植物分類の世界では、長らく新エングラー体系が標準として使われてきました。これは植物の「見た目」や「形態」の特徴を重視してグループ分けを行う方法です。花びらが離れているか(離弁花)、くっついているか(合弁花)といった、肉眼で観察できる特徴を基準にしているため、直感的に理解しやすく、現在でも多くの植物図鑑や学校教育の現場、そして農業の現場で愛用されています 。
参考)新エングラー法 - 野山の花たち 東北と関東甲信越の花
一方、1990年代の終わり頃から登場したのがAPG分類体系です。APGとは「Angiosperm Phylogeny Group(被子植物系統グループ)」の略で、植物のDNA(葉緑体遺伝子など)を解析し、その塩基配列の違いに基づいて進化の道筋(系統)を明らかにする分類方法です 。
参考)https://voluran.com/member/2021-04-no55.pdf
この二つの体系の最大の違いは、「他人の空似」を見抜けるかどうかにあります。
新エングラー体系では、厳しい環境に適応して似たような姿に進化した植物同士を「近い仲間」として分類してしまうことがありました。しかし、APG分類体系による分子系統解析を行うと、姿形は似ていても遺伝的には全く異なる他人であることが判明したり、逆に見た目は全く違うのに遺伝的には非常に近い親戚であることが分かったりします。
農業従事者にとって、これまで「常識」だと思っていた分類が覆されることは、単なる学術的な話ではありません。栽培管理や病害虫対策の基礎となる「科」の概念が変わることを意味しており、現場での知識のアップデートが求められています。しかし、書店に並ぶ一般向けの図鑑では、依然として検索のしやすさから新エングラー体系(またはクロンキスト体系)を採用しているものが多く、学術界と現場の間で情報の「ねじれ」が生じているのが現状です 。
参考)http://www.syokubutsuen-kyokai.jp/business/dl_files/kaihou49all.pdf
APG分類体系の導入により、私たちに馴染み深い多くの野菜が「転籍」することになりました。特に影響が大きいのが、かつて巨大なグループであった「ユリ科」の解体と、科の統廃合です。
以下に、農業の現場で特に重要な科名の変更例をまとめました。
| 野菜名 | 新エングラー体系 | APG分類体系 | 現場への影響度 |
|---|---|---|---|
| ネギ、タマネギ、ニラ | ユリ科 | ヒガンバナ科 | 大 |
| アスパラガス | ユリ科 | キジカクシ科 | 中 |
| ホウレンソウ | アカザ科 | ヒユ科 | 大 |
| シュンギク、ゴボウ | キク科 | キク科(変更なし) | - |
| トマト、ジャガイモ | ナス科 | ナス科(変更なし) | - |
| サツマイモ | ヒルガオ科 | ヒルガオ科(変更なし) | - |
参考リンク:農林水産省 クロピラリド関連通知(APG体系による科名変更の記載あり)
特に注目すべきは「ユリ科」の変更です。新エングラー体系では、ネギやタマネギはユリ科に属していましたが、APG体系ではヒガンバナ科(ネギ亜科)に分類されます。また、アスパラガスはキジカクシ科(クサスギカズラ科とも呼ばれます)という全く別の科になりました 。
参考)http://alpineplants.sakura.ne.jp/search/henko.pdf
さらに、かつて独立していた「アカザ科」(ホウレンソウやビートなど)は、APG体系ではヒユ科に統合されました。これにより、ホウレンソウは植物学的にはヒユ(アマランサスなど)と同じグループとして扱われることになります。昔の教科書や栽培マニュアルでは「アカザ科」と書かれている情報が、最新の資材カタログや農薬の適用表では「ヒユ科」と表記されている場合があり、混乱の元となっています 。
参考)https://www.pref.kochi.lg.jp/doc/2017022800080/file_contents/file_202116315210_3.pdf
このような変更は、種苗メーカーのカタログや栽培マニュアルでも徐々に反映されつつありますが、まだ新旧の表記が混在している過渡期にあります。古い知識のままでいると、新しい栽培技術情報の検索や、適正な資材選びに支障をきたす可能性があるため、主要な作物の新しい所属先を把握しておくことが推奨されます。
連作障害を防ぐための基本である「輪作」において、科レベルの分類知識は不可欠です。しかし、新エングラー体系の知識だけで輪作計画を立てると、思わぬ落とし穴にはまる可能性があります。
例えば、旧来の分類では「アカザ科(ホウレンソウ)」と「ヒユ科(ヒユナ、アマランサス)」は別の科とされていました。そのため、「ホウレンソウの後にアマランサスを植えても科が違うから大丈夫」と考える生産者もいたかもしれません。しかし、APG分類体系ではこれらは共にヒユ科に統合されています 。つまり、これらは遺伝的に非常に近い関係にあり、共通の病害虫や土壌中の微量要素欠乏のリスクを共有している可能性が高いのです。
参考)https://www.naro.go.jp/publicity_report/publication/files/clopyralid_ver2.pdf
逆に、ユリ科の解体は輪作の自由度を広げる可能性があります。以前は「ユリ科」として一括りにされていたネギ類(現・ヒガンバナ科)とアスパラガス(現・キジカクシ科)は、遺伝的には距離があることが分かりました。もちろん、共通する病気のリスクは考慮する必要がありますが、土壌養分の収奪パターンなどが異なる可能性があるため、これまで過度に恐れていた組み合わせが見直されるきっかけになるかもしれません 。
参考)https://www.amaryoku.or.jp/files/file/fl00000060.pdf?1606443159
また、ゴマノハグサ科の大幅な改編も重要です。この科からは多くの植物がオオバコ科やハマウツボ科へ移動しました。直接野菜として栽培するものは少ないかもしれませんが、畑の周辺に生える雑草や、バンカープランツ(天敵温存植物)として利用する植物が、実は作物と同じ科(または非常に近い科)であったというケースが出てきます。
APG分類体系に基づいた正しい類縁関係を知ることで、より科学的で精度の高い輪作体系や混植(コンパニオンプランツ)の設計が可能になります。単に「名前が変わっただけ」と捉えず、「植物の生理的な性質が似ている真のグループが判明した」と捉えることが、現代の農業には求められています。
これはあまり一般の図鑑では語られない、しかし農業現場では極めて重大な「独自視点」の情報です。除草剤、特にホルモン型除草剤などの感受性は、植物の代謝経路や受容体の構造に依存するため、見た目の分類(新エングラー)よりも、遺伝的な分類(APG)と高い相関を示すことがあります。
その代表例が、輸入飼料などを介して堆肥に残留し、園芸作物に被害を与える除草剤「クロピラリド」の問題です。この除草剤は、キク科、マメ科、ナス科、そしてヒユ科などの植物に特異的に障害を引き起こします 。
参考)https://www.maff.go.jp/j/seisan/kankyo/clopyralid/attach/pdf/clopyralid-8.pdf
ここで問題になるのが、古い知識とのギャップです。
もし農家が「ホウレンソウはアカザ科だから、ヒユ科に効く除草剤の影響は関係ないだろう」と判断してしまったらどうなるでしょうか。実際には、APG体系においてホウレンソウはヒユ科そのものであり、クロピラリドに対して高い感受性を持っています。行政からの注意喚起文書でも、APG分類体系に従って「アカザ科」から「ヒユ科」へと表記の変更が行われています 。
参考)https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5358461.pdf
このように、農薬の作用機序は植物の遺伝的な特性(生理メカニズム)に深く関わっています。見た目で分類した新エングラー体系では「なぜこの薬がこのグループに効いて、あちらには効かないのか」が説明できない場合でも、分子系統に基づくAPG体系で見れば「同じ祖先から特定の代謝酵素を受け継いだグループだから効く」ということが論理的に説明できるケースが増えています。
今後、新しい農薬や植物成長調整剤が登場する際、その適用対象や薬害のリスク評価は、より科学的なAPG分類体系に基づいて行われることが一般的になるでしょう。
除草剤のラベルや技術資料を読み解く上でも、新しい分類体系の知識は、作物を守るための重要な「防具」となるのです。
では、今後は新エングラー体系を捨てて、完全にAPG分類体系に移行すべきなのでしょうか?
結論から言えば、農業の現場では当面の間、両方の知識が必要になります。
その理由は、APG分類体系が「未完成」であり、現在も更新され続けているからです。1998年のAPG Iから始まり、II、IIIと改訂され、現在は2016年に発表されたAPG IVが最新です 。研究が進むにつれて、一度決まった科がまた移動したり、統合されたりする可能性はゼロではありません。頻繁に変更される分類を、日常業務である農業の現場ですべて追従するのは現実的ではない側面があります。
また、長年蓄積された栽培技術や直感的な植物識別において、新エングラー体系の「見た目で分ける」というアプローチは依然として有用です。フィールドで未知の雑草に出会ったとき、DNAを調べることはできませんが、花の形(合弁か離弁かなど)を見て「これは〇〇科の仲間だろう」と当たりをつけるには、旧来の体系が非常に役立ちます 。
参考)どっちが正解 第2章|オフィシャルブログ|東山動植物園
しかし、公的な文書、農薬登録、種苗カタログ、学術論文などは確実にAPG体系へとシフトしています。
賢い付き合い方としては、「現場での直感的な判断には新エングラー体系を使い、正確な情報の確認や資材の選定、連作障害の厳密な回避にはAPG分類体系を使う」という使い分けがベストです。
古い図鑑を使い続けることは決して間違いではありませんが、そこに書かれている「科名」が現在の科学的常識とは異なっている可能性があること、そしてその違いが栽培管理上のリスク(農薬感受性や連作障害)に直結する場合があることを理解しておくことが、これからのプロの農業者には不可欠な素養となるでしょう。