農作業において、農薬の散布や農業機械の洗浄作業中に最も警戒すべきなのが、有機溶剤中毒の急性症状です。多くの農薬(特に乳剤)や洗浄用シンナーには、キシレンやトルエンといった揮発性の高い有機溶剤が含まれており、これらは呼吸器を通じて瞬く間に体内に取り込まれます。
急性中毒の初期段階では、有機溶剤が持つ麻酔作用により、いわゆる「シンナー遊び」で知られるような酩酊感(酔っ払ったような感覚)が現れることがあります。これは非常に危険な状態で、本人は「少し気分が高揚している」程度にしか感じていない場合でも、判断力や運動機能は著しく低下しています。この状態でトラクターなどの大型機械を操作することは、重大な事故に直結するリスクがあります。
参考)https://www.johas.go.jp/kiko/shuppan/kohoshi/lw1/tabid/97/Default.aspx
さらに暴露が続くと、以下のような明確な身体症状が現れ始めます。
参考)http://ohtc.med.uoeh-u.ac.jp/yuukiyouzaikenkoushindan5.html
参考)https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/sai/genin/sai10-91-32-1.htm
特に夏場のビニールハウス内など、通気性が悪く高温になる環境では、溶剤の揮発スピードが上がり、短時間で高濃度のガスが充満します。このような環境下では、中毒症状と熱中症が併発しやすく、意識障害を起こして倒れた場合に発見が遅れると、最悪の場合は死に至るケースも報告されています。
参考)https://nitinoki.or.jp/bloc3/karte/r3anzen.pdf
もし作業中に「お酒に酔ったような感覚」や「甘いにおいによる不快感」を感じたら、それはすでに脳が有機溶剤の影響を受けている証拠です。直ちに作業を中止し、新鮮な空気のある場所に移動する必要があります。
公益財団法人 日本中毒情報センター:農薬中毒の症状と治療法
日本中毒情報センターによる詳細な症状解説と、緊急時の対応がまとめられたPDF資料です。
急性症状とは異なり、日々の作業で低濃度の有機溶剤を吸い続けることで徐々に進行するのが慢性中毒です。これは農家の方々が「農作業によるただの肉体疲労」や「加齢による衰え」と勘違いしやすく、気づかないうちに重症化しているケースが多いため、特に注意が必要です。
参考)職業病、有機溶剤中毒
慢性中毒の代表的な症状として、原因不明の全身倦怠感が挙げられます。十分な睡眠をとっても疲れが取れない、朝起きるのが辛い、体が鉛のように重いといった症状が続きます。これは肝臓や腎臓が、体内に蓄積された溶剤成分を解毒しようと常にフル稼働し、機能低下を起こしているサインである可能性があります。
参考)https://www.hataraku.metro.tokyo.lg.jp/shigoto/kanai/text_yuukiyouzai.pdf
また、末梢神経への障害も深刻です。有機溶剤は脂溶性(油に溶けやすい性質)が高く、脂質で構成されている神経の膜を侵します。
これらの症状は、整形外科的な問題(腰痛や腱鞘炎)と誤診されやすく、根本原因である有機溶剤への対策が遅れる原因となります。特に、長年同じ防除マスクを使い続けてフィルターが機能していなかったり、換気の悪い倉庫内で日常的に機械整備を行っていたりする方は、知らず知らずのうちに慢性中毒のリスクに晒されています。
参考)有機溶剤中毒予防規則(有機則)とは?わかりやすく解説
三協化学株式会社:有機溶剤中毒予防規則(有機則)とは?
有機溶剤を使用する事業者が守るべき法的ルールと、具体的な健康診断の必要性について解説されています。
あまり知られていない事実ですが、有機溶剤中毒は身体だけでなく、精神や心(メンタルヘルス)にも深刻な影響を及ぼします。これは「有機溶剤症候群」や「精神神経症状」とも関連し、脳の中枢神経系が溶剤によってダメージを受けることで発生します。
参考)https://cir.nii.ac.jp/crid/1390851275428713344
農家の方の中には、「最近どうも怒りっぽくなった」「以前のように作業に集中できない」と悩んでいる方がいらっしゃいますが、それが実は有機溶剤の影響である可能性があります。
具体的な精神症状には以下のようなものがあります。
これらの症状は、認知症の初期症状やうつ病と非常に似ているため、医療機関を受診しても有機溶剤との関連が見落とされがちです。特に高齢の農家の場合、「年だからボケてきたのか」と家族も本人も諦めてしまうことがありますが、実際には農薬散布や溶剤使用の環境を見直すことで症状が改善することもあります。
参考)シックハウス症候群とは
脳への影響は不可逆的(元に戻らない)なダメージになることもあるため、「性格が変わった」と感じたら、精神的な問題だけで片付けず、過去の溶剤使用歴を疑ってみる視点が重要です。
CiNii Research:有機溶剤乱用の現状と問題点(慢性中毒症状について)
有機溶剤が引き起こす精神的な動因喪失症候群や人格変化についての学術的な知見が含まれています。
多くの農家の方が誤解している意外な落とし穴が、「軍手(綿手袋)」による経皮吸収のリスクです。有機溶剤中毒というと、ガスを「吸い込む」ことばかりに意識が向きがちですが、実は「皮膚から染み込む」ことによる中毒も無視できません。
参考)有機溶剤または有機溶剤含有物を使用する作業
農作業ではおなじみの白軍手ですが、有機溶剤を扱う作業においては「最悪の選択」と言っても過言ではありません。
軍手などの布製手袋にシンナーや農薬が付着すると、繊維が液体を吸い込み、皮膚に密着した状態で保持してしまいます。素手であれば蒸発して飛んでいくはずの溶剤が、軍手をしていることで常に皮膚に押し付けられる「湿布」のような状態になり、経皮吸収のスピードと量が劇的に増加します。
有機溶剤には強力な「脱脂作用」があります。皮膚の表面を守っている皮脂を溶かし出し、皮膚のバリア機能を破壊します。バリアを失った皮膚は、赤くただれたり(化学熱傷)、ひび割れたりするだけでなく、より毒素を体内に通しやすい状態になります。
正しい対策は、有機溶剤に対応した「耐溶剤手袋(化学防護手袋)」を使用することです。ゴム手袋なら何でも良いわけではなく、一般的な炊事用手袋(塩化ビニール製など)の中には、特定の溶剤で溶けたり、成分が透過したりするものがあります。使用する農薬や溶剤のラベルを確認し、それに適合した材質(ニトリルゴムやポリウレタンなど)の手袋を選ぶことが、自分自身の体を守るための必須条件です。
参考)https://www.shibaken.co.jp/wp-content/uploads/2025/05/ssr32.pdf
農薬工業会:保護具の知識リーフレット
農薬使用時に適切な手袋やマスクの選び方を、図解入りで分かりやすく解説した資料です。
有機溶剤中毒を防ぐための最後の砦は、やはり適切な呼吸保護(マスク)と換気です。しかし、現場では「マスクをしているから大丈夫」と過信し、間違った種類のマスクを使用しているケースが後を絶ちません。
最も多い間違いが、「防じんマスク」で有機溶剤を防ごうとすることです。
| マスクの種類 | 目的 | 有機溶剤ガスへの効果 |
|---|---|---|
| 防じんマスク | 粉じん(ホコリ・チリ)の吸入防止 | × 効果なし(ガスは素通り) |
| 防毒マスク | 有毒ガスの吸着・無毒化 | ○ 効果あり(吸収缶が必要) |
| 不織布マスク | 飛沫防止(家庭用) | × 効果なし |
白いカップ型の「防じんマスク」は、農薬の粒子(粉剤)は防げても、揮発した「ガス」成分は繊維の隙間を素通りしてしまいます。有機溶剤を扱う際は、必ず活性炭などが入った吸収缶を取り付けるタイプの「防毒マスク(有機ガス用)」を着用しなければなりません。
参考)https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei10/05.html
また、吸収缶には寿命があります。「においがしてきたら交換」では遅すぎます。呼吸量や溶剤の濃度にもよりますが、開封してから時間が経過した吸収缶は、たとえ未使用でも能力が落ちている可能性があります。定期的な交換スケジュールを管理することが重要です。
そして、マスク以上に重要なのが換気です。ビニールハウスや納屋などの閉鎖空間で作業する場合は、送風機を使って強制的に空気を入れ替えるか、全ての開口部を開放してください。空気より重い有機溶剤のガスは床付近に溜まる性質があるため、しゃがんで作業をする際は特に高濃度のガスを吸い込むリスクが高まります。換気の流れを作り、ガスを滞留させない工夫が、中毒症状を未然に防ぐ鍵となります。
参考)https://www.jaish.gr.jp/anzen/hor/hombun/hor1-2/hor1-2-21-2-0.htm
厚生労働省:有機溶剤を正しく使いましょう
有機溶剤中毒予防規則に基づいた正しい換気方法やマスクの使用法、保管方法についての公的なガイドラインです。