農業の現場において、作物の成長や収量に直結する要素として「肥料」や「水」が重視されるのは当然のことですが、近年、植物自身が持っている「ホルモン」の働きを理解し、それを栽培管理に活かそうという動きが急速に広まっています。その中でも、特に病害虫防除や環境ストレスへの対策として注目を集めているのが、今回のテーマである「ジャスモン酸」です。ジャスモン酸は、単なる成長調整物質ではありません。植物が過酷な環境で生き抜くために進化させた、極めて高度な「危機管理システム」の司令塔として機能しています 。
参考)https://leaf-laboratory.com/blogs/media/glossary163
ジャスモン酸(Jasmonic Acid:JA)は、植物体内でリノレン酸などの脂肪酸から合成される植物ホルモンの一種です。もともとはジャスミンの香気成分として発見されたことからその名がつきましたが、現在では種子植物だけでなく、シダ植物やコケ植物など植物界に広く存在することがわかっています。このホルモンが生成されるきっかけは、主に「物理的な損傷」や「害虫による食害」です。作物の葉がイモムシにかじられたり、強風で枝が折れたりすると、細胞膜から特定の脂肪酸が切り出され、いくつかの酵素反応を経てジャスモン酸が急速に合成されます 。
参考)株式会社WAKU|BLOG
合成されたジャスモン酸は、植物体内でシグナルとして働き、特定の遺伝子のスイッチをオンにします。これにより、植物は「平時の成長モード」から「有事の防御モード」へと生理状態を劇的に変化させるのです。例えば、古い葉を落として栄養を回収したり(老化の促進)、塊茎(イモなどの芋部分)の形成を促したりといった生理作用もジャスモン酸の働きの一部ですが、農業従事者にとって最も重要なのは、やはりその強力な防御誘導能力でしょう 。
参考)食害性昆虫への防御と天敵の誘引について
興味深いことに、ジャスモン酸は植物の体内だけで完結する物質ではありません。揮発性の形態(ジャスモン酸メチルなど)に変化することで、大気中を漂い、隣接する株や、全く別の植物にまで「危険信号」を伝えることができます。これを受け取った周囲の植物は、まだ自分が攻撃されていなくても、あらかじめ防御物質を用意して敵の襲来に備えることができます。これを「プライミング(準備状態)」と呼びます。つまり、畑の片隅で発生した食害のシグナルが、ジャスモン酸を通じて畑全体に広がり、集団防衛体制を敷く可能性があるのです 。
参考)エタノールと酢酸による高温・乾燥耐性の向上について
農業において、このジャスモン酸のメカニズムを理解することは、単に農薬を散布するだけの防除から、植物本来の力を引き出す「バイオスティミュラント(生物刺激資材)」的なアプローチへと転換する鍵となります。しかし、その強力な作用ゆえに、使い方や環境条件によっては作物の成長を止めてしまうリスクも孕んでいます。次項からは、この諸刃の剣とも言えるジャスモン酸の具体的な防御システムや、現場での活用法について深掘りしていきます。
参考リンク:ジャスモン酸の基礎知識と植物の生存戦略における役割(LEAF)
植物は動くことができないため、害虫に襲われた際に「逃げる」という選択肢を持っていません。その代わりに発達させたのが、ジャスモン酸を介した化学的な防御システムです。害虫が葉をかじると、その物理的な刺激と、害虫の唾液に含まれる成分(エリシター)が引き金となり、ジャスモン酸経路が活性化します。この反応は非常に迅速で、食害を受けてから数分から数時間以内に防御関連遺伝子の発現が上昇することが確認されています 。
ジャスモン酸によって活性化される防御システムには、大きく分けて「直接防御」と「間接防御」の2つの戦略があります。
植物自身が害虫にとって「有害」あるいは「不味い」物質を作り出す反応です。ジャスモン酸の指令により、植物は「プロテイナーゼ阻害剤(PIs)」というタンパク質を合成します。これを害虫が葉と一緒に食べると、害虫の消化管内で消化酵素の働きが阻害され、タンパク質を栄養として吸収できなくなります。その結果、害虫は栄養失調に陥り、成長が遅れたり、死滅したりします。また、アルカロイドやフェノール類などの毒性物質や忌避物質の生成も促進され、害虫にとって「居心地の悪い」環境を作り出します 。
参考)植物の誘導抵抗性の解明
自らの手で撃退するのではなく、害虫の天敵(ボディーガード)を呼び寄せる高度な戦略です。ジャスモン酸経路が活性化すると、植物特有の揮発性有機化合物(VOCs:緑の香り成分など)の組成が変化します。この香りの変化は、「ここにエサ(害虫)がいるぞ」というシグナルとして、寄生蜂や捕食性ダニなどの天敵を誘引します。例えば、トウモロコシがヨトウムシに食害された際に出す匂いに誘われて、寄生蜂が飛来し、ヨトウムシに卵を産み付けるといった現象が知られています 。
さらに、植物の防御システムには「全身獲得抵抗性(SAR)」や「誘導全身抵抗性(ISR)」といった、全身に防御効果が波及する仕組みがありますが、ジャスモン酸は特にISRにおいて重要な役割を果たします。一度葉の一部でジャスモン酸が生成されると、そのシグナルは維管束を通って植物全体に行き渡り、まだ食べられていない新しい葉や根においても防御レベルを引き上げます。これにより、害虫が移動してきても、すでに待ち構えている防御物質によって食害を最小限に抑えることができるのです 。
参考)トリコデルマ菌の果樹栽培利用「全身獲得抵抗性(ISR)」とは…
この防御システムの活性化は、エネルギーコストを伴います。防御物質を作るために多くの栄養とエネルギーを使うため、過剰な防御反応は植物の成長を停滞させる原因にもなります。これを「成長と防御のトレードオフ」と呼びます。農業現場においては、このバランスをどう取るかが、収量と病害虫管理の両立における最大の課題となります。ジャスモン酸が働くタイミングを見極め、必要な時にだけ強く作用させることが、スマートな栽培管理への第一歩と言えるでしょう。
参考リンク:植物の誘導抵抗性と食害性害虫への防御メカニズム(高知大学)
ジャスモン酸が誘導する抵抗性は、すべての害虫に対して一様に効果があるわけではありません。植物は、襲ってくる敵のタイプに応じて、防御のスイッチを使い分けています。特にジャスモン酸が威力を発揮するのは、葉をバリバリとかじる「咀嚼性(そしゃくせい)害虫」に対する抵抗性です。
主なターゲットとなる害虫と、その抵抗メカニズムの詳細は以下の通りです。
ヨトウムシ、アオムシ、オオタバコガなどの幼虫は、植物組織を大きく破壊します。これに対し、ジャスモン酸は前述の消化酵素阻害剤の生産を強力に誘導します。さらに、葉の表面にある「トライコーム(毛状突起)」の密度を高めたり、硬化させたりすることで、物理的に食べにくくする変化も促します。研究によると、ジャスモン酸処理をした植物の葉を食べた幼虫は、未処理の葉を食べた幼虫に比べて体重増加率が著しく低下することが報告されています 。
アザミウマは細胞の中身を吸う微小害虫ですが、ジャスモン酸経路が防御の主役となります。ジャスモン酸の働きにより、アザミウマに対する忌避成分が合成され、密度低下や食害痕の減少が見られます。また、アザミウマが媒介するウイルス病(TSWVなど)の感染拡大を抑える効果も間接的に期待できます。これは、アザミウマがその植物を「不味い」と感じて、吸汁時間を短くしたり、他の植物へ移動しようとしたりするためです 。
地上部だけでなく、地下部の害虫に対してもジャスモン酸は機能します。根がセンチュウの侵入を受けると、ジャスモン酸合成が促進され、根の組織内で防御物質が作られます。これにより、センチュウの侵入率が低下したり、根の中での発育が阻害されたりします 。
ここで重要な概念が「プライミング(Priming)」です。これは、ジャスモン酸が常に高濃度で出続けている状態ではなく、「微量のシグナルで警戒レベルだけ上げておく」状態を指します。完全に防御物質を作り切る手前で待機し、実際に害虫が噛みついた瞬間に、爆発的な速さで防御反応を起動させるのです。
農業資材としてジャスモン酸類縁体を利用する場合、このプライミング効果を狙うのが理想的です。常に全力で防御させると作物の成長が止まってしまいますが、プライミング状態であれば成長へのペナルティは最小限で済みます。実際に市販されているジャスモン酸系の資材(プロヒドロジャスモンなど)は、この「虫が来る前に植物を警戒モードにする」ことを目的としており、減農薬栽培における予防的なツールとして機能します 。
しかし、すべての害虫に万能ではありません。例えば、アブラムシやコナジラミのような、維管束に口針を刺して静かに師管液を吸う「吸汁性害虫」の一部に対しては、ジャスモン酸の効果が薄い、あるいは逆にサリチル酸経路の方が重要になる場合があります。自分が防除したいターゲットが「かじる虫」なのか「吸う虫」なのかを正しく見極めることが、ジャスモン酸の抵抗性誘導メカニズムを最大限に活かすための条件です。
参考リンク:プロヒドロジャスモンを用いた害虫忌避技術と抵抗性誘導(農研機構)
植物ホルモンの世界において、最も有名かつ重要なライバル関係と言えるのが、「ジャスモン酸」と「サリチル酸」の関係です。これを専門用語で「クロストーク(信号の交信)」、特に相反する作用を「拮抗作用(アンタゴニズム)」と呼びます。農業現場で病害虫防除を考える際、この2つの関係を知らずに資材を混用すると、思わぬ失敗を招く可能性があります 。
参考)ジャスモン酸 - Wikipedia
基本的に、植物は敵の種類によって以下の2つの経路を使い分けています。
| 経路名 | 主な防御対象 | 具体例 |
|---|---|---|
| ジャスモン酸経路 | 咀嚼性害虫殺生性病原菌 | ヨトウムシ、アザミウマボトリチス菌(灰色かび病)、リゾクトニア菌 |
| サリチル酸経路 | 吸汁性害虫(一部)生体栄養性病原菌 | アブラムシうどんこ病菌、ウイルス、多くの細菌病 |
「シーソーの関係」としての拮抗作用
植物がサリチル酸経路を活性化させて病気(うどんこ病など)と戦っている間、ジャスモン酸経路は抑制される傾向にあります。逆に、ジャスモン酸経路がフル稼働してイモムシと戦っている時は、サリチル酸経路が抑え込まれます。これは、植物が限られたエネルギーを効率よく使うための戦略だと考えられています。「二兎を追う者は一兎をも得ず」のことわざ通り、両方の防御システムを同時に最大出力にすることは難しいのです 。
参考)https://bsj.or.jp/jpn/general/bsj-review/BSJ-review_7C_131-141.pdf
農業現場でのジレンマと注意点
この拮抗作用は、実際の栽培管理で以下のような現象として現れることがあります。
うどんこ病を防ぐためにサリチル酸誘導型の抵抗性誘導剤(アシベンゾラルSメチルなど)や同様の作用を持つ資材を頻繁に使用した結果、サリチル酸経路が強化される一方でジャスモン酸経路が抑制され、ヨトウムシなどの食害が増えやすくなる可能性があります 。
逆に、ジャスモン酸系の資材を使って害虫への警戒レベルを上げすぎると、今度は細菌性の病気に対するガードが下がってしまうリスクがあります。
しかし、最近の研究では、この拮抗作用は絶対的なものではなく、濃度やタイミングによっては両立する場合もあることがわかってきています。また、植物の種類によっても反応は異なります。重要なのは、「万能な防御などない」と理解することです。
現在、畑で何が一番の問題になっているか(イモムシなのか、カビなのか、細菌なのか)を優先順位付けし、それに応じたシグナルを植物に送る必要があります。無闇に複数の活力剤や抵抗性誘導剤を混ぜて散布すると、植物体内で「ジャスモン酸」と「サリチル酸」の指令が衝突し、防御システムが混乱してしまう(キャンセリングされる)恐れがあるため、資材の選定には注意が必要です 。
参考)病障害抵抗性のシグナル物質,サリチル酸とジャスモン酸の拮抗作…
さらに、実際の自然界では、害虫側がこの仕組みを悪用することすらあります。ある種の害虫は、植物にサリチル酸に似た物質を注入したり、サリチル酸経路を刺激したりすることで、自分にとって脅威となるジャスモン酸経路を強制的にシャットダウンさせ、悠々と食事をするという狡猾な戦略をとっていることも報告されています。植物と害虫・病原菌との戦いは、単なる力技ではなく、こうした高度な情報戦の上に成り立っています。
参考リンク:病虫害抵抗性シグナルにおけるサリチル酸とジャスモン酸の拮抗作用(J-STAGE)
ジャスモン酸の強力な生理作用は、すでに実際の農業資材として製品化され、多くの現場で利用されています。ここでは、ジャスモン酸類縁体(主にプロヒドロジャスモン:PDJ)を含む資材がもたらす具体的な効果と、使用上のメリットについて解説します。
1. 難防除害虫への忌避・摂食阻害効果
現在、最も普及している用途の一つが、アザミウマ類やハダニ類に対する防除です。これらは薬剤抵抗性を持ちやすく、従来の化学殺虫剤が効きにくい問題がありました。ジャスモン酸資材は、虫を「殺す」のではなく、植物の防御力を上げて虫が「住みにくい」環境を作るため、薬剤抵抗性の問題が生じにくいという大きな利点があります。
実際に、トマトやイチゴ、ネギなどの栽培において、定植後や発生初期に定期的に散布することで、アザミウマの密度を低く抑えるIPM(総合的病害虫・雑草管理)の核となる資材として評価されています。また、天敵昆虫への悪影響が少ないため、天敵農法との相性が抜群に良いのも特徴です 。
2. 果実の着色促進と成熟
ジャスモン酸には、老化ホルモンであるエチレンの生成を促進したり、色素(アントシアニンなど)の合成に関わる遺伝子を活性化させたりする働きがあります。これを応用して、ブドウやリンゴ、赤色系柑橘類の着色促進剤として利用されています。
近年、温暖化の影響で秋の気温が下がらず、果実の色づきが悪くなる(着色不良)事例が増えていますが、ジャスモン酸資材を収穫前に処理することで、鮮やかな色づきをサポートし、商品価値を高めることができます。これは「防御」とは別の、ジャスモン酸の「成熟・老化促進」作用を逆手に取った賢い利用法と言えます 。
参考)https://www.shingi.jst.go.jp/pdf/2019/2019_tus_05.pdf
3. 環境ストレス耐性の向上(乾燥・塩害)
最近の研究や現場試験で注目されているのが、乾燥ストレスや塩害に対する耐性向上効果です。ジャスモン酸は、気孔の閉鎖を促して水分の蒸散を抑えたり、浸透圧調整物質の蓄積を促したりすることで、水不足や土壌の高塩分濃度といった過酷な環境でも植物が枯れにくくなるようサポートします。
異常気象による干ばつや、施設栽培での塩類集積に悩む圃場において、ジャスモン酸資材や、ジャスモン酸経路を刺激する「酢酸」などの資材が、植物のサバイバル能力を底上げするツールとして期待されています 。
参考)植物のストレス耐性を高める(塩害、塩類障害、乾燥)
使用上の注意点
ジャスモン酸資材は非常に効果的ですが、「濃度」と「タイミング」が命です。
ジャスモン酸資材は、単なる農薬の代わりではなく、植物の生理機能を操る「コックピットのスイッチ」のような存在です。その特性を理解して使いこなせば、減農薬、品質向上、環境耐性強化という、現代農業が抱える複数の課題を同時に解決する強力な武器となるでしょう。
参考リンク:高温・乾燥耐性の向上とジャスモン酸シグナルの活用(サンビオティック)
最後のセクションでは、あまり一般的には語られない、しかし農業の未来にとって極めて重要な「土の中」でのジャスモン酸の役割について解説します。それは、植物の根と、土壌中の微生物(根圏微生物)とのコミュニケーションツールとしての働きです。
植物の根の周りには、無数のバクテリアや糸状菌が生息しており、その中には植物の成長を助ける「PGPR(植物生育促進根圏細菌)」や「トリコデルマ菌」、「菌根菌」などの有用微生物が含まれています。これらの微生物が根に定着すると、植物はそれを感知し、全身の防御レベルを一段階引き上げる反応を示します。これを「誘導全身抵抗性(ISR: Induced Systemic Resistance)」と呼びます 。
ここで興味深いのは、病原菌が葉を攻撃した際の防御(SAR)が主にサリチル酸経路を使うのに対し、この有用微生物によって引き起こされるISRは、主に「ジャスモン酸経路」と「エチレン経路」に依存しているという点です。
つまり、根っこに良い菌が住み着くと、その刺激がジャスモン酸シグナルを通じて地上部の葉へと伝わり、「まだ敵は来ていないが、根元に友人が来たから、念のため警戒態勢を整えておこう(プライミング)」という状態になるのです。これにより、土壌微生物の力を借りて、地上部のヨトウムシやアザミウマに対する抵抗性を高めることが可能になります 。
参考)Arie's Plant Pathogen Class In…
独自の視点:土作りとジャスモン酸の密接な関係
「良い土を作れば虫がつかない」と経験豊富な農家が口にすることがありますが、これは科学的にも一理あります。
有機物を豊富に含み、多様な有用微生物が活性化している土壌では、植物の根が常に微生物からの穏やかな刺激(ジャスモン酸シグナルの前駆的な刺激)を受け続けています。これにより、植物は常に「軽めの防御モード(プライミング状態)」を維持できている可能性があります。
逆に、消毒ばかりで微生物がいない「死んだ土」や、化学肥料だけで育てた植物は、この根からのジャスモン酸シグナルのバックアップがないため、害虫が飛来した時の初動反応が遅れ、被害が拡大しやすいという仮説が成り立ちます。
この視点に立つと、ジャスモン酸の働きを活用するためには、単にジャスモン酸資材を葉にかけるだけでなく、「土壌微生物相を豊かにすること」が、巡り巡って植物のジャスモン酸経路を健全に保つことにつながると言えます。
トリコデルマ菌などの微生物資材を土壌に投入することは、根の病気を防ぐだけでなく、ジャスモン酸ネットワークを通じて地上部の葉を害虫から守るバリアを張ることと同義なのです。植物と微生物は、ジャスモン酸という共通言語を使って、地下と地上をつなぐ壮大な防衛ネットワークを築いています。
参考リンク:根圏微生物とジャスモン酸経路による全身抵抗性の相互作用(東京農工大学)