還元土壌消毒は、化学農薬に頼らずに土壌の病害虫を防除する環境保全型の技術として、多くの農業現場で注目されています。その中心的な役割を果たすのが嫌気性菌(けんきせいきん)です。この消毒法は、土壌に易分解性有機物(米ぬかやフスマなど)を混和し、十分に灌水して土壌中の空気を追い出した後、ビニールで密閉して被覆することで行われます。
参考)土壌消毒 土壌還元消毒の基本のやり方
このプロセスにより、土壌内は酸素がない「還元状態」になります。通常、作物の根に害を与える多くの病原菌(フザリウム菌など)やセンチュウは、酸素を好む「好気性」の生物です。還元状態が続くと、これらの病原菌は酸欠によって死滅したり、活動が著しく抑制されたりします。
参考)https://www.naro.affrc.go.jp/archive/niaes/techdoc/ethanol/data-5.pdf
一方で、酸素がない環境で活発になるのが嫌気性菌です。投入された有機物を餌にしてこれらの菌が増殖する過程で、酢酸や酪酸といった有機酸が生成されます。これらの有機酸は強い殺菌作用を持ち、土壌中の病原菌に対してさらなるダメージを与えます。さらに、還元状態が進むと土壌中の鉄イオンが酸化鉄(赤茶色)から二価鉄(青灰色)へと変化し、この金属イオンの変化自体も病原菌の抑制に関与していると考えられています。
参考)植物バイオマスを用いた土壌還元消毒の効果と嫌気性細菌の動態
このメカニズムの優れた点は、単に「窒息させる」だけでなく、微生物の活動による化学的な殺菌効果(有機酸)と、物理的な環境変化(地温の上昇など)が複合的に作用することです。太陽熱消毒と組み合わせることで、より高い効果を発揮しますが、還元土壌消毒自体は太陽熱消毒よりも低い地温(地温30度程度)でも効果が出やすいという特徴があります。
還元土壌消毒を成功させるための第一歩は、適切な有機物の選定です。一般的に使用される資材には、固形の米ぬかやフスマと、液体のエタノールや糖蜜があります。これらはそれぞれ特性が異なり、圃場の条件や作業の手間、コストに合わせて使い分ける必要があります。
参考)https://www.naro.go.jp/publicity_report/publication/files/3c76e50cabb029d829fed7e51e9cdbbb.pdf
米ぬか・フスマ(固形資材)
最も伝統的で安価な資材です。地域のコイン精米所などで入手しやすく、コストを抑えたい場合に適しています。土壌に物理的に混ぜ込むことで、土壌の団粒構造化を促進する効果も期待できます。しかし、散布と耕耘(こううん)に労力がかかる点や、分解がゆっくり進むため、地温が上がりにくい寒冷地や日照不足の時期には還元化に時間がかかる場合があります。また、均一に混ぜないと還元ムラができやすいというデメリットもあります。
参考)https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/470770.pdf
低濃度エタノール・糖蜜(液体資材)
近年普及が進んでいるのが、希釈したエタノールや糖蜜を使用する方法です。これらの最大のメリットは、灌水チューブを通じて土壌に注入できるため、作業が非常に楽であることです。また、液体であるため土壌の粒子間を浸透しやすく、固形資材では届きにくい深層(下層土)まで還元状態に導くことが可能です。特にエタノールは分解が非常に速く、処理開始直後から急激に酸素を消費するため、短期間で強力な還元状態を作り出せます。ただし、資材コストは米ぬかに比べて高くなる傾向があります。
| 資材の種類 | メリット | デメリット | 適したケース |
|---|---|---|---|
| 米ぬか・フスマ | 低コスト、入手が容易、土作り効果あり | 散布・耕耘の手間、深層まで届きにくい、還元化がやや緩やか | コスト重視、小規模、トラクターでの混和が容易な場合 |
| エタノール・糖蜜 | 作業が省力化(灌水同時)、深層まで届く、効果発現が早い | コストが高い、専用の灌水設備が必要な場合がある | 大規模、省力化重視、深層の病害が懸念される場合 |
還元土壌消毒の成否は、手順の正確さに大きく依存します。特に重要なのが「十分な灌水」と「隙間のない被覆」です。中途半端な水分量や空気の漏れは、失敗の直接的な原因となります。
参考)https://www.maff.go.jp/j/syouan/syokubo/boujyo/attach/pdf/151209_forum2-2.pdf
まず、選定した有機物(米ぬかであれば10aあたり1〜2トン程度が目安)を均一に散布し、トラクターですき込みます。この際、できるだけ丁寧に耕耘し、資材が土壌全体に行き渡るようにします。エタノールなど液体の場合は、この工程を省略し、後の灌水時に混入させることができます。
透明なビニールフィルムで圃場全面を被覆します。このとき、できるだけ破れにくい厚手のフィルム(0.05mm以上推奨)を使用し、継ぎ目はテープでしっかりと止め、端は土に埋めて完全に密閉します。空気が入ると還元状態が維持できません。透明マルチを使うことで太陽熱を取り込み、地温を上昇させる効果も高まります。
被覆したマルチの下に灌水チューブを通し、土壌が飽和状態になるまで水を入れます。「田んぼのような状態」をイメージしてください。水分が土壌の隙間を埋めることで酸素が遮断され、嫌気性菌が爆発的に増殖するスイッチが入ります。目安としては10aあたり100トン以上の水が必要になることもあります。
注意点:
処理期間が終了した後、最も気をつけなければならないのが「ガス抜き」の作業です。還元土壌消毒がうまくいっていると、土壌からは独特の強烈な臭いが発生します。これはいわゆる「ドブ臭」や「腐敗臭」に近いもので、初めて行う人は驚くかもしれません。
この臭いの正体は、嫌気性菌が有機物を分解する過程で生成した酢酸や酪酸などの揮発性有機酸や、硫化水素などのガスです。この「ドブ臭」がすることこそが、土壌がしっかりと還元状態になり、病原菌が死滅した証拠(成功のサイン)でもあります。もし、カビっぽい臭いや普通の土のにおいしかしない場合は、還元が不十分だった可能性があります。
参考)Anaerobic soil disinfestation …
しかし、このガスは作物にとっても有害です。還元状態のまま苗を定植したり種をまいたりすると、根が酸欠や有機酸の毒性でダメージを受け、枯れてしまうなどの薬害(生育障害)が発生します。
ガス抜きのステップ:
💡 近隣への配慮: ドブ臭はかなり強烈なため、住宅地が近い圃場ではトラブルになることがあります。事前に近隣に説明するか、臭いの少ないエタノール消毒を選択するなどの配慮が必要です。
検索上位の記事ではあまり深く掘り下げられていない視点として、「土壌の深さ」と消毒効果の関係があります。多くの農家が直面する悩みに、「消毒したはずなのに、作物の根が深く伸びた頃に病気が出る」というものがあります。これは、従来の米ぬか等をすき込む方法では、ロータリーの爪が届く深さ(通常15〜20cm程度)までしか有機物が混ざらず、それより深い「下層土」に病原菌が生き残っているためです。
トマトやキュウリなどの果菜類は深く根を張るため、深層に残った病原菌(特にフザリウムや青枯病菌)が後から感染源となります。ここで注目すべき独自の視点は、「液状化による浸透圧と重力の利用」です。
低濃度エタノール法や糖蜜を用いた還元消毒は、水に溶けた有機成分が重力に従って下層へと浸透していきます。研究事例では、固形資材では届かない深さ60cm〜1m付近まで還元状態が形成されたという報告もあります。これは、単に「混ざっているか」だけでなく、「水がどこまで届くか」が還元エリアを決定するためです。
深層消毒のポイント:
深層までの消毒は、特に連作障害が深刻化している圃場において、作物の収量や寿命を延ばすための「隠れた決定打」となり得ます。表面上の処理だけでなく、土の「縦方向」の環境改善に目を向けることが、ワンランク上の土壌管理につながります。