農業の現場において「光呼吸」という言葉は、長らく「悪者」として扱われてきました。なぜなら、光呼吸はせっかく光合成で固定した炭素を再び二酸化炭素として放出し、エネルギー(ATPや還元力)を消費してしまう反応だからです 。C3植物(イネ、小麦、大豆など多くの主要作物)では、光合成で得られるはずのエネルギーの最大30〜40%近くが光呼吸によって失われるとも言われており、これが「光呼吸=無駄」という認識の根幹にあります。しかし、近年の植物生理学の研究では、この一見無駄に見えるプロセスが、実は植物の生命維持システムの中に巧みに組み込まれていることが分かってきました。
参考)光呼吸とは何ですか
光合成の効率を理解するには、まず「ルビスコ」という酵素の働きを知る必要があります。ルビスコは植物の葉緑体の中にあり、大気中の二酸化炭素(CO2)を捕まえて糖を作り出す、光合成の主役とも言える酵素です 。しかし、このルビスコには「二酸化炭素だけでなく、酸素とも反応してしまう」という厄介な性質があります。二酸化炭素と反応すれば光合成が進みますが、酸素と反応すると「光呼吸」が始まってしまいます。大気中の酸素濃度(約21%)は二酸化炭素濃度(約0.04%)よりも圧倒的に高いため、植物は常に酸素と反応してしまうリスクに晒されています 。
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農業従事者にとって重要なのは、このバランスが「環境条件」によって大きく変わるという点です。気温が高くなると、ルビスコは二酸化炭素よりも酸素と反応しやすくなる性質を持っています。つまり、夏場の高温環境下では、植物は意図せずとも光呼吸の頻度を高めてしまい、光合成効率が見かけ上低下してしまうのです 。これを「無駄なロス」と捉えるか、「必要なコスト」と捉えるかで、栽培管理の視点は変わります。もし光呼吸が完全に無駄な反応であれば、進化の過程で淘汰されているはずですが、現存する多くの植物がこの機能を維持していることには、生存に関わる重大な理由があるのです。
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光呼吸の最大のメリットとして現在最も注目されているのが、「過剰なエネルギーを捨てる安全弁」としての機能です。晴天の真昼など、植物には光合成で使い切れないほどの強烈な光エネルギーが降り注ぎます。通常、この光エネルギーは二酸化炭素を糖に変えるために使われますが、何らかの理由(乾燥による気孔閉鎖など)で二酸化炭素が不足すると、エネルギーの行き場がなくなってしまいます 。
参考)http://gion.kpu.ac.jp/2004abstract/m2/ikariyama.pdf
行き場を失った過剰なエネルギーは、細胞内で「活性酸素(ROS)」を発生させる原因となります。活性酸素は非常に反応性が高く、葉緑体や細胞膜を酸化させ、破壊してしまいます。これがいわゆる「葉焼け」や「光阻害」と呼ばれる現象で、ひどい場合には植物組織が壊死し、収量に壊滅的なダメージを与えます 。ここで登場するのが光呼吸です。
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光呼吸は、あえてエネルギー(ATPやNADPH)を消費して代謝回路を回すことで、葉緑体内に溜まった過剰な還元力やエネルギーを安全に熱として逃がす役割を果たしています 。言わば、車のエンジンブレーキのようなものです。アクセル(光エネルギー)が踏み込まれすぎた状態で、ブレーキ(光合成)が効かない時、光呼吸というエンジンブレーキを使うことで、エンジンのオーバーヒート(活性酸素による細胞死)を防いでいます。実際に、遺伝子操作で光呼吸をできないようにした植物は、強光条件に置かれるとすぐに枯れてしまうことが実験で確かめられています 。農業現場で夏場の強い日差しの中でも作物が枯れずに耐えているのは、実はこの「エネルギー浪費」のおかげであると言えるでしょう。
参考)https://photosyn.jp/journal/sections/kaiho67-4.pdf
さらに、このプロセスは細胞内の「レドックスバランス(酸化還元バランス)」を一定に保つ機能も担っています 。代謝の流れを止めないことで、光化学系(特にP700などの反応中心)が過剰に還元されすぎて壊れるのを防ぎ、曇りから急に晴れるような激しい光環境の変化に対しても、柔軟に対応できる強さを植物に与えています 。
参考)植物が酸化障害を防ぐメカニズム「P700酸化モデル」を内在的…
あまり知られていない、しかし農業生産に直結する独自視点のメリットとして、「窒素代謝」との深い関わりが挙げられます。通常、光呼吸は炭素の代謝経路として語られますが、実は窒素の同化(肥料として吸った窒素をアミノ酸やタンパク質に変えること)と密接にリンクしています 。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11963491/
植物が根から吸収した硝酸態窒素は、葉緑体内でアンモニアに還元され、その後アミノ酸(グルタミン酸など)に合成されます。この過程にはエネルギーと炭素骨格が必要ですが、光呼吸の経路は、この窒素同化に必要な還元力や代謝産物を供給する重要なパイプラインとして機能しています 。研究によると、光呼吸経路の一部が阻害された植物では、硝酸の同化能力が著しく低下することが報告されています 。つまり、光呼吸が回ることで、結果的に窒素肥料の効きが良くなり、タンパク質合成がスムーズに行われている可能性があるのです。
参考)https://jspp.org/media/files/hiroba/essay/sugiyama.pdf
また、光呼吸の過程では一時的にアンモニアが発生しますが、植物はこれを再度取り込んで利用する強力なリサイクルシステム(GS/GOGAT回路)を持っています 。このリサイクル系が高速で回転することで、外部から吸収した窒素だけでなく、体内で発生した窒素も無駄なく使い回すことができます。これは、肥料効率の観点からも無視できないメリットです。
参考)https://leaf-laboratory.com/blogs/media/glossary452
さらに興味深いことに、光呼吸は「病原菌への抵抗性」にも関与しているという説があります。光呼吸に伴って発生する微量の過酸化水素(H2O2)は、植物にとってはシグナル物質として働き、病原菌の侵入を感知して防御遺伝子のスイッチを入れる役割を果たします 。また、C3植物はC4植物に比べて体内の酸素濃度が高くなりやすいため、一部の嫌気性の病原菌に対しては生育しにくい環境を作っているとも考えられています。単なるエネルギーロスだと思われていた光呼吸は、実は肥料の食い扶持を支え、病気から身を守るための複合的なシステムの一部として機能しています。
参考)炭素同化 植物生理H23-10
農業において最も頭を悩ませる「乾燥ストレス」の場面でも、光呼吸は決定的な仕事をしています。植物は水分が不足すると、葉からの蒸散を防ぐために「気孔」を閉じます 。気孔が閉じると、水分の流出は止まりますが、同時に光合成の材料である二酸化炭素も入ってこなくなります。
参考)植物の呼吸口?気孔の役割と形の違いを詳しく解説 &#8211…
この時、葉の中では二酸化炭素濃度が急激に低下し、酸素濃度が相対的に上昇します。この環境は、ルビスコにとって酸素と反応しやすい、つまり光呼吸が発生しやすい絶好の条件となります 。もしここで光呼吸が起こらなければ、前述の通り行き場を失った光エネルギーが細胞を破壊してしまいます。乾燥して気孔を閉じている間、植物は光呼吸という回路をフル回転させることで、二酸化炭素が供給されない緊急事態をやり過ごしています 。
参考)光呼吸による光合成活性の制御
これは、夏場の「水切れ」が起きた際の作物の挙動を理解する上で重要です。水が切れて萎れている植物は、ただ弱っているだけでなく、内部では光呼吸を激しく行って必死に細胞崩壊を防いでいます。この時、植物は貯蔵していたデンプンや糖を分解してCO2を補おうとすらします。農家としては「成長が止まっている」と焦る場面ですが、植物にとっては「死なないための積極的な防衛戦」を行っている最中なのです。
C4植物(トウモロコシやサトウキビなど)は、CO2を濃縮する特殊なポンプ機能を持っているため、気孔を気味に閉じても光合成を続けることができ、光呼吸もほとんど起こりません 。そのため、乾燥や高温にはめっぽう強いという特徴があります。しかし、C3植物(イネや野菜類)はこの機能がない代わりに、光呼吸を利用して乾燥ストレス時の致命傷を回避しています。この違いを理解することは、品目ごとの水管理や、猛暑日における遮光カーテンの運用(C3植物には適度な遮光で光呼吸の負担を減らすなど)を考える上で大きなヒントになります。
参考)C4植物の光合成能力と環境適応力はC3植物よりも進化的に優れ…
これまでのメリットを踏まえ、実際の農業現場でどのように光呼吸と付き合っていけばよいのでしょうか。ポイントは「温度」と「光」のバランス管理にあります。光呼吸は温度が上がると指数関数的に増大するため、施設園芸(ハウス栽培)においては、温度管理が収量を左右する鍵となります 。
参考)https://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/agriculture/lab/hagiwara/lec/seisan/007outline.pdf
まず、冬場や春先の管理です。光合成を最大化するためにCO2施用を行う農家も多いですが、ハウス内温度が高すぎると、せっかく施用したCO2の効果が光呼吸によって相殺されてしまうリスクがあります。換気設定温度を適切に管理し、葉温が上がりすぎないように循環扇を活用することで、不要な光呼吸を抑え、光合成産物を実に回すことができます 。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11503027/
逆に、真夏の猛暑対策では、光呼吸の「防御機能」を補助するような管理が有効です。強烈な日射がある中でハウス内が高温になると、植物は光呼吸でエネルギーを捨てるのに必死になり、成長どころではなくなります。ここでは「遮光」が極めて有効です 。適度な遮光資材を使って光量を落としてやれば、処理すべき過剰エネルギーが減り、光呼吸による消耗を抑えることができます。また、ミスト散布などで飽差(VPD)を下げて気孔を開きやすくしてやれば、CO2が葉内に供給され、光呼吸よりも光合成が優先される環境を作れます 。
さらに、最近のLED補光技術などの研究では、光の波長や照射パターンを工夫することで、光合成と代謝のバランスを最適化する試みも進んでいます 。例えば、赤色光と青色光のバランスを変えることで気孔の開閉を制御したり、パルス照射によって光合成効率を高めたりする技術です。これらは、植物が本来持っている光呼吸などの代謝調節機能を、人工的にサポートする技術と言えます。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10005426/
結論として、光呼吸は「無くすべき敵」ではなく、「コントロールすべきパートナー」です。ストレス条件下では作物を守る頼もしい盾となり、好適条件下では少しお節介なコストとなります。この二面性を理解し、季節や天候に合わせて「守り(光呼吸で耐える)」と「攻め(環境制御で光呼吸を抑える)」を使い分けることが、これからの時代のプロ農家に求められる技術力なのです。