや多くの指針では、鶏舎や豚舎内のアンモニア濃度は25ppmを超えないことが推奨されています。
これを防ぐためには、適切な換気システムの導入や、敷料(リター)のこまめな交換・撹拌による乾燥状態の維持が不可欠です。
農林水産省:アニマルウェルフェアに配慮した家畜の飼養管理等について
3. 暑熱対策とTHI(温湿度指数)
近年の猛暑において、「熱の不快」への対策は生産性に直結します。ここで指標となるのがTHI(Temperature-Humidity Index:温湿度指数)です。気温だけでなく湿度を加味したこの指数は、家畜が実際に感じるストレスレベルを測るのに役立ちます。
人間が「ちょっと暑いな」と感じる段階で、牛たちはすでに深刻なダメージを受けている可能性があります。送風ファンやスプリンクラー、細霧システムの稼働開始基準を、従来の感覚よりも早めに設定することが、不快を取り除き、乳量低下や受胎率低下を防ぐ鍵となります。
| THI値 | 牛のストレス状態 | 対策例 |
|---|---|---|
| 68未満 | ストレスなし | 通常管理 |
| 68〜71 | 軽度ストレス | 送風ファンの稼働開始、換気の強化 |
| 72〜79 | 中程度ストレス | スプリンクラーや細霧の併用、飲水量の確認 |
| 80以上 | 重度ストレス | 飼養密度の緩和、冷却設備のフル稼働 |
家畜の生活において、身体的な痛みや精神的な恐怖は、コルチゾールなどのストレスホルモンを分泌させ、免疫機能を著しく低下させます。これは感染症への抵抗力を弱め、結果として農場の薬剤費や治療費の増大を招きます。「痛みと恐怖」のコントロールは、コスト削減の観点からも極めて合理的です。
1. 疾病予防と早期発見
「痛み、傷害及び疾病からの自由」は、病気にかからないようにする予防獣医学の徹底を意味します。
2. ストックマンシップと恐怖の排除
「恐怖及び苦悩からの自由」において最も重要なのが、管理者(人間)と家畜との関係性、すなわち「ストックマンシップ」です。家畜は人間の感情や動作に非常に敏感です。
良いストックマンシップを持つ農場では、牛や豚が作業者に近寄ってきたり、触れられることを嫌がらなかったりします。このような農場では、事故による怪我が少なく、増体成績や乳量も高い傾向にあります。「家畜が人間を怖がっていないか?」を常に自問自答することが大切です。
埼玉県:動物の5つの自由(The Five Freedoms for Animal)
5つの自由の中で、従来の集約的な飼育環境(バタリーケージや妊娠ストールなど)と最も対立しやすいのが「通常の行動様式を発現する自由」です。これは、動物が本来持っている習性や本能的な行動を制限しすぎないことを求めています。
しかし、これは必ずしも「すべての家畜を放牧にしなければならない」という意味ではありません。屋内飼育であっても、環境エンリッチメント(飼育環境の工夫)を取り入れることで、本来の行動欲求をある程度満たすことが可能です。
具体的な環境エンリッチメントの例:
異常行動は環境からのSOS
「通常の行動」ができない場合、動物はストレスから「異常行動(常同行動)」を起こします。
これらの行動が見られた場合、それは「5つの自由」の何かが欠けているという動物からのSOSサインです。単にその行動を物理的に止めさせるのではなく、原因となっている環境要因(過密、退屈、換気不足など)を取り除くアプローチが必要です。
最後に、アニマルウェルフェアの概念に関する最新の潮流について触れておきます。「5つの自由」は非常に分かりやすい指針ですが、近年ではこれをさらに発展させた「5つの領域(Five Domains Model)」という考え方が主流になりつつあります。これは、ニュージーランドのマッセー大学のデビッド・メラー教授らによって提唱されたものです。
「5つの自由」が「~からの自由(Freedom from...)」という、ネガティブな要素(苦痛や不快)を取り除くことに主眼を置いていたのに対し、「5つの領域」は、動物がポジティブな経験(快い状態)を得ることを重視しています。
5つの領域の構造:
これら4つの物理的な領域の状態が統合されて、最終的な5つ目の領域である
に影響を与えるというモデルです。
つまり、「病気がない」「飢えていない」というゼロの状態(不快がない状態)を目指すだけでなく、「好奇心が満たされる」「仲間と遊ぶ」「快適で心地よい」といったプラスの精神状態を作り出すことが、真のアニマルウェルフェアであるという考え方です。
なぜこの視点が必要なのか?
従来の「マイナスをゼロにする」管理だけでは、生産性の向上には限界があります。しかし、家畜が「快適だ」「楽しい」と感じるプラスの状態を作ることで、免疫力がさらに活性化し、高品質な畜産物の生産につながることが科学的に裏付けられつつあります。
例えば、ブラッシングを受けて気持ちよさそうにしている牛からは、良質なオキシトシンが分泌され、搾乳がスムーズになります。
日本の農業現場においても、「苦痛を与えない」という守りの姿勢から、「快適さを提供して稼ぐ」という攻めの姿勢へ転換するために、この「5つの領域」の視点を持つことが、次世代の畜産経営において大きな差別化要因となるでしょう。アニマルウェルフェアへの取り組みは、コストではなく、未来への投資なのです。