農業や畜産の現場において、家畜の感染症治療が難航する最大の原因の一つが薬剤耐性菌の存在です。その中心的な役割を果たしているのが「ラクタマーゼ」という酵素です。このセクションでは、なぜこれまで効いていた薬が効かなくなるのか、その化学的なメカニズムを解説します。
多くの抗生物質(ペニシリン系やセフェム系など)は、「ベータラクタム環」という共通の化学構造を持っています。細菌はこの構造を取り込むことで細胞壁が作れなくなり死滅しますが、ラクタマーゼを産生する能力を獲得した細菌は、この酵素を使ってベータラクタム環を加水分解してしまいます。いわば、細菌が「ハサミ」を持って薬を物理的に切断してしまうような状態です 。
近年特に問題視されているのが、ESBL産生菌です。従来のラクタマーゼはペニシリンのみを分解していましたが、ESBLは進化型であり、より強力な第3世代セファロスポリン系抗生物質までも分解します。これにより、治療の切り札となる広域スペクトル抗菌薬が無効化され、現場での治療選択肢が極端に狭まる事態を引き起こしています 。
参考)https://www.maff.go.jp/nval/kouhou/dyknews/gaiyou/pdf/no267_11.pdf
ラクタマーゼを作り出す能力(耐性遺伝子)は、細菌の染色体上だけでなく、「プラスミド」と呼ばれる移動可能なDNA上に乗っていることが多いです。これにより、耐性菌は同種間だけでなく、異なる種類の細菌にも接触するだけで耐性能力を「コピーして渡す」ことができます。農場内で急速に耐性が広がるのはこのためです。
参考:農林水産省 動物医薬品検査所 - 家畜由来のESBL産生菌の調査報告書(PDF)
酪農現場において、ラクタマーゼ産生菌による被害が最も顕著に現れるのが「乳房炎」の治療です。乳房炎は経済損失が極めて大きい病気であり、治療の失敗は廃用(淘汰)に直結するため、適切な薬剤選定が経営の要となります。
乳房炎の主要な原因菌である黄色ブドウ球菌は、非常に高い確率でペニシリン分解酵素(ペニシリナーゼ=ラクタマーゼの一種)を産生します。現場で「ペニシリンが効かない」と感じるケースの大半は、この酵素による薬剤の不活化が原因です。単に薬剤の量を増やしても効果はなく、酵素によって薬が患部に届く前に破壊されてしまいます 。
初期治療でラクタマーゼ産生菌であることを見抜けないまま、効果のないベータラクタム系抗生物質を投与し続けると、菌は死滅せず慢性化します。この間に菌はバイオフィルム(菌膜)を形成したり、さらに強い耐性を獲得したりするため、治療期間が長期化し、薬剤費がかさむだけでなく、乳量低下による損失が拡大します。
乾乳期は次期泌乳期に向けた重要な乳房のリセット期間ですが、この時期に投与する乾乳軟膏の効果もラクタマーゼによって阻害されるリスクがあります。予防的に使用する抗菌薬が無効化されると、分娩直後の重篤な乳房炎発症につながるため、農場内での保菌状況を把握しておくことが極めて重要です。
参考:家畜感染症学会 - 耐性菌と抗生物質による治療戦略と作用機序(PDF)
ラクタマーゼ産生菌に対抗するために開発されたのが「ベータラクタマーゼ阻害剤」です。これは抗生物質そのものではありませんが、ラクタマーゼという「ハサミ」を無効化する「盾」や「囮(おとり)」のような役割を果たします。農業現場での具体的な対策としての利用法を解説します。
最も一般的な対策は、ペニシリン系抗生物質(アモキシシリンなど)と、阻害剤(クラブラン酸など)をあらかじめ配合した合剤を使用することです。阻害剤が先にラクタマーゼと結合して酵素を破壊し、その隙に本命の抗生物質が細菌を攻撃します。商品名では「クラバモックス」などが知られており、単純なペニシリンが無効なケースでも劇的な効果を示すことがあります 。
参考)https://www.fsc.go.jp/iinkai/i-dai314/dai314kai-siryou3-2.pdf
「とりあえず強い薬を使う」のではなく、農場で分離された菌がどの薬剤に弱いかを調べる感受性試験が必須です。阻害剤入り薬剤であっても、ESBLやAmpCといった高度な耐性菌には効果が及ばない場合があります。無駄な投薬を避けることは、菌にさらなる耐性を獲得させないための最良の防御策です。
特定の抗生物質(特に第3世代セファロスポリン系)を連用すると、農場内の細菌群(マイクロバイオーム)全体で耐性菌が優勢になります。系統の異なる薬剤(マクロライド系やテトラサイクリン系など、ラクタマーゼの影響を受けない薬)をローテーションに組み込むことで、ラクタマーゼ産生菌の定着を防ぐ管理が求められます 。
参考)https://www.maff.go.jp/nval/yakuzai/pdf/jvarm_report_2021_japanese.pdf
参考:中央畜産会 - 豚の飼養衛生管理と薬剤使用の手引き(PDF)
このセクションは、直接的な治療とは異なりますが、農業全体のエコシステムに関わる重要な視点です。家畜の体内で発生したラクタマーゼ産生菌は、そこで終わるのではなく、排泄物を通じて農地や環境中へ拡散するリスクを持っています。
家畜の糞尿には、未消化の抗生物質や、生き残った耐性菌、そして菌が死滅した後に残された「耐性遺伝子(DNA)」が含まれています。これらを堆肥化して農地に還元する際、発酵温度が不十分だと耐性菌が生残し、土壌細菌に耐性遺伝子が水平伝播する可能性があります。これにより、農地の土壌細菌までもがラクタマーゼ産生能力を持つようになるリスクが指摘されています 。
土壌に定着した耐性菌や遺伝子が、栽培される野菜の表面に付着したり、降雨によって地下水へ浸透したりする経路が懸念されています。これは「ワンヘルス(人と動物と環境の健康は一つ)」の観点からも重要であり、農業従事者は自らの農場が耐性菌の供給源にならないよう、堆肥化処理における温度管理(60℃以上での発酵維持など)を徹底する必要があります。
農場外からの病原体侵入防止だけでなく、農場内から環境への排出防止もバイオセキュリティの一環です。特にESBL産生菌が確認された農場では、排泄物の処理フローを見直し、未発酵堆肥の散布を避けることが、地域全体の農業環境を守る防波堤となります。
参考:北里大学 農医連携研究センター - 農と環境と医療をつなぐ耐性菌リスク
「効かない薬」を使い続けることは、コストの無駄であるだけでなく、動物福祉の観点からも避けるべきです。目に見えないラクタマーゼ産生菌を、現場レベルや検査機関でどのように特定するのか、具体的な検査手法について解説します。
最も一般的で安価な方法です。寒天培地に菌を塗り、様々な抗生物質を含ませた小さな紙(ディスク)を置きます。薬が効けばディスクの周りに菌が生えない円(阻止円)ができます。ラクタマーゼ産生菌の判定には、抗生物質単体のディスクと「阻害剤入り」のディスクを比較し、阻害剤入りでのみ阻止円が大きくなる現象を確認する手法がとられます(ダブルディスク法など) 。
より高度な検査として、細菌からDNAを抽出し、ラクタマーゼを作り出す遺伝子(bla遺伝子など)そのものを持っているかを調べるPCR法があります。これは非常に感度が高く、ESBLの種類(CTX-M型、TEM型など)まで特定できるため、疫学調査や農場汚染のルート特定に役立ちます。近年では地方の家畜保健衛生所でも実施可能なケースが増えています 。
参考)https://www.jstage.jst.go.jp/article/livestocktechnology/2016/736-Sep./2016_35/_pdf/-char/ja
最近では、培養に時間をかけずに、乳汁や検体から直接ラクタマーゼの存在を検出できる簡易キットも開発されつつあります。pHの変化を利用して酵素活性を色で判定するものなどで、獣医師が往診したその場で「ペニシリンが効くかどうか」を判断する補助ツールとして期待されています。早期の判定は、初診時の治療薬選択の精度を劇的に向上させます。
参考:畜産技術 - 食鳥検査と農場の衛生対策におけるESBL検査技術(PDF)