農業の現場で頻繁に使われる「誘引(ゆういん)」という言葉ですが、その深い意味と重要性を正しく理解しているでしょうか。辞書的な意味では「ある方向へ導くこと」を指しますが、農業、特に施設園芸や家庭菜園においては、「植物の茎やつるを支柱やネットに固定し、人為的にその形状(草姿)をコントロールする栽培管理技術」と定義されます。
参考)誘引(ゆういん)
単に「倒れないように縛る」だけが誘引ではありません。プロの農家が誘引に多大な時間を費やすのは、それが作物の生理生態に直接働きかけ、最終的な利益に直結するからです。誘引には大きく分けて3つの目的があります。
植物は葉で光を受け、光合成を行うことでエネルギーを作り出します。自然任せに成長させると、葉が重なり合い、下の方の葉には光が届かなくなってしまいます。誘引によって枝や葉を空間的にバランスよく配置することで、すべての葉に均一に日光を当てることができます。これを「受光態勢の改善」と呼びます。効率よく光合成が行われることで、果実の肥大が促進され、結果として単位面積あたりの収穫量が向上します。
植物が過密状態になると、葉の周辺の湿度が極端に高まります。これはカビや細菌にとって絶好の繁殖環境となり、うどんこ病や灰色かビ病などの温床となります。誘引によって枝葉の間に適切な空間を作ることで、風通しを良くし、湿度を下げることができます。また、薬剤散布の際も、葉の裏側まで薬液が届きやすくなるため、防除効果も高まります。
参考)誘引 (ゆういん)
収穫作業や脇芽かきなどの管理作業を行う際、枝が整理されていないと対象を探すだけで時間がかかり、見落としも発生します。誘引によって果実がなる位置や高さがある程度揃うため、収穫作業のスピードが格段に上がります。また、果実が葉や茎に擦れて傷がついたり、地面についても腐ったりするのを防ぐことができるため、秀品率(出荷できるきれいな野菜の割合)が向上します。
参考リンク:農業資材の紹介サイト(誘引の概要とメリットについて、農業資材の観点から詳細に定義されています)
誘引作業において最も技術を要するのが、紐(ひも)の結び方です。初心者がやりがちな失敗は、茎を支柱にきつく縛り付けてしまうことです。植物の茎は日々太く成長するため、きつく縛ると紐が茎に食い込み、養分や水分の通り道である維管束を圧迫してしまいます。最悪の場合、そこから先が枯れたり、茎が折れたりしてしまいます。
これを防ぐための基本テクニックが「8の字結び(ハチノジ結び)」です。
参考)シンプルかつ強固なロープワーク「8の字結び」の活用テク
この「8の字」を作ることで、支柱と茎の間に紐の交差部分(クッション)が生まれ、茎が支柱に直接当たって擦れるのを防ぐことができます。また、茎側の輪に余裕があるため、茎が太くなっても紐が食い込むまでのタイムラグを稼ぐことができます。風で植物が揺れた際も、この「あそび」が衝撃を吸収し、茎へのダメージを軽減します。
誘引に使う紐の素材も重要です。
参考リンク:HONDA家庭菜園のコツ(支柱への誘引の仕方、基本の手順が図解の文脈で理解できます)
野菜の種類によって、最適な誘引方法は異なります。それぞれの植物の成長特性(草姿)に合わせた誘引を行うことが、成功への近道です。ここでは代表的な果菜類であるトマトときゅうりを例に解説します。
トマトは「主茎(しゅけい)」と呼ばれる太い茎を一本だけ伸ばし、脇芽をすべて取り除く「1本仕立て」が基本です。
参考)誘引が上手にできるコツをご紹介!【トマト・キュウリ・ピーマン…
きゅうりは自ら「巻きひげ」を出して何かに絡まりながら登っていく性質があります。そのため、支柱単体よりも「園芸ネット」を使用した誘引が適しています。
参考リンク:施設園芸.com(トマト・キュウリ・ピーマン別の誘引のコツ、つる下ろしの詳細な図解説明があります)
大規模な畑や、忙しい兼業農家にとって、すべての株を紐で結ぶ作業は膨大な時間を要します。そこで、作業効率を劇的に向上させる「誘引資材」の活用が推奨されます。
| 道具の種類 | 特徴 | おすすめの用途 | メリット・デメリット |
|---|---|---|---|
| 誘引クリップ |
洗濯バサミのような形状で、茎と支柱を挟んで固定する。 |
トマト、ナス、ピーマンなど茎がしっかりした野菜 | ○ 着脱が非常に早く、繰り返し使える。× 重みのある作物だとずり落ちることがある。初期投資がかかる。 |
| 園芸用テープナー |
ホッチキスのような機械で、専用テープとステープルを使って瞬時に輪を作って固定する。 |
トマト、きゅうり、ブドウなど大量の株がある場合 | ○ 片手で作業でき、紐結びの数倍の速さで完了する。× 専用の機械(数千円〜)と消耗品が必要。 |
| 茎保持部材(紐吊り用) | 天井から垂らした紐に、植物の茎を巻きつけたり、専用フックで引っ掛けたりする。 | 施設栽培のトマト、きゅうり | ○ 支柱が不要になり、作業空間が広くなる。× 天井に強度のある針金などを張る設備が必要。 |
「支柱キャッチ」や「くきロック」などの商品名で販売されています。選ぶ際は、対応する支柱の太さ(11mm、16mm、20mmなど)を確認してください。また、茎を挟む部分の直径も重要です。太すぎると固定できず、細すぎると茎を潰してしまいます。最近では、生分解性プラスチックで作られた、環境に優しいクリップも登場しています。
「マックス(MAX)」社のテープナーが有名です。ガチャンと握るだけでテープが巻かれ、ホッチキス留めとカットが同時に行われます。数秒で1箇所が終わるため、100株以上の栽培をする場合は必須のツールと言えます。テープの厚みや色にも種類があり、収穫終了後にテープが自然に劣化して切れやすくなるものもあります。
参考リンク:タキイ種苗(テープナー「とめたつ」の役割と誘引結束作業の負荷軽減についての詳細データ)
ここまでは物理的な「固定」の話でしたが、実は誘引には植物生理学的な意味も含まれています。それが「頂芽優勢(ちょうがゆうせい)」と「植物ホルモン」のコントロールです。
参考)【高校生物】「頂芽優勢のメカニズム」
植物には、先端の芽(頂芽)が優先的に成長し、その下にある脇芽(側芽)の成長が抑えられるという性質があります。これを「頂芽優勢」と呼びます。このメカニズムには、オーキシンという植物ホルモンが深く関わっています。
オーキシンは頂芽で作られ、重力に従って茎を下へ移動します。茎の中のオーキシン濃度が高いと、脇芽の成長を促す別のホルモン(サイトカイニン)の働きが抑制され、脇芽が眠った状態になります。
参考)アセビの誘引
誘引によって茎の角度を変えることは、このオーキシンの流れを変えることを意味します。
例えば、つるバラやブドウの栽培において、枝を水平に誘引するのはこのためです。垂直のままだと先端にしか花がつきませんが、水平に倒すことで、枝の途中にある芽からも一斉に新芽が出て、たくさんの花や実をつけることができます。
また、誘引時に茎を曲げたり捻ったりする物理的な刺激は、植物にとって一種の「ストレス」となります。このストレスにより、植物ホルモンの一種である「エチレン」の生成が一時的に高まることがあります。エチレンは果実の成熟や茎の肥大に関与するため、適度なストレス(強すぎない誘引)は、植物を丈夫にし、生殖成長への切り替えを促すスイッチのような役割も果たしていると考えられます。
つまり、誘引とは単なる「固定作業」ではなく、「植物ホルモンの流れをデザインし、植物の成長モード(体を大きくするか、子孫を残すか)を切り替える高度な司令」なのです。
参考リンク:日本植物生理学会(頂芽優勢とオーキシンのメカニズム、誘引が植物に与える影響の科学的解説)