農業の現場では、トラクターやコンバインなどの大型機械から、揚水ポンプ、選別機に至るまで、多種多様な機械が稼働しています。これらの機械の血液とも言えるのが「潤滑油(オイル)」です。また、近年では環境負荷低減やコスト削減のために、廃棄農作物や廃食油を利用したバイオディーゼル燃料(BDF)の自家精製に取り組む農家の方も増えています。こうした場面で、油の品質や寿命を客観的に判断する最も重要な指標の一つが「酸価(Acid Value)」であり、その単位として用いられるのが「mgKOH/g」です。
この単位は、一見すると化学的な専門用語のように難しく感じられるかもしれませんが、分解して考えると非常にシンプルで理にかなった指標です。「mgKOH/g」とは、「試料(油)1グラム中に含まれる遊離脂肪酸や酸性物質を中和するために必要な水酸化カリウム(KOH)のミリグラム数」を意味しています。つまり、この数値が高ければ高いほど、その油の中に「酸」がたくさん含まれていることを示します。
新品のオイルは通常、酸性成分が非常に少なく、中性に近い状態ですが、使用を続けると熱や空気中の酸素、水分と反応して酸化し、カルボン酸などの酸性物質が生成されます。これが「油の劣化」の正体です。酸性物質が増えると、金属部品を腐食させたり、スラッジ(ヘドロ状の沈殿物)を発生させたりして、エンジンの焼き付きや油圧機器の動作不良を引き起こす原因となります。農業機械は過酷な環境で使用されることが多く、土埃や水分が混入しやすいため、一般の乗用車よりも油の管理にはシビアになる必要があります。
酸価を理解することは、単にオイル交換の時期を知るだけでなく、機械の寿命を延ばし、高額な修理費を防ぐための「予防保全」の第一歩です。この記事では、酸価の単位が持つ意味から、具体的な計算方法、現場で使える判断基準までを、専門的な知識がない方にもわかりやすく解説していきます。
酸価の単位である「mgKOH/g」を深く理解するためには、測定の原理である「中和滴定」を知る必要があります。これは、酸性の物質にアルカリ性の物質を混ぜていくと、お互いの性質を打ち消し合って中性になるという化学反応を利用した測定法です。測定の基準物質として、強いアルカリ性を持つ「水酸化カリウム(化学式:KOH)」が採用されています。
具体的には、油1gに対して水酸化カリウムが何mgあれば、油の中に含まれる酸をすべて打ち消せるか(中和できるか)を測定します。水酸化カリウムの分子量は約56.11です。この数値は計算式の中で定数として頻繁に登場します。JIS K 2501「石油製品及び潤滑油-中和価試験方法」などで定められている基本的な計算式は以下のようになります。
この式において、各変数は以下の意味を持ちます。
なぜこれほど厳密な計算が必要なのでしょうか。それは、油の酸化によって生成される酸性物質が、目に見えないレベルで機械内部に深刻なダメージを与えるからです。例えば、酸価が「0.1 mgKOH/g」上昇しただけでも、化学的には相当数の酸分子が新たに発生したことを意味します。
農業従事者の方が自ら実験室レベルの滴定を行うことは稀かもしれませんが、市販されている「簡易酸価測定キット」などは、この原理を応用して試験紙の色の変化で概算値を出しています。原理を知っておくことで、簡易キットの結果が示す「色の濃さ」が、実際には「中和に必要なアルカリの量」を表しているという本質的な理解につながります。
JISK2501:2003 石油製品及び潤滑油-中和価試験方法
中和価試験の日本産業規格(JIS)の詳細ページです。公式な計算式や手順が網羅されており、正確な測定方法を知るための一次情報として非常に有用です。
また、食用油と工業用潤滑油では、酸価の持つ意味合いが少し異なります。食用油の場合、酸価は主に「遊離脂肪酸」の量を示し、風味の劣化や健康への影響を判断する基準となります。一方、農業機械に使われる潤滑油の場合、酸価は「酸化劣化生成物」や「添加剤の消耗」を示します。潤滑油には元々、酸を中和するための添加剤(清浄分散剤など)が含まれていますが、これが消費され尽くすと急激に酸価が上昇し、金属腐食が始まります。したがって、計算結果の推移を見ることが、単発の数値を見ること以上に重要になります。
「酸価(Acid Value: AV)」とよく似た言葉に「全酸価(Total Acid Number: TAN)」があります。農業機械のメンテナンスマニュアルやオイルのデータシートを見ていると、この二つの用語が混在していることに気づくかもしれません。実務上はほぼ同じ意味で使われることも多いですが、厳密には測定方法と対象とする成分に違いがあります。
油が酸化するメカニズムは、まさに「連鎖反応」です。
農業機械特有の事情として、「水分の混入」がこの酸化メカニズムを加速させる点が挙げられます。水田や雨天での作業が多いトラクターでは、ブリーザー(空気抜きの穴)から湿気が入り込み、結露してオイルに混ざることがあります。水は加水分解を引き起こし、エステル結合を持つ添加剤や基油を分解して酸を生成します。
中和価,全酸価,全塩基価とは - ジュンツウネット21
潤滑油協会によるQ&Aサイトで、全酸価と酸価の定義の違いや、エンジンオイルにおける添加剤の影響による数値の変動について、専門的な視点で詳しく解説されています。
知っておくべき意外な事実として、「酸価は一度上がり始めると、加速度的に上昇する」という特性があります。生成された酸自体が触媒のように働き、さらなる酸化を促進するためです(自己触媒作用)。そのため、酸価が管理基準値の半分を超えたあたりから、次の点検までの劣化スピードは予想以上に早くなります。「まだ基準値内だから大丈夫」と油断せず、上昇カーブが急になり始めたら早めの交換を検討するのがプロの管理術です。
では、具体的に「何mgKOH/g」になったらオイル交換すべきなのでしょうか。この「管理基準値(更油基準)」は、使用する油の種類や機械のメーカーによって異なりますが、一般的な目安を知っておくことは現場での判断に役立ちます。
農業機械で最も頻繁に交換する「ディーゼルエンジンオイル」の場合、新品時の酸価は添加剤の影響で1.5〜3.5 mgKOH/g程度あることが一般的です(意外かもしれませんが、新品でも0ではありません)。しかし、ここで重要なのは「新油からの増加分」です。
多くの建機・農機メーカーでは、以下のいずれかに達した時を交換基準としています。
一方、「油圧作動油(ハイドロリックオイル)」や「ギヤオイル」は、エンジンオイルとは事情が異なります。これらは新品時の酸価が低く(通常0.1〜0.5 mgKOH/g程度)、酸化安定性が重視されます。
油圧ポンプやバルブは精密な部品であり、酸価の上昇に伴って発生するスラッジが微細な隙間に詰まると、動作不良や焼き付きの原因になります。特に田植え機やコンバインの油圧システムは高負荷がかかるため、この数値には敏感になるべきです。
酸価曲線から判定する際の基準 - 日立評論
古い資料ですが、油の劣化と酸価の関係についての基礎研究として非常に価値があります。酸価0.4mgKOH/g付近を境にスラッジ発生がどう変化するかなどのデータが示されています。
ここで、あまり知られていない「基準の落とし穴」を紹介します。それは、「バイオディーゼル燃料(BDF)混入による酸価上昇」です。最近のディーゼルエンジンは排ガス規制対応のため、燃料希釈(未燃焼燃料がオイルに混ざること)が起こりやすくなっています。もし使用している燃料が酸価の高い粗悪なBDFだった場合、それがオイルに混入することで、オイル自体の劣化とは無関係に酸価の数値だけが跳ね上がることがあります。
この場合、オイルの潤滑性能自体はまだ残っていても、高い酸価によって軸受メタル(ベアリング)の腐食摩耗(コロージョン)が進行してしまいます。通常の鉱物油燃料を使っている場合とは異なるリスクがあるため、BDFを使用している農家の方は、通常よりも厳しい「絶対値 2.0 mgKOH/g以下」などを目安にオイル管理を行うことが推奨されます。
以下に、一般的な農業機械用オイルの酸価管理基準の目安を表にまとめます。あくまで目安であり、機械の取扱説明書が最優先です。
| オイルの種類 | 新品時の目安 (mgKOH/g) | 要注意・観察 (mgKOH/g) | 交換推奨・限界 (mgKOH/g) | 主なトラブル要因 |
|---|---|---|---|---|
| ディーゼルエンジン油 | 1.5 ~ 3.5 | 新油 + 1.0 | 新油 + 2.0 または 5.0 | メタル腐食、粘度増加 |
| 油圧作動油 | 0.1 ~ 0.5 | 0.5 以上 | 1.0 ~ 2.0 | ポンプ摩耗、バルブ固着 |
| ギヤオイル | 0.5 ~ 1.0 | 新油 + 1.0 | 新油 + 2.0 | 歯車の異常摩耗 |
| BDF燃料自体 | 0.1 ~ 0.3 | 0.5 | 0.8 以上 | インジェクター腐食 |
「酸価の測定なんて、専門の分析機関に出さないとできない」と思っていませんか? 確かに、JIS規格に基づいた厳密な測定は分析機関に依頼する必要がありますが、分析コスト(1検体数千円〜)と時間を考えると、すべての農機具で頻繁に行うのは現実的ではありません。しかし、現場レベルで「今すぐ交換すべきか、まだ使えるか」を判断するための簡易的な測定手法が存在します。これを活用することが、賢い農機具管理の鍵となります。
1. 試験紙(テストストリップ)による簡易診断
pH試験紙のような見た目で、油に浸すだけで酸価の目安がわかるキットが販売されています。これらは「酸価チェッカー」や「劣化診断キット」と呼ばれ、数百円〜数千円で入手可能です。
このキットを使い、シーズン前(春の農繁期前)とシーズン終了後にチェックする習慣をつけるだけでも、オイルの状態を可視化できます。特に「色は黒くなっているが、酸価はまだ低い(=まだ使える)」というケースや、逆に「色は綺麗だが、酸価が高い(=即交換)」という、見た目では判断できない劣化を見抜くことができます。
2. 農業用ポンプにおける非分解診断の重要性
農業用灌漑ポンプや排水ポンプは、一度設置すると分解点検が難しく、故障するまで放置されがちです。農研機構(NARO)の研究などでは、こうしたポンプの潤滑油を少量採取し、酸価と水分を測定することで、内部のメカニカルシールや軸受の摩耗状態を「分解せずに」推測する手法が提案されています。
酸価が急激に上昇している場合は、内部での異常発熱や水分の混入が疑われます。ポンプが故障して水が引けなくなると、水稲や畑作物に壊滅的な被害が出るため、オイル分析による予知保全は非常にコストパフォーマンスの高い保険と言えます。
潤滑剤の劣化度を簡易に評価する携帯型測定装置 - 農研機構
農研機構による研究成果で、現場で潤滑剤の酸価と水分を簡易測定できる装置についてのレポートです。農業現場特有のニーズに応える技術として参考になります。
3. サンプリングのコツ
測定結果の信頼性は「サンプリング(採油)」にかかっています。以下の点に注意してください。
酸価の測定をルーチン化することで、「なんとなく不安だから交換する」という無駄な出費を減らし、「必要なタイミングで確実に交換する」というプロの管理が可能になります。結果として、高価なトラクターやコンバインを10年、20年と長く使い続けることにつながり、農業経営の安定化に寄与します。酸価 mgKOH/g という小さな単位の向こうには、大きなコスト削減の可能性が広がっているのです。
最後に、近年注目されている「バイオディーゼル燃料(BDF)」と酸価の関係について、独自の視点から解説します。廃食油からBDFを精製してトラクターの燃料として利用する試みは、資源循環型農業として素晴らしい取り組みです。しかし、ここで最も注意すべき品質基準が「酸価」です。
廃食油は元々、調理に使われて酸化が進んでいるため、酸価が高い状態(2.0〜5.0 mgKOH/g以上)にあることが多いです。BDF製造工程(エステル交換反応)において、適切な反応処理と洗浄が行われれば、酸価は除去されて 0.5 mgKOH/g 以下に下がります。しかし、反応不十分や洗浄不足の「低品質BDF」では、酸価が高いまま残存してしまいます。
高酸価BDFが引き起こす具体的トラブル
ディーゼルエンジンの心臓部である噴射ポンプは、ミクロン単位の精度で加工された金属部品です。酸価が高い燃料(例えば 1.0 mgKOH/g以上)を使用すると、プランジャやデリバリーバルブなどの精密部品が化学的に腐食します。これにより、燃料漏れ、エンジン始動不良、ハンチング(回転数の乱れ)が発生します。コモンレール式のような最新の精密エンジンでは、わずかな腐食でも致命傷となり、修理費は数十万円に及ぶこともあります。
酸性の燃料は、燃料ホースやパッキン(Oリング)に使用されているゴムを硬化・膨潤させます。これにより燃料漏れが発生し、車両火災のリスクさえ生じます。通常の軽油用ホースは耐酸性が考慮されていない場合が多いため、BDFを使用する場合はフッ素系ゴムなどの耐薬品性が高い材質への交換が必要になることもあります。
酸価が高い燃料は、それ自体が酸化の触媒となり、保管中にさらに劣化が進みます。タンク内でヘドロ状の沈殿物が発生し、燃料フィルターを詰まらせます。「春に使おうと思って冬の間タンクに入れておいたBDFが、春には使い物にならなくなっていた」という失敗例は、初期の酸価が高かったことが原因であるケースが大半です。
バイオ燃料関連の陸上試験結果 - 国土交通省
船舶用エンジンの試験結果ですが、酸価が高いバイオ燃料が金属腐食に与える影響について詳細なデータがあります。農業用ディーゼルエンジンとも共通するリスク要因を確認できます。
農家がとるべき対策
自家製BDFを使う場合、または地域のプラントから購入する場合、必ず「酸価測定」を行うべきです。
もし0.5を超えるようなら、再精製するか、ボイラーやハウス暖房機などの「外燃機関」での使用に留め、トラクターなどの内燃機関には使用しないのが賢明です。また、BDFには酸化防止剤を添加することで、酸価の上昇をある程度抑制できます。
「エコだから」といって品質の悪い燃料を使い、機械を壊してしまっては本末転倒です。酸価という「数値の基準」を持つことが、エコと経済性を両立させるための必須条件なのです。