農業現場において「安定剤」という言葉が使われる際、それは単に薬剤の分解を防ぐ化学的な安定化剤だけでなく、散布液の物理的な性状を安定させ、対象作物への付着や浸透を確実にする「展着剤(アジュバント)」を指すことが一般的です。農薬登録上は補助剤に分類されますが、その役割は主剤の効果を「安定」させ、最大化することに他なりません。特に近年の高温多湿や局地的な豪雨といった不安定な気象条件下では、薬剤を散布してもすぐに流れ落ちてしまったり、害虫の隠れる葉裏まで届かなかったりするケースが増えています。こうした課題に対し、適切な安定剤(展着剤)を選択することは、薬剤費の無駄を省き、防除の確実性を高めるための最も費用対効果の高い投資となります。
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一般展着剤は、最も古くから使用されている基本的な安定剤であり、その主成分は界面活性剤です。水は表面張力(水分子同士が引き合う力)が非常に強く、そのままでは水を弾く性質を持つキャベツやネギ、イネなどの作物表面には付着せず、球状になって転がり落ちてしまいます。一般展着剤に含まれる界面活性剤は、この表面張力を劇的に低下させることで、散布液を葉の表面に薄く均一に広げる役割(濡れ性)を果たします。
参考)agazine/minds/pdf/vol108_11.pd…
一般展着剤の使用倍率は通常5,000倍〜10,000倍と非常に薄く設定されています。これは、必要以上に濃度を上げると、逆に薬剤が葉から流れ落ちる「ランオフ」という現象を引き起こしてしまうためです。このタイプは、あくまで「付着を助ける」という受動的な役割に留まり、薬剤の効果自体を増強する作用は限定的です。しかし、安価であり、薬害のリスクも比較的低いため、日常的な防除においてベースとなる重要な資材です。特に、治療剤よりも予防剤(保護殺菌剤)のように、葉の表面全体を膜で覆う必要がある薬剤との相性が抜群です。
参考)展着剤とは?農薬の効果を引き出す機能性展着剤の選び方 - 丸…
| 成分系統 | 主な特徴 | 代表的な用途 |
|---|---|---|
| ポリオキシエチレン系 | 最も標準的で安価。濡れ性を改善する。 | 野菜全般、水稲 |
| リグニンスルホン酸塩 | 分散性に優れ、粉剤や水和剤の懸濁を安定させる。 | 果樹、濃厚散布 |
| ポリナフチルメタンスルホン酸 | 固着力は弱いが、汚れが少ない。 | 花き、収穫前作物 |
近年、プロ農家の間で急速に普及しているのが、単なる濡れ性以上の効果を持つ機能性展着剤(アジュバント)です。これらは、薬剤の分子を葉のワックス層や気孔から強制的に内部へ浸透させたり、害虫の油膜を破壊して殺虫成分を直接到達させたりする能動的な働きを持ちます。中でもシリコーン系の展着剤は、従来の界面活性剤とは次元の違う拡展能力を持っています。
参考)https://www.greenjapan.co.jp/driver.htm
シリコーン系展着剤の最大の特徴は、超低表面張力による「スーパーウェッティング(超濡れ性)」です。通常の展着剤では弾かれてしまうような微細な毛が密集した葉や、水を極端に弾く害虫(アブラムシやカイガラムシなど)の表面であっても、瞬時に液膜が広がり、対象を包み込みます。さらに、気孔からの速やかな浸透を促すため、浸透移行性のある殺菌剤や除草剤と組み合わせることで、その効果を数段引き上げることが可能です。
参考)展着剤を使って農薬の効果を引き出そう
参考:機能性展着剤の選び方とプラスアルファ機能の解説(MBC開発)
ただし、機能性展着剤は「諸刃の剣」でもあります。浸透力が強すぎるため、高温時や作物が弱っている時に使用すると、薬剤が過剰に吸収され、薬害(葉焼けや萎縮)を引き起こすリスクが高まります。また、ブルーム(果粉)を溶かしてしまい、キュウリやブドウなどの商品価値を損なう可能性もあるため、使用時期と対象作物の選定には慎重な判断が求められます。
参考)農薬の効果を上げる「展着剤」のススメ。展着剤とは?使用上の注…
雨の多い日本において、散布した農薬をいかに雨で流されないようにするかは、防除暦を組む上での最大の課題です。ここで活躍するのが、パラフィン系や樹脂系に代表される固着性の高い展着剤です。これらは、散布液が乾燥する過程で、葉の表面に耐水性の高い被膜を形成し、農薬の有効成分を物理的に「糊付け」する役割を果たします。
パラフィンとは、ロウソクのロウと同じような疎水性(水を弾く性質)の物質です。パラフィン系展着剤を加用すると、薬剤の粒子がパラフィンの膜でコーティングされた状態で葉に固着します。一度乾燥してしまえば、後から雨が降っても再溶解しにくく、長期間にわたって薬剤が葉の上に留まり続けます。これを「耐雨性(レインファストネス)」と呼びます。
固着剤にはパラフィン系の他に、天然樹脂(松脂など)を利用したものや、ポリアクリル酸塩を利用したものがあります。樹脂系は特に物理的な固着力が強く、強風による薬剤の剥離も防ぐ効果が期待できます。ただし、これら固着剤は「浸透性」はほとんどないため、浸透移行性殺虫剤や除草剤との相性は必ずしも良くありません。あくまで「表面に残す」ための安定剤であると理解して使い分ける必要があります。
多くの農業従事者が農薬の種類や展着剤の銘柄にはこだわりますが、意外と見落としているのが「希釈に使う水」の質です。実は、日本の水は一般的に軟水と言われていますが、地域や水源(特に地下水)によっては、カルシウムやマグネシウムを多く含む「硬水」である場合があります。そして、この水質硬度が、特定の農薬や展着剤の安定性を著しく阻害することがあるのです。
独自のリサーチによると、特にグリホサート系の除草剤などは、水中のカルシウムイオンやマグネシウムイオンと結合(キレート結合)してしまい、効果が大幅に低下することが知られています。また、一部の界面活性剤(アニオン系)は、硬度成分と反応して不溶性の沈殿物(金属石鹸)を作り、展着効果を失うだけでなく、ノズルの詰まりの原因にもなります。
このように、安定剤(展着剤)の選定は、単に「くっつける」だけでなく、「水質の悪影響を無効化し、薬剤の化学的安定性を保つ」という視点を持つことで、防除のレベルを一段階引き上げることができます。これは検索上位の一般的な記事ではあまり触れられていない、現場レベルの重要な知見です。
どれほど優れた安定剤や展着剤であっても、その使い方は一歩間違えれば作物に甚大なダメージを与える薬害の引き金となります。特に、複数の農薬をタンクで混ぜ合わせる「混用」の場面では、展着剤を入れるタイミング(順序)が非常に重要です。誤った順序で投入すると、成分が凝固したり、乳化が破壊されたりして、濃度ムラによる薬害が発生します。
基本的な混用順序の鉄則は、「製剤の溶けにくい順」です。しかし、展着剤に関しては製品のタイプによって投入タイミングが異なるため、ラベルの確認が必須です。一般的には以下の順序が推奨されます。
| 投入順序 | 剤型 | 理由 |
|---|---|---|
| 1 | 展着剤(一部) | 多くの展着剤は最初に水に溶かし、界面活性効果で後の薬剤を溶けやすくする。※ただし、最後に加えるタイプもあるので注意。 |
| 2 | 乳剤・フロアブル | 水に分散しやすい液体製剤を先に拡散させる。 |
| 3 | 水和剤・顆粒水和剤 | 粉末状のものは、少量の水で溶いてからタンクに投入する。 |
| 4 | 液剤 | 完全に溶解するタイプは最後に入れる。 |
特に注意が必要なのは、機能性展着剤(シリコーン系など)と「乳剤」や「拡散性のある薬剤」との混用です。乳剤には元々、乳化剤として強力な界面活性剤が含まれています。そこに浸透力の強い機能性展着剤を加えると、界面活性剤の濃度が過剰になり、植物の細胞膜を破壊して「染み状」の薬害(リングスポットなど)を発生させることがあります。
安定剤(展着剤)は、あくまで「黒子」の存在です。しかし、その黒子の選び方一つで、主役である農薬の効果は0にも100にもなります。あなたの圃場の作物、使用する薬剤、そして水質に最適な一本を見つけることはできましたか?

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