乳児ボツリヌス症を早期に発見するためには、便秘という最も初期のサインを見逃さないことが極めて重要です。多くの保護者の方が「赤ちゃんの便秘はよくあること」と見過ごしてしまいがちですが、乳児ボツリヌス症の場合、便秘は麻痺症状が現れる数日前に先行して現れる特徴的な警告サインであることがわかっています 。普段は快便だった赤ちゃんが急に3日以上排便をしなくなり、機嫌が悪くなったり母乳やミルクの飲みが悪くなったりした場合は、単なる便秘と片付けずに注意深く観察する必要があります。
参考)乳児ボツリヌス症 - 16. 感染症 - MSDマニュアル家…
便秘に続いて現れるのが、ボツリヌス毒素による進行性の筋力低下です。この筋力低下は、典型的には体の中心部から末端へ、そして頭部から下方へと進行する「下降性麻痺」のパターンをとります。具体的には以下のような変化が赤ちゃんに見られます。
これらの症状は、ボツリヌス菌が産生する神経毒素が、神経から筋肉への伝達を遮断することで引き起こされます。症状が進行すると、呼吸筋の麻痺により呼吸困難に陥り、最悪の場合は呼吸停止に至る危険性があります 。赤ちゃんの「いつもと違う」様子、特に便秘と筋力低下の組み合わせに気づいたら、直ちに小児科を受診し、ハチミツの摂取歴や井戸水の使用、土壌との接触などがあれば必ず医師に伝えるようにしてください。
参考)https://www.jpa-web.org/dcms_media/other/%E4%B9%B3%E5%85%90%E3%83%9C%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%8C%E3%82%B9%E7%97%87%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6_170620tue.pdf
参考リンク:国立感染症研究所「ボツリヌス症とは」 - 症状の詳細や発生メカニズムについて専門的な解説が掲載されています。
乳児ボツリヌス症の予防において、「1歳未満の赤ちゃんにハチミツを与えてはいけない」というのは今や常識となっていますが、その理由を正しく理解している人は意外と少ないかもしれません。ハチミツが危険な理由は、ボツリヌス菌の「芽胞(がほう)」が含まれている可能性があるからです。芽胞とは、菌が過酷な環境に耐えるために作る硬い殻のような構造のことで、乾燥や熱に対して極めて強い耐性を持っています。
ここで特に注意が必要なのが、加熱に対する誤解です。「加熱すれば殺菌できるから大丈夫だろう」と考え、ハチミツ入りのカステラやクッキー、煮込み料理などを赤ちゃんに与えてしまうケースが見受けられます。しかし、ボツリヌス菌の芽胞は、通常の料理で行うような100℃程度の加熱では死滅しません。芽胞を完全に死滅させるには、120℃で4分間以上の加熱処理(高圧蒸気滅菌など)が必要とされています 。家庭での通常の調理法(茹でる、焼く、煮る)では、芽胞は生き残ってしまうため、加熱したからといってハチミツを含む食品を赤ちゃんに与えることは絶対に避けてください。
1歳を過ぎれば、腸内環境が整い、腸内細菌の叢(そう)が完成に近づくため、ボツリヌス菌が口から入っても腸内で発芽・増殖することができなくなります。そのため、大人がハチミツを食べてもボツリヌス症になることは(特殊な場合を除き)ありません。あくまで「腸内環境が未熟な1歳未満」だけの特別なリスクであることを理解し、家族や親戚、預かり保育をする人ともこの知識を共有しておくことが大切です。
参考リンク:厚生労働省「ハチミツを与えるのは1歳を過ぎてから。」 - ハチミツによる乳児ボツリヌス症のリスクと予防について公式な注意喚起がなされています。
なぜ、ボツリヌス菌は大人には無害で、1歳未満の赤ちゃんにだけ重篤な症状を引き起こすのでしょうか。その鍵は、赤ちゃんの「腸内環境」の特殊性にあります。大人の腸内には、ビフィズス菌や大腸菌など、数え切れないほどの腸内細菌がすでに住み着いており、複雑で強固な生態系(腸内フローラ)を形成しています。もし大人がボツリヌス菌の芽胞を摂取しても、他の強力な腸内細菌たちとの生存競争に負けてしまうため、ボツリヌス菌は発芽・増殖することができず、そのまま便として排出されてしまいます 。
参考)http://www.jpeds.or.jp/uploads/files/shokuiku_12-4.pdf
しかし、1歳未満の赤ちゃんの腸内は、まだ細菌の定着が不十分で、生態系としての防御機能が未熟です。また、消化管の免疫機能も発達途中であり、胆汁酸の分泌量なども大人とは異なります。このような「無防備な」腸内環境にボツリヌス菌の芽胞が入ってくると、競合する相手がいないため、芽胞は腸内で発芽し、栄養型の菌へと変化して爆発的に増殖を始めます。そして、増殖する過程で強力な神経毒素を産生し、それが腸管から吸収されて全身に回り、麻痺症状を引き起こすのです。これが「乳児ボツリヌス症」の発生メカニズムであり、毒素そのものを食べて起こる食中毒とは異なり、「腸管内感染症」として扱われます 。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC9239077/
このメカニズムからわかるように、乳児ボツリヌス症のリスクは、腸内フローラが完成する離乳完了期(おおよそ1歳頃)まで続きます。特に、離乳食を開始する生後5〜6ヶ月頃は、赤ちゃんの口に入る食品の種類が急に増える時期であり、保護者の注意が不可欠です。また、抗生物質を投与されている赤ちゃんの場合、腸内細菌のバランスが崩れているため、通常よりもリスクが高まる可能性も示唆されています。赤ちゃんの腸は、栄養を吸収する大切な器官であると同時に、外敵から身を守るためのバリアが建設中のデリケートな現場であることを意識しましょう。
乳児ボツリヌス症の原因としてハチミツは有名ですが、実はハチミツ以外にも注意すべき感染源が存在します。ボツリヌス菌はもともと自然界の土壌や河川に広く分布している常在菌です 。そのため、土や泥、そしてそれに由来する砂埃などは、すべて潜在的な感染源となり得ます。検索上位の記事ではあまり強調されていませんが、以下のルートからの感染リスクについても、独自の視点で十分に警戒する必要があります。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11322261/
参考)http://www7b.biglobe.ne.jp/~inomata-kodomo/2017Botulism.html
特に「自然派」や「オーガニック」を志向するご家庭では、加工されていない天然の食材や湧き水などを好む傾向がありますが、乳児ボツリヌス症の観点からは、逆にリスクを高めてしまう場合があります。「自然のもの=安全」とは限らないことを理解し、1歳になるまでは衛生管理された安全な水と食材を選び、野菜などの食材は徹底的に洗浄してから加熱調理(加熱は殺菌目的ではなく消化のためですが、洗浄は菌を物理的に落とすために重要)を行うことが、赤ちゃんを感染から守る鍵となります。
参考リンク:新座市「乳児ボツリヌス症に注意」 - ハチミツ以外の原因食品(自家製野菜スープ、井戸水など)についても言及されています。
もし赤ちゃんが乳児ボツリヌス症にかかってしまった場合、どのような経過をたどるのでしょうか。まず、ボツリヌス菌の芽胞を摂取してから症状が出るまでの潜伏期間は、通常3日から30日程度と幅があることが知られています 。摂取した芽胞の量や赤ちゃんの腸内環境によって発症までの日数が異なるため、「昨日食べたものが原因」とは限らず、過去1ヶ月の生活を振り返る必要があります。
参考)乳児ボツリヌス症|岐阜市公式ホームページ
治療において最も重要なのは、呼吸困難への対応です。ボツリヌス毒素によって呼吸筋が麻痺すると、自力で十分な呼吸ができなくなるため、人工呼吸器による呼吸管理が必要になります。入院治療は必須で、集中治療室(ICU)での管理となることも少なくありません。治療の柱は以下の2点です。
適切な呼吸管理と全身管理が行われれば、乳児ボツリヌス症の死亡率は1%未満と非常に低く、予後は比較的良好です 。しかし、麻痺した神経が回復するには長い時間がかかります。入院期間は数週間から数ヶ月に及ぶことが多く、退院後も筋力が完全に戻るまでリハビリが必要になることがあります。回復期には、まず眼の動きや表情が戻り始め、次いで手足の動き、最後に呼吸機能が改善していくという、発症時とは逆の順序で回復していく傾向があります。
長期間の入院は赤ちゃんにとっても家族にとっても大きな負担となりますが、現代の医療では適切に管理すれば治る病気です。だからこそ、「便秘」「哺乳力低下」「泣き声の変化」といった初期のサインを見逃さず、早期に受診して診断をつけることが、重症化を防ぎ、早期回復への第一歩となります。少しでも違和感を感じたら、迷わず小児科医に相談してください。