日本国内において、農業分野、特に畜産業が抱える環境課題に対する解決策として「カギケノリ(Asparagopsis taxiformis)」の養殖が急速に注目を集めています。カギケノリは温帯から熱帯海域に生息する紅藻の一種であり、これまで日本ではあまり馴染みのない海藻でしたが、近年の研究により、この海藻が持つ驚異的な「メタンガス削減効果」が明らかになりました 。
参考)https://cbijapan.com/wp-content/uploads/2023/04/2022_ochadaifuzoku.pdf
牛や羊などの反芻(はんすう)動物は、消化過程で胃の中の微生物が飼料を発酵・分解する際にメタンガスを発生させ、それをゲップとして大気中に放出します。メタンガスは二酸化炭素の約25倍から28倍もの温室効果を持つとされており、世界の温室効果ガス排出量のかなりの割合を畜産由来のメタンが占めているという事実は、気候変動対策における大きな課題となっています。しかし、カギケノリに含まれる「ブロモホルム」という成分が、牛の第一胃(ルーメン)内に存在するメタン生成菌の酵素活動を阻害することで、メタンの発生を劇的に抑制することが判明しました 。
参考)https://www.nissui.co.jp/ir/download/integrated_report/2023_integrated_report_03.pdf
特筆すべきは、その削減率の高さです。通常の飼料にカギケノリをわずか0.2%から0.5%程度混ぜて与えるだけで、牛から排出されるメタンガスを最大で98%も削減できるというデータが報告されています 。これは単なる環境対策にとどまらず、食べた飼料のエネルギーがメタンとして外部にロスされるのを防ぎ、その分を牛の成長や乳生産に回すことができるため、飼料効率の改善(最大22〜26%の成長改善効果)にも繋がると期待されています 。
参考)バックナンバー:みどりをつなぐヒト|テレビ東京
日本においては、環境配慮型の畜産物へのニーズが高まっており、「カーボンニュートラルビーフ」や「環境配慮型和牛」としてのブランディングが可能になります。消費者が環境に優しい選択をする際、カギケノリを給餌された牛の肉や乳製品は、明確な付加価値を持つことになります。すでにオーストラリアなどでは先行して研究が進んでいますが、日本独自の気候や海域に合わせたカギケノリの「国産化」と「安定供給」が、日本の畜産業の未来を左右する重要な鍵となっています 。
参考)https://www.ffpri.go.jp/ftbc/business/issue/nenpou/2023/documents/topics.pdf
カギケノリの養殖において、現在最も技術革新が進んでいるのが「陸上養殖(陸上培養)」の分野です。海面養殖は自然環境の影響を直接受けるため、台風や赤潮、水温の急激な変化などのリスクが避けられませんが、陸上のタンクを用いた培養であれば、環境を完全にコントロールすることが可能です 。
参考)https://www.alnur.jp/news/100%25%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E6%B5%B7%E6%B0%B4%E3%81%A7%E3%82%AB%E3%82%AE%E3%82%B1%E3%83%8E%E3%83%AA%E3%81%AE%E5%9F%B9%E9%A4%8A%E3%81%AB%E6%88%90%E5%8A%9F
最新の陸上培養技術では、カギケノリの形状を自然界で見られる「直立した藻体」から、タンク内で回転・流動させやすい「球状(ポンポン状)」の形態に変化させて培養する手法が開発されています 。この球状の形態は、タンク内で水流に乗せて撹拌するのに適しており、藻体全体に均一に光と栄養を行き渡らせることができます。その結果、成長速度は驚異的で、最適な条件下では種苗を投入してからわずか1週間で重量が約10倍にまで増加するというデータも確認されています 。
参考)鹿島、牛のげっぷ中のメタンガスを抑制する海藻・カギケノリの量…
具体的な設備としては、温度管理が可能な大型の水槽やタンク、そして光合成を促進するためのLED照明や自然光を取り込む設備が必要です。カギケノリの生育に適した水温は約20℃から25℃前後とされており、日本の冬場の低水温や夏場の高水温を避けるため、ヒーターやチラーを用いた水温調節が欠かせません 。また、培養液には天然海水のほかに、成分が一定で病原菌の混入リスクが低い「人工海水」を使用するケースもあります。人工海水を用いることで、海から離れた内陸部や山間部でもカギケノリの養殖が可能になり、耕作放棄地や空き工場を活用した新たな農業ビジネスとしての可能性も広がっています 。
参考)https://kagoshima.suigi.jp/jigyouhoukoku/book/h29/%E6%BC%81%E5%A0%B4/%E6%BC%81%E5%A0%B4%E5%85%A8%E4%BD%93.pdf
さらに、陸上養殖における重要な技術的要素として「エアーリフト方式」による撹拌が挙げられます。これは水槽の底から空気を送り込み、上昇気流によって水流を作り出す方法で、プロペラなどの機械的な撹拌に比べて海藻の細胞を傷つけにくく、優しく混ぜ合わせることができるため、品質の高いカギケノリを安定して生産するのに適しています 。このように、日本の陸上養殖技術は、精密な環境制御と効率的な生産システムを組み合わせることで、カギケノリの産業化を強力に後押ししています。
参考リンク:株式会社アルヌール - 100%人工海水を用いた陸上培養技術とエアーリフト方式のメリットについて詳述されています。
陸上養殖と並行して、コストダウンと大量生産を目指した「海面養殖」の実証実験も、鹿児島県や高知県などの温暖な海域を中心に進められています。海面養殖の最大のメリットは、広大な海のスペースを利用できることと、太陽光や海水中の栄養塩を自然エネルギーとして活用できるため、陸上施設に比べてランニングコストを抑えられる可能性がある点です 。
参考)Kaginowa(旧The Blue COWbon Proj…
海面養殖では、陸上で育てたカギケノリの種苗を「種糸(たねいと)」と呼ばれるロープに付着させ、それを海に張り巡らせた筏(いかだ)やブイに固定して成長させます。カギケノリは本来、他の海藻や岩に絡みついて生育する性質があるため、この性質を利用した養殖網やロープの設置方法が工夫されています。特に鹿児島県の山川町漁業協同組合などでは、地域の海況に合わせた最適な養殖条件(水深、潮流、設置時期など)の検証が行われており、冬から春にかけての水温がカギケノリの成長に適した時期を狙って生産が行われています 。
参考)アルヌール、カギケノリの海洋養殖目指し、陸上育苗開始。山川町…
収穫されたカギケノリを「飼料化」するプロセスにも、高度な技術が求められます。カギケノリの有効成分であるブロモホルムは揮発性が高く、通常の天日乾燥や高温乾燥を行うと、空気中に成分が逃げてしまい、メタン削減効果が失われてしまうリスクがあります。そのため、成分を保持したまま加工するための特殊な乾燥技術(フリーズドライなど)や、植物油に成分を浸出させて安定化させる加工法(オイル漬け)が開発されています 。
参考)https://www.alnur.jp/news/%E3%83%95%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E7%A4%BE%E3%82%AB%E3%82%AE%E3%82%B1%E3%83%8E%E3%83%AA%E9%99%B8%E4%B8%8A%E9%A4%8A%E6%AE%96%E5%B7%A5%E5%A0%B4%E3%82%92%E8%A6%96%E5%AF%9F
これらの加工技術は、飼料としての品質を保つだけでなく、輸送や保管の利便性を高めるためにも不可欠です。現在、日本の研究機関やベンチャー企業は、オーストラリアの先行事例などを参考にしつつ、日本独自の効率的な加工プロセスの確立を急いでいます。海で育てたカギケノリを、成分を損なわずに飼料として製品化する一連のサプライチェーンの構築こそが、畜産現場への普及を加速させるための重要なステップとなっています。
参考リンク:Green Production - 鹿児島県でのカギケノリ海面養殖実験と飼料化へのロードマップに関する詳細記事。
農業や漁業の新たな品目としてカギケノリ養殖を検討する際、最も気になるのがその「収益性」と、普及の障壁となっている「コスト」の問題です。現時点において、カギケノリは非常に高付加価値な商材として扱われていますが、その生産コストは依然として高く、一般的な飼料添加物として広く普及させるには価格の低減が必須の課題となっています。
海外の先行事例、特にオーストラリアの市場では、カギケノリ(生重量)の取引価格が1キログラムあたり数万円といった高値で取引されるケースも報告されています 。これは生産量がまだ限られていることや、培養から加工までのプロセスに高度な管理が必要であることが理由です。日本の畜産農家にとって、毎日の飼料コストが大幅に上がることは経営上の大きな負担となるため、導入には慎重にならざるを得ません。しかし、裏を返せば、生産技術が確立され、安価に大量供給できるようになれば、巨大なマーケットを独占できる可能性を秘めています。
参考)https://www.jamie.or.jp/jabanking/agri/files/file/ninaite202407-02.pdf
収益性を高めるためのアプローチとして、以下の3つの方向性が考えられます。
特にカーボンクレジットとの連携は、カギケノリ養殖の経済的な持続可能性を担保する上で非常に重要な要素となります。企業が排出枠を購入する動きが加速すれば、カギケノリは「海藻」以上の金融的価値を持つことになり、養殖事業者にとって大きなインセンティブとなるでしょう。
カギケノリの養殖ビジネスにおいて、検索上位の記事ではあまり語られていない独自視点のトピックとして、飼料以外の「未利用部位の活用」や「人への健康応用」が挙げられます。カギケノリは主に牛のメタン削減用として注目されていますが、実は古くから人間に対する有用性も秘めている可能性が研究されています。
その一つが「健康茶」としての利用です。名古屋産業大学などの研究によれば、カギケノリには高い抗酸化作用を持つ成分が含まれており、これを活用したハーブティーの開発が試みられています 。例えば、足のつり(こむら返り)の予防や、抗酸化作用によるアンチエイジング効果などが期待されており、実際に試飲会なども行われています。もしカギケノリが「牛のエサ」だけでなく「人の健康食品」としても市場価値を持つようになれば、養殖事業者はより高単価な販路を確保することができ、経営のリスク分散にも繋がります。高品質な部分は食品・サプリメント用に、それ以外や加工残渣を家畜飼料用に回すといった「カスケード利用」が可能になるのです。
また、「循環型農業」への貢献も見逃せません。陸上養殖で使用した後の排水には、海藻の代謝物やミネラルが含まれている場合があります。これを捨てずに農作物の液体肥料として活用したり、あるいは食品加工の過程で出る廃棄物(牛乳の廃棄分など)をカギケノリの養殖栄養源として活用する研究も進められています 。地域の中で資源が循環するシステムの中にカギケノリを組み込むことで、単体の収益性だけでなく、地域全体の環境負荷低減とブランド力向上に寄与することができます。
参考)未来のレシピコンテスト2024「ファイナリストのレシピ」ご紹…
このように、カギケノリの養殖は単に「メタンを減らす海藻を作る」という点にとどまらず、健康産業や地域循環圏の形成といった、多角的なビジネス展開の可能性を秘めています。これからカギケノリ養殖に参入を考える農業従事者にとって、こうした「副産物の価値」や「多用途展開」を見据えた事業設計こそが、競争優位性を築くための重要なポイントとなるでしょう。
参考リンク:名古屋産業大学 瀬川久志教授によるカギケノリ健康茶の研究と、その抗酸化力に関する解説動画。