農業において水質管理や施肥計算は日常的な作業ですが、その裏側にある化学反応、特に「チオ硫酸の半反応式」を意識している方は少ないかもしれません。一般的には「ハイポ」として知られるチオ硫酸ナトリウムですが、その反応メカニズムを深く理解することで、より精密な水作りや、効率的な硫黄分の供給が可能になります。
本記事では、高校化学で習う酸化還元反応の基礎から、実際の農業現場で使われるチオ硫酸アンモニウム(ATS)のメカニズムまで、実務に役立つ知識を網羅的に解説します。
チオ硫酸ナトリウム($Na_2S_2O_3$)は、酸化還元反応において非常に重要な「還元剤」として機能します。農業現場において、この性質が最も身近に利用されているのが、水道水のカルキ抜きや、土壌分析におけるヨウ素滴定です。
まず、チオ硫酸イオン($S_2O_3^{2-}$)が酸化されて四チオン酸イオン($S_4O_6^{2-}$)になる変化を見てみましょう。このプロセスこそが、すべての計算の土台となります。
この化学変化において、チオ硫酸イオンは電子($e^-$)を放出します。電子を放出するということは、自身は「酸化」され、相手を「還元」させるということです。この時、ペアとしてよく登場するのがヨウ素($I_2$)です。ヨウ素は強力な酸化剤であり、チオ硫酸イオンから電子を受け取ることで、ヨウ化物イオン($I^-$)へと変化します。
なぜこの組み合わせが重要なのでしょうか?それは、この反応が非常に定量的であり、反応の終点が明確だからです。ヨウ素デンプン反応を利用すれば、色が青紫色から無色に消える瞬間を目視で確認できます。これは、土壌中の酸化還元電位を知る手がかりや、水中の残留塩素濃度を測定する際の基本原理となっています。
農業用水として水道水を使う場合、残留塩素(カルキ)は根圏の微生物にダメージを与える可能性があります。チオ硫酸が塩素を無毒化できるのは、塩素という強力な酸化剤に対して、チオ硫酸が還元剤として電子を差し出すからに他なりません。単に「ハイポを入れれば良い」と覚えるのではなく、「電子のやり取りによって毒性を消している」と理解することで、水温やpHによる反応速度の違いにも意識が向くようになります。
理科ねっとわーく(国立教育政策研究所):酸化還元反応の基礎とヨウ素滴定の原理について詳しく図解されています
現場で適切な薬剤量や肥料濃度を計算するためには、反応式の「係数」を導き出す力が不可欠です。ここでは、暗記ではなく論理的に半反応式を作る手順を深掘りします。これにより、万が一現場で計算式を忘れても、その場で導き出すことが可能になります。
チオ硫酸の半反応式を作る手順は以下の通りです。
まず、変化する物質を書きます。チオ硫酸イオンが四チオン酸イオンになることを示します。
$S_2O_3^{2-} \rightarrow S_4O_6^{2-}$
左辺にはSが2個、右辺にはSが4個あります。これを合わせるために、左辺のチオ硫酸イオン全体を2倍にします。
$2S_2O_3^{2-} \rightarrow S_4O_6^{2-}$
この時点で、酸素原子(O)の数を確認すると、左辺は $3 \times 2 = 6$個、右辺も6個となり、偶然にも酸素の数は合っています。多くの酸化還元反応では水($H_2O$)や水素イオン($H^+$)で酸素数を調整しますが、チオ硫酸の場合はその手間が不要です。
最後に電気的なバランス(電荷)を整えます。
左辺:$2 \times (2-) = 4-$ (マイナス4)
右辺:$1 \times (2-) = 2-$ (マイナス2)
左辺の方がマイナスが2つ多い状態です。左右の電荷を釣り合わせるために、右辺にマイナスの電荷を持つ電子($e^-$)を2つ加えます。
完成形: $2S_2O_3^{2-} \rightarrow S_4O_6^{2-} + 2e^-$
この式から読み取れる最も重要な情報は、「チオ硫酸イオン2つに対して、電子が2つ動く」という点です。つまり、チオ硫酸イオン1モルあたり電子1モル分の還元能力があるということです。
一方、塩素($Cl_2$)の半反応式は以下のようになります。
$Cl_2 + 2e^- \rightarrow 2Cl^-$
塩素分子1つが電子2つを受け取ります。
この2つの式を係数を見ながら合体させると、化学反応における「量的関係(ストイキオメトリー)」が見えてきます。
係数比を見ると、チオ硫酸イオン2モルで塩素1モルを処理できることがわかります(反応条件により比率は変わりますが、基本の酸化還元としてはこの比率です)。この「係数」の理解こそが、無駄のない薬剤投与量の計算につながるのです。
化学のグルメ:チオ硫酸ナトリウムの半反応式のステップバイステップ作成法が掲載されています
参考)チオ硫酸ナトリウムの半反応式の作り方
ここでは、実際に農業用水を作る際の「カルキ抜き」に焦点を当て、半反応式に基づいた具体的な計算と、実務上の注意点を解説します。
水道水に含まれる残留塩素濃度は、季節や浄水場からの距離によって異なりますが、一般的には0.1mg/L〜1.0mg/L程度です。これをチオ硫酸ナトリウム(結晶:ハイポ)で中和する場合、どれくらいの量が必要なのでしょうか。
先ほどの半反応式から導かれる基本的な反応は以下の通りです。
$2Na_2S_2O_3 \cdot 5H_2O + Cl_2 \rightarrow Na_2S_4O_6 + 2NaCl + 10H_2O$
(※実際にはpH条件等により、硫酸イオンまで酸化される反応 $Na_2S_2O_3 + 4Cl_2 + 5H_2O \rightarrow 2NaHSO_4 + 8HCl$ も起こり得ますが、安全率を見積もるため、最も効率が悪い(多くのチオ硫酸を消費する)ケースや、簡易的な1:1反応を想定するのが現場の定石です。)
実務的に最も安全で確実な計算目安として、多くの水産・農業現場では「塩素1分子に対してチオ硫酸ナトリウム1分子以上」を投入します。
計算シミュレーション:
500リットルのタンクに水を貯め、残留塩素濃度が0.5ppm(0.5mg/L)だったとします。
水中の塩素総量は、$500L \times 0.5mg/L = 250mg = 0.25g$ です。
化学反応式の分子量比を考慮すると、チオ硫酸ナトリウム五水和物(分子量約248)は、塩素(分子量約71)の約3.5倍の重量が必要です。
$0.25g \text{ (塩素)} \times 3.5 = 0.875g \text{ (ハイポ)}$
つまり、500リットルの水に対して、わずか1g程度のハイポで十分にカルキが抜ける計算になります。市販の粒状ハイポは1粒で数百mgあるため、数粒で十分すぎる量です。
意外な落とし穴:
「多めに入れれば安心」と思いがちですが、チオ硫酸ナトリウム自体も硫黄を含む塩類です。過剰投入はEC(電気伝導度)の上昇を招き、特にEC管理にシビアな水耕栽培や育苗期には、根に浸透圧ストレスを与える可能性があります。また、未反応のチオ硫酸イオンは、特定の条件下で還元性を示し続け、溶存酸素を消費する可能性もゼロではありません。
半反応式を知っているからこそ、「反応に必要な最小限の量」を見積もることができ、作物の生理障害リスクを最小限に抑えることができるのです。適量を守ることは、コスト削減だけでなく、作物の健全な生育環境を守ることにつながります。
たまごや商店:チオ硫酸ナトリウムの農業および水質管理用途での使用量目安について記載があります
参考)ハイポ|結晶-チオ硫酸ナトリウム【1kg】水質管理用|残留塩…
最後に、単なるカルキ抜き剤としての利用を超えて、積極的な「肥料」としてのチオ硫酸の活用について解説します。近年、注目を集めているのがチオ硫酸アンモニウム(ATS: Ammonium Thiosulfate)です。
ATSは、成分として窒素と硫黄を含んでいますが、その効果は単なる栄養供給にとどまりません。ここでも「半反応式」で見たような、土壌中での酸化反応が鍵を握っています。
1. 遅効性の硫黄供給源
チオ硫酸イオン($S_2O_3^{2-}$)は、土壌中の硫黄酸化細菌(Thiobacillusなど)の働きにより、段階的に酸化されます。
$S_2O_3^{2-} \rightarrow S_4O_6^{2-} \rightarrow \dots \rightarrow SO_4^{2-}$
植物は硫黄を硫酸イオン($SO_4^{2-}$)の形で吸収します。チオ硫酸が硫酸に変わるまでには数週間程度の時間がかかるため、ATSは「徐放性の硫黄肥料」として機能します。これにより、栽培期間を通じて安定的に硫黄を供給でき、ネギ類やアブラナ科野菜の辛味・風味成分(システインやメチオニンなどの含硫アミノ酸)の合成を促進します。
2. 硝化抑制効果(ここが独自のポイント)
あまり知られていませんが、チオ硫酸イオンには土壌中の「硝化菌」の活動を一時的に抑制する効果があります。また、尿素の分解酵素であるウレアーゼの活性を阻害する働きも確認されています。
通常、アンモニア態窒素は土壌中ですぐに硝酸態窒素に変わりますが、ATSを併用することでこの変化を遅らせることができます。これにより、以下のメリットが生まれます。
3. 微量要素の可溶化
チオ硫酸の還元的な性質や錯体形成能力により、土壌中に固定化された鉄やマンガンなどの微量要素を、植物が吸収しやすい形に変える効果も期待されています。
このように、チオ硫酸の反応はビーカーの中だけでなく、土壌という複雑な環境の中でも進行しています。化学式 $S_2O_3^{2-}$ が持つ電子の授受能力こそが、微生物との相互作用を生み出し、作物の収量や品質向上に貢献しています。単なる化学記号の羅列に見える半反応式ですが、その意味を紐解けば、農業の現場を劇的に変えるポテンシャルを秘めていることがわかります。
Tessenderlo Kerley:ATS(チオ硫酸アンモニウム)の肥料としての詳細なメカニズムと施用ガイド
参考)https://www.tessenderlokerley.com/sites/tg_kerley/files/files/2025-04/thio-sul-aplication-guide-digital-version.pdf
独立行政法人農林水産消費安全技術センター(FAMIC):肥料研究報告として、硫黄肥料の分析や効果に関する公的な研究データが参照できます
参考)http://www.famic.go.jp/ffis/fert/rrf/obj/rrf6-whole.pdf