
なぜ牛にトレーサビリティが必要になったのか、その最大の理由は2001年に日本国内で初めて確認されたBSE(牛海綿状脳症)問題にあります。当時、このニュースは社会に大きな衝撃を与え、牛肉に対する消費者の信頼は一気に失墜しました。どこで生まれ、どのような飼料を食べて育ったのかが不明瞭だったため、安全性の確認や感染経路の特定が極めて困難な状況に陥ったのです。
この教訓から、2003年(平成15年)に「牛の個体識別のための情報の管理及び伝達に関する特別措置法」(通称:牛トレーサビリティ法)が制定されました。この法律の目的は非常に明確です。
農林水産省の資料によると、この制度により、万が一疾病が発生した場合でも、その牛がどこから移動してきたのか、同居していた牛はどれかといった追跡調査が迅速に行えるようになりました。これは単なるデータ管理ではなく、日本の畜産を守るための防波堤としての役割を果たしています。
また、この制度はBSE対策だけにとどまらず、後の口蹄疫(こうていえき)発生時などの防疫措置においても、移動履歴の把握という点において極めて重要なインフラとして機能してきました。「なぜこれほど厳格なのか」という疑問の答えは、過去の甚大な経済的・社会的損失を二度と繰り返さないという、国と生産者の強い決意にあるのです。
牛の個体識別情報検索サービスについての解説はこちら。
独立行政法人家畜改良センター 個体識別情報検索サービス
牛のトレーサビリティシステムを支えているのが、「個体識別番号」と呼ばれる10桁の数字です。これは人間でいうところのマイナンバーのようなもので、日本国内で飼育されるすべての牛に割り当てられています。この番号は、牛の両耳に装着される黄色いタグ「耳標(じひょう)」に印字されており、原則として一生涯変わることはありません。
耳標の装着は、牛が生まれてから(または輸入されてから)原則として7日以内に行うことが法律で義務付けられています。この耳標には、実はあまり知られていない工夫が施されています。
この10桁の番号には、牛の「出生の年月日」「雄雌の別」「母牛の個体識別番号」「飼養施設の所在地(都道府県)」「種別(黒毛和種など)」といった詳細なデータが紐付いています。これらの情報は、独立行政法人家畜改良センターのデータベースに蓄積され、誰でもインターネットを通じて検索・閲覧することが可能です。
畜産農家にとっても、この耳標は個体管理の要です。例えば、自動給餌機と連動させて個体ごとの食欲をモニタリングしたり、発情検知システムと連携させたりと、スマート農業の基盤データとしても活用されています。「なぜ黄色いタグなのか」と疑問に思う方もいるかもしれませんが、これは視認性が高く、遠くからでも確認しやすい色として国際的にも広く採用されている標準的なカラーなのです。
耳標装着のルールと再発行手続きに関する詳細。
独立行政法人家畜改良センター 届出・手続きガイド
「トレーサビリティ牛なぜ」と検索する消費者の多くは、スーパーやレストランで表示されている個体識別番号を見て、その意義を知りたいと考えています。消費者にとっての最大のメリットは、「食品の素性がわかる」という安心感です。
スマートフォンで番号を入力するだけで、その牛肉が「どこの誰が育てたのか」を瞬時に知ることができます。特に、高級な和牛を購入する際、その牛が本当に指定された産地で肥育されたものなのかを確認できることは、購買意欲を後押しする重要な要素となります。産地偽装問題が取り沙汰される昨今、この「見える化」された情報は、品質保証書と同等の価値を持つのです。
一方、生産者(農家)にとってのメリットも計り知れません。
自慢の牛が正当に評価され、安価な外国産や他産地の肉と明確に区別されます。努力して育てたブランド牛の偽物が市場に出回るのを防ぐことができます。
個体識別番号をキーにして、血統情報や過去の病歴、枝肉成績などを一元管理できます。これにより、「どの血統の牛が肉質が良いか」といった分析が可能になり、経営改善に直結します。
万が一の伝染病発生時、移動履歴が明確であれば、関係のない農場への風評被害や不要な移動制限を最小限に抑えることができます。
このように、トレーサビリティシステムは、消費者の「知る権利」を守ると同時に、真面目に取り組む生産者が報われる仕組みを構築するために不可欠なツールなのです。単なる規制ではなく、信頼関係を結ぶためのコミュニケーションツールとして機能しています。
牛トレーサビリティ法において、対象となるのは基本的に「国産牛肉」です。しかし、スーパーなどの店頭では輸入牛肉も見かけます。「なぜ輸入肉には個体識別番号がない場合があるのか」という点について、流通関係者や消費者は正しく理解しておく必要があります。
国産牛肉に関しては、精肉店やスーパー、焼肉店などで販売・提供する際、個体識別番号(またはロット番号)の表示が義務付けられています。これにより、消費者は購入する肉の履歴を追うことができます。
一方で、輸入牛肉については、日本の牛トレーサビリティ法の直接的な対象(番号表示義務)にはなりません。ただし、これには重要な例外と補足があります。
ここで興味深いのは、「ロット番号」の存在です。焼肉店などで「複数の牛の肉が混ざっている場合」などは、個々の10桁番号をすべて表示するのは現実的ではありません。そのため、複数の番号をまとめた「ロット番号」を表示し、店舗やウェブサイトでその内訳(構成する個体識別番号)を確認できるようにする特例措置が認められています。
この表示義務は、外食産業にとっては手間のかかる作業ですが、これを厳格に行う店舗こそが「信頼できる店」であるという指標になっています。逆に言えば、国産牛を謳っているのに番号の掲示や検索手段の提供がない場合、コンプライアンス意識を疑う余地があるかもしれません。
外食・販売店における表示義務の詳細なガイドライン。
農林水産省 牛トレーサビリティ制度の概要
ここからは、検索上位の記事にはあまり出てこない、独自視点のトレーサビリティ活用について解説します。トレーサビリティと言えば「食肉」の話ばかりが注目されますが、実は「副産物」の世界でもその重要性が増しています。
具体的には、「革製品(レザー)」と「堆肥(マニュア)」です。
1. レザー・トレーサビリティの台頭
近年、欧州のラグジュアリーブランドを中心に「アニマルウェルフェア(動物福祉)」や「環境負荷」への関心が高まっています。高級バッグや靴に使われる牛革が、どのような環境で育った牛から得られたものなのか、森林破壊に関与していない牧場か、といった証明が求められるようになってきました。
日本の牛トレーサビリティシステムは世界的に見ても非常に精度が高いため、個体識別番号と革を紐付けることで、「倫理的に正しいレザー」としての付加価値を証明できるポテンシャルを秘めています。実際に、一部のタンナー(製革業者)では、原皮の仕入れ段階から個体識別番号を管理する試みが始まっています。
2. 堆肥と地域循環
また、農業現場では「堆肥」の出所確認にも意識が向き始めています。有機農業において、使用する堆肥が「抗生物質を多用していない牛の糞」由来であるか、あるいは「遺伝子組み換え飼料を食べていない牛」由来であるかを知りたいというニーズです。
現在は法的な表示義務はありませんが、個体識別番号を通じて飼養管理情報を追跡できれば、堆肥の品質保証にも繋がります。これは、耕畜連携(耕種農業と畜産農業の連携)を進める上で、農産物のブランド価値を高める隠れた武器になり得ます。
「なぜ牛の番号が革や土に関係するのか?」という問いへの答えは、SDGsやサステナビリティへの要求が高まる現代において、牛の生涯データが肉以外のあらゆるサプライチェーンにおいて「信頼の証」となるからです。これは今後、日本の畜産業が世界にアピールできる新たな強みとなるでしょう。