医療のリスクコミュニケーションで重要視される「Be Right(正しくあれ)」は、単に“間違いのない断言”をする態度ではありません。感染症危機のリスクコミュニケーションマニュアルでは、Be Rightを「その時点で分かっていること/分かっていないこと/分かっていないことの解明に向けて何がなされているか」を透明性をもって示す原則として説明しています。ここでの核心は、正確性と同時に“更新され得る情報”として扱い、誤解の余地を潰す運用にあります。
実務に落とすなら、会話や掲示文・説明書の冒頭に「現時点の情報」「更新予定」「次の確認ポイント」を短く入れます。例えば「本日時点ではAとBが分かっています。Cは検査結果待ちで、明日○時に再説明します」のように、確定事項と未確定事項を混ぜないことが要点です。これは危機時に限らず、普段の診療説明や相談対応でも、相手の不安(アウトレイジ)を“情報の区切り”で下げる効果が期待できます(人は不確実性そのものに強いストレスを感じやすいため)。
さらに、同マニュアルは「ワンボイス」の考え方にも触れています。ワンボイスは“発信者を1人に固定する”ことではなく、多様な情報源から出ても内容が整合している状態を指します。現場では、医師・看護師・受付、あるいは院内掲示・Web・電話案内で微妙に言い方が変わるだけで「本当は隠しているのでは」という不信が生まれます。だからこそ、共有テンプレ(例:3行で要点、想定質問、言ってはいけない断言)を作り、部署を跨いで同じ骨格で説明できるようにします。
参考リンク(Be Rightの定義とCERC6原則が日本語でまとまっている部分)
https://www.caicm.go.jp/action/survey/surveyr06_risk_communication/files/result.pdf
医療では「説明と同意(インフォームド・コンセント)」が、リスクコミュニケーションの中核になります。世界医師会のリスボン宣言では、患者は自己決定の権利を持ち、検査や治療の目的・結果の意味・同意を差し控える意味を理解するために必要な情報を得る権利があるとされています。つまり、正しい情報を“渡す”だけでは不足で、相手が判断できる形に“翻訳して届ける”責任が含まれます。
ここで見落とされがちなのが、「説明は長いほど良い」ではない点です。正確さを追うほど専門用語が増え、相手の頭の中で要点が崩壊することがあります。感染症危機のマニュアルでも、リスク情報は多くの人が理解しやすい形で分かりやすく伝える必要があるとし、分かっていることと不確実なことの線引きを明確にし、更新され得ることを予告するなどの留意点を示しています。医療の説明と同意でも同様で、「要点→理由→代替案→次の一手」の順に短く組み立て、最後に確認質問を入れるほうが、誤解を減らしやすい運用になります。
実務チェックリスト(紙1枚に収まる形を推奨)
参考リンク(自己決定・情報を得る権利の根拠として使える部分)
https://www.med.or.jp/doctor/international/wma/lisbon.html
自己決定を守るためのコミュニケーションは、「相手が選べる状態」を作ることです。リスボン宣言は、患者が同意を与えるか差し控える権利を持つことを示しており、選択の自由と自己決定が前提にあります。ここでBe Rightが効いてくるのは、「選択肢を並べるときに、都合の悪い情報を薄めない」こと、そして「不確実性を不確実性として扱う」ことです。
あまり知られていない落とし穴として、“正しさの圧”があります。医療者側が「科学的に正しいからこれが最善」と強く押すほど、患者は「反対すると非合理な人扱いされる」と感じ、質問を止めたり、同意書にサインしても実は納得していない状態になり得ます。感染症危機のマニュアルは、リスク認知が客観要素だけでなく恐怖や怒りなどの感情(アウトレイジ)を含んで形成される点を踏まえ、意味があると思える行動をセットで伝える重要性を述べています。自己決定を守るには、相手の感情を排除せず、選択の“納得の条件”を言語化する支援が必要です。
具体策として、次の「3点確認」を習慣化します。
このやり方は、説明時間を増やすための儀式ではなく、むしろ後戻り(電話の再問い合わせ、クレーム、受診中断)を減らすための“短い整地作業”です。Be Rightは「正確さ」だけでなく「相手が理解できる形への整形」を含む、と現場全体で共有すると、自己決定を支える文化が作りやすくなります。
農業従事者向けに医療のリスクコミュニケーションを応用する価値は大きいです。農薬散布、機械作業、熱中症、獣害対策など、日々の作業は「リスクをゼロにできない中で、許容範囲を決めて実行する」意思決定の連続だからです。感染症危機のマニュアルが示すBe Right(分かっていること/分かっていないこと/確認中のことを透明に示す)や、分かりやすい具体的な呼びかけ・ピクトグラム等の活用といった考え方は、農業の安全衛生にもそのまま移植できます。
たとえば、農薬ラベルやSDS(安全データシート)を読んでも、現場で迷いが出るのは「その日の状況の不確実性」が大きいからです(風、気温、周辺住民、体調、機械の状態)。ここでBe Right型の掲示にすると、事故が減ります。例。
さらに「ワンボイス」も効きます。家族経営や共同作業では、人によって安全ルールの言い方が変わるだけで、若手は「結局どれが正しいの?」となり、自己流が増えます。短いルール文(3行)とピクトグラムを揃え、朝礼・LINE・倉庫掲示で同じ文言を使うだけでも、判断の迷いが減ります。マニュアルでも情報弱者への配慮としてイラストやピクトグラム、ユニバーサルデザインの工夫が挙げられており、現場の掲示物改善の根拠として使えます。
参考リンク(リスク情報の伝え方、情報弱者への配慮、ピクトグラム活用など“現場掲示”に使える部分)
https://www.caicm.go.jp/action/survey/surveyr06_risk_communication/files/result.pdf
検索上位では「正しい情報発信」や「信頼」が語られがちですが、現場で本当に差が出るのは“撤回(訂正)を設計する技術”です。Be Rightは、常に正しい断言を意味しないと明記されており、むしろ透明性をもって分かっていること・分かっていないことを伝えるべきだとされています。つまり訂正は失敗ではなく、正しさを維持するための手順です。
ところが、医療でも農業でも「前に言ったことを変えるのは恥」「信用を失う」と感じて、更新が遅れることがあります。ここで逆転の発想として、“訂正をルール化しておくと信用が上がる”という設計が有効です。感染症危機のマニュアルは、古い情報に依拠してしまう混乱を防ぐため各種情報に更新時期を明記する重要性を述べています。これは「いつ更新されるか」を明示するだけで、相手が“待てる”状態になり、勝手な推測や噂で埋めないようになるためです。
実装例(医療・農業どちらにも使える)
この“撤回の技術”は、AI時代の偽・誤情報対策にも直結します。情報が高速で拡散する環境では、「最初に言ったこと」よりも「更新し続ける姿勢」が信頼の源泉になります。Be Rightを「正確に黙る」ではなく「正確に更新する」と再定義すると、現場のリスクコミュニケーションは一段安定します。