農業従事者の皆様が日常的に排出している水が、法的にどの法律の規制を受けるか正確に把握しているでしょうか。一般的に、農業用水路や河川へ直接排水する場合は「水質汚濁防止法」の対象となりますが、ビニールハウスや加工場、選果場などが公共下水道や農業集落排水施設に接続されている場合は、「下水道法」の厳しい規制を受けることになります。特に注意が必要なのがpH(水素イオン濃度指数)です。
下水道法における排水基準のpHは、原則として「5を超え9未満」(5.0~9.0)と定められています。この数値は、日本の多くの自治体で採用されている「排除基準」の根幹をなすものです。なぜこれほど厳格にpHが管理されているのか、その最大の理由は下水管きょ(パイプ)の保護にあります。下水管の多くはコンクリート製であり、酸性の排水(pH5以下)が流れるとコンクリートが化学反応を起こして腐食し、道路陥没などの重大な事故を引き起こすリスクがあります。逆に、強アルカリ性の排水は下水処理場の微生物を一死滅させ、処理機能を麻痺させる恐れがあります。
農業現場では、以下のようなケースでpH基準を超過するリスクがあります。
水質汚濁防止法が「公共用水域(川や海)の環境保全」を目的としているのに対し、下水道法は「下水道施設の保全」と「終末処理場の機能維持」を主眼に置いています。そのため、たとえ少量であっても、基準値を超える排水を下水道に流すことは、インフラを破壊する行為として厳しく監視されています。
一般排水基準 | 環境省(水質汚濁防止法と下水道法の関連)
参考)一般排水基準
上記の環境省のページでは、排水基準の一般的な概要が確認できます。下水道法はこの基準をベースにしつつ、自治体ごとの条例でさらに上乗せ規制(より厳しい基準)が設けられている場合が多いため、必ず管轄の自治体の下水道課へ確認が必要です。
「農業だから多少のことは許されるだろう」という考えは、現代のコンプライアンス社会においては致命的なリスクとなります。下水道法排水基準pHに違反した場合、非常に重い罰則が科される可能性があります。
特に注意すべきは、特定施設(下水道法および水質汚濁防止法で指定された施設)を設置している事業場に対する「直罰規定」です。これは、行政からの改善命令を待たずに、基準違反が発覚した時点で直ちに罰則が適用される制度です。
これらの罰則は、法人に対しても適用される「両罰規定」があるため、経営者だけでなく現場の責任者も処罰の対象となり得ます。また、刑事罰だけでなく、下水道管を腐食させてしまった場合の損害賠償請求は莫大な金額になることがあります。道路を掘り返して下水管を交換する工事費用は、数千万円から億単位に上ることも珍しくありません。
もし、自治体の立ち入り検査などでpH基準の超過を指摘された場合、あるいは自主検査で異常が見つかった場合は、直ちに排水を停止し、原因究明と改善措置を講じる必要があります。
工場・事業場排水と下水道 - 神戸市(罰則規定の詳細)
参考)https://www.city.kobe.lg.jp/documents/11267/r6p.pdf
神戸市の資料ですが、下水道法に基づく罰則や改善命令の流れが非常に分かりやすくまとめられています。条文番号とともに、故意と過失の違いについても解説されており、危機管理の参考になります。
pHが基準値(5~9)の範囲外にある排水を出す場合、事業者は自らの責任で除害施設(じょがいしせつ)を設置し、排水を無害化(中和)しなければなりません。農業施設においては、簡易的な中和槽から自動制御の薬注システムまで、排水量に応じた設備が必要です。
中和処理の基本的なメカニズム:
農業現場でよくある失敗例として、「感覚で薬剤を投入してしまう」ことが挙げられます。pHは対数で表されるため、pHを1変化させるには水素イオン濃度を10倍変化させる必要があります。つまり、pH3の強酸性水をpH7の中性にするには、単純な足し算ではなく、計算された量のアルカリ剤が必要です。手動投入では「入れすぎて逆にアルカリ過多になり違反する」という事故が多発します。
除害施設設置のポイント:
廃液処理の基本とプロセス。違反事例から学ぶ適正管理の実践
参考)廃液処理の基本とプロセス。違反事例から学ぶ適正管理の実践
こちらの記事では、廃液処理の基本プロセスと、実際に違反となった事例が紹介されています。中和処理の難しさや、適正管理を行わなかった場合のリスクについて深く掘り下げられています。
ここでは、通常の公共下水道とは異なる「農業集落排水施設(通称:農集・集排)」に特化した視点で解説します。農村部においては、都市部の公共下水道ではなく、この農業集落排水施設に接続しているケースが多いはずです。実は、この施設への排水基準は、構造上、一般的な下水処理場よりもデリケートな側面があります。
農業集落排水施設は、基本的に家庭からの生活排水を処理することを前提に設計されています。その処理方式は「生物処理(バクテリアによる分解)」がメインであり、都市部の巨大な下水処理場に比べて規模が小さく、流入水量のバッファ(余裕)が少ないのが特徴です。
なぜ農業集落排水ではpHがより重要なのか?
したがって、農業集落排水地域における排水基準の遵守は、単なる法令順守以上に、「地域農業の持続可能性」と「近隣関係の維持」に直結する死活問題と言えます。公共下水道以上に、自主的なpH管理と除害施設の設置(プレ処理)が求められるのです。
浄化槽からみた農業集落排水処理施設
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jriet1972/14/11/14_11_840/_pdf/-char/ja
専門的な論文ですが、農業集落排水の構造や、pH低下が処理機能に与える影響について技術的な視点で触れられています。なぜ小規模施設が脆弱なのかを知るための深い資料です。
最後に、法的な手続きである「届出」について解説します。農業用施設であっても、一定の規模や種類の設備を導入する場合、下水道法または水質汚濁防止法に基づく「特定施設」の設置届出が必要になります。
例えば、以下のような施設が特定施設に該当する可能性があります(自治体の条例により異なります)。
特定施設を設置しようとする場合、工事着手の60日前までに、都道府県知事または政令市長へ届け出る義務があります。この届出書には、排出水の量や水質(pHを含む)、排水処理の方法などを詳細に記載しなければなりません。
「知らなかった」では済まされないのが法律の世界です。特に、中古のビニールハウスや加工場を購入した(居抜き物件)場合、前の所有者が無届けで特定施設を運用していたり、届出内容と現状が食い違っていたりするケースがあります。事業を承継したり設備を更新したりするタイミングで、必ず管轄の環境課や下水道課に「自分の施設が特定施設に該当するか」を相談してください。
また、特定施設に該当しない場合でも、自治体の条例で「除害施設設置届」や「排水設備計画確認申請」が求められることがほとんどです。これらを怠ると、前述の「直罰」や「使用停止命令」のリスクが高まります。面倒な手続きに見えますが、事前に協議を行うことで、適切なpH管理手法について行政からアドバイスをもらえるメリットもあります。
未処理汚水を流さないで!〜居抜き物件は要注意
参考)未処理汚水を流さないで!〜居抜き物件は要注意〜 - 太田市ホ…
太田市の啓発ページですが、居抜き物件における排水トラブルへの注意喚起がなされています。農業施設を譲り受けたり拡大したりする際に、見落としがちな「届出の不備」について警鐘を鳴らす重要な情報です。