農業の現場において、もっとも頻繁に遭遇し、かつ見逃されやすいのが熱中症の症状レベルⅠ度(軽症)です。この段階で適切な処置を行えるかどうかが、その後の重症化を防ぐカギとなります。レベルⅠ度の典型的なサインとしては、「立ちくらみ(熱失神)」や「こむら返り(熱けいれん)」が挙げられます。
農作業中はしゃがんだり立ったりする動作が多く、立ちくらみを「ただの貧血」や「疲れ」と勘違いしてしまうケースが非常に多く見られます。しかし、これは脳への血流が一時的に不足している重大なサインです。また、炎天下での草刈りや収穫作業中に、ふくらはぎや腕の筋肉がピクピクとけいれんしたり、硬直して痛んだりすることがあります。これは発汗によって体内のナトリウム(塩分)が失われ、電解質のバランスが崩れたために起こる「熱けいれん」と呼ばれる症状です。「足がつっただけ」と軽視して作業を続行するのは非常に危険です。大量の汗をかいているにもかかわらず、水分だけを摂取して塩分を摂っていない場合に発生しやすいため、注意が必要です。
現場で行うべき応急処置の基本は「涼しい場所への避難」「脱衣と冷却」「水分・塩分の補給」の3点です。
まず、直射日光の当たらない木陰や、エアコンの効いた車内・休憩所に移動してください。次に、作業着のボタンやベルトを緩め、体内の熱を外に逃がします。具体的には、首の周り、脇の下、足の付け根(鼠径部)などの太い血管が通っている場所を、保冷剤や冷えたペットボトルで集中的に冷やすと効果的です。
水分補給に関しては、ただの水やお茶ではなく、塩分を含んだスポーツドリンクや経口補水液を少しずつ摂取させてください。意識がはっきりしており、自分でペットボトルを持って飲めることが条件です。もし、「自分で飲めない」「吐き気がして飲めない」という場合は、すでにレベルⅡ度以上に進行している可能性が高いため、無理に飲ませようとせず、すぐに医療機関への搬送を検討する必要があります。
厚生労働省:熱中症ガイド(重症度分類と応急処置の詳細が記載されています)
症状が進行し、レベルⅡ度(中等症)になると、脳や臓器への血流不足や体温上昇の影響がより顕著に現れます。この段階の特徴的な症状は、「激しい頭痛」「吐き気・嘔吐」「体のだるさ(倦怠感)」です。農作業中に「なんとなく気分が悪い」「頭がガンガンする」と感じた場合は、すでに体が限界を超えて悲鳴を上げている状態です。
特に注意すべきは「吐き気」です。吐き気があるということは、胃腸の機能が低下しており、口から水分を摂取しても吸収できない、あるいは嘔吐してさらに脱水が進むリスクがあることを示しています。この段階では、もはや現場での休憩だけで回復させることは困難です。速やかに作業を中止し、病院を受診して点滴などの治療を受ける必要があります。「少し休めば治るだろう」という自己判断は、命取りになりかねません。また、自分で歩けない、判断力が低下して会話がかみ合わないといった様子が見られる場合も、即座に病院へ向かってください。
さらに重篤なレベルⅢ度(重症)に至ると、脳機能に障害が及び、命の危険が迫っています。具体的な症状としては、「意識がない(呼びかけに反応しない)」「全身のけいれん」「手足の運動障害(まっすぐ歩けない)」「高体温(体に触れると熱い)」などが挙げられます。この状態は、かつて「熱射病」と呼ばれていたもので、中枢神経に異常をきたしています。
レベルⅢ度と判断される場合、あるいは判断に迷う場合でも、意識障害が見られるなら迷わず119番通報をして救急車を呼んでください。救急車が到着するまでの間も、ただ待っているだけではいけません。涼しい場所へ移動させ、衣服を脱がせて全身に水をかけ、うちわやタオルで風を送って気化熱で体温を強制的に下げる必要があります。可能であれば氷嚢などを首、脇、股関節に当て続けてください。この「現場での冷却開始」の早さが、救命率と後遺症の有無を大きく左右します。
環境省:熱中症環境保健マニュアル(重症度ごとの具体的な対応フローチャートがあります)
農業従事者、特に高齢のベテラン農家の方々にとって、熱中症対策は単なる健康管理ではなく、事業継続のための必須事項です。しかし、長年の経験がかえって仇となり、「自分は暑さに慣れているから大丈夫」という過信が事故を招くケースが後を絶ちません。農業特有のリスクとして、ビニールハウス内での作業が挙げられます。ハウス内は湿度が高く、無風状態になりやすいため、汗をかいても蒸発せず、体温調節機能が働きにくくなります。その結果、短時間で重篤な状態に陥る危険性があります。
また、農作業における最大の落とし穴の一つが「高齢者の水分補給」に関する感覚のズレです。加齢とともに、人間の体は「のどの渇き」を感じにくくなります。実際には脱水が進んでいるにもかかわらず、「のどが渇いていないから水は飲まなくていい」と判断してしまい、気づいたときには手遅れになっていることが多々あります。これを防ぐためには、「のどが渇いていなくても、30分おきに必ず水分を摂る」というルールを機械的に設けることが有効です。
さらに、農作業は「単独作業」になりがちです。広い畑や山間部で一人で作業している最中に倒れると、誰にも発見されず、助けを呼べないまま最悪の結果になる恐れがあります。これを防ぐためには、以下の対策を徹底してください。
服装に関しても、通気性の良い長袖や、近年普及しているファン付きウェア(空調服)を積極的に導入しましょう。空調服は汗を気化させて体温を下げる効果が高く、ハウス内作業での疲労軽減にも大いに役立ちます。
農林水産省:農作業中の熱中症対策について(農業特有の対策ポイントがまとめられています)
熱中症になってしまった場合、回復までにどれくらいの期間が必要なのか、気になる方も多いでしょう。回復期間は、熱中症の重症度(レベル)によって大きく異なります。レベルⅠ度(軽症)であれば、適切な水分補給と休息を取ることで、通常は当日中〜翌日には体調が戻ることが多いです。しかし、翌日になってもだるさや頭痛が残る場合は、無理をせず作業を休み、完全に回復するまで様子を見る必要があります。
レベルⅡ度(中等症)以上で医療機関を受診した場合、回復には数日から1週間程度かかることがあります。点滴治療を受けて一時的に楽になったとしても、体内のダメージはすぐには修復されません。特に肝臓や腎臓などの臓器は、脱水と高体温によって大きな負担を受けています。医師の指示に従い、数日間は激しい運動や炎天下での作業を控えるべきです。
最も恐ろしいのは、レベルⅢ度(重症)に至った場合の後遺症です。高体温によって脳の神経細胞が損傷を受けると、命を取り留めたとしても、「高次脳機能障害」と呼ばれる後遺症が残る可能性があります。具体的には、記憶力の低下、集中力が続かない、感情のコントロールができずに怒りっぽくなる、といった症状です。また、小脳にダメージを受けると、歩行時のふらつきや手の震えが残ることもあります。これらは、農作業に必要な「機械の操作」や「段取りの判断」に支障をきたし、最悪の場合、廃業を余儀なくされることもあります。
「たかが熱中症」と軽く見ず、一度発症してしまったら、体が完全にリセットされるまでは慎重に行動してください。「回復したつもり」で無理をして再発症するケースも少なくありません。復帰の際は、涼しい時間帯の短時間作業から始め、徐々に体を慣らしていく「暑熱順化(しょねつじゅんか)」を意識したスケジュールを組みましょう。
熱中症ゼロへ:熱中症にかかった翌日・後遺症について(回復期の注意点が詳しく解説されています)
熱中症の予防において、もっとも重要なのは「症状が出る前に気づくこと」です。しかし、自覚症状が出る頃にはすでに脱水が進行していることが多いため、客観的な指標で自分の体の状態をチェックする方法を知っておくことが重要です。ここでは、農作業の合間にできる独自の「隠れ脱水チェック」を紹介します。
一つ目の方法は「尿の色チェック」です。これはシンプルですが非常に信頼性の高い指標です。トイレに行った際、尿の色を確認してください。
農家の皆さんは、作業に集中するとトイレに行く回数を減らそうとして水分を控える傾向がありますが、これは非常に危険です。尿の色が濃くなっていたら、それは体からの「水が足りない」という緊急のサインです。
二つ目は「手の甲の皮膚チェック(ハンカチーフ・サイン)」です。手の甲の皮膚をつまみ上げて、パッと離してみてください。
三つ目は「体重測定」です。作業前と作業後の体重を測り、その差を確認します。もし体重が作業前から2%以上減少していたら、それは脂肪が燃えたのではなく、水分が失われたことによる減少です(例:体重60kgの人なら1.2kgの減少)。この状態は脱水が進んでおり、熱中症のリスクが極めて高い状態です。翌日の作業までに、減った体重分以上の水分と食事を摂取して、元の体重に戻しておく必要があります。体重が戻らないまま翌日の作業を始めることは、脱水状態のまま戦場に行くようなものです。
JA全農:担い手向け情報(日々の健康管理やチェックポイントが掲載されています)

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