大人の自閉スペクトラム症(ASD)において、最も顕著に表れやすく、かつ離職の原因となりやすいのが職場での対人関係やコミュニケーションのトラブルです。一般的なオフィスワークやサービス業では、「報告・連絡・相談(ホウレンソウ)」や、その場の空気を読んだ臨機応変な対応が求められますが、ASDの特性を持つ方にとって、これらは非常にハードルの高いタスクとなることがあります。
具体的には、言葉を文字通りに受け取ってしまい、上司の「適当にやっておいて」という曖昧な指示に混乱したり、逆に「もう少し丁寧に」と言われた際に過剰なほど時間をかけてしまったりするケースが見られます。また、雑談や休憩時間の何気ない会話に入ることができず、チーム内で孤立感を深めてしまうことも少なくありません。これらは本人の努力不足ではなく、脳の機能的な特性によるものですが、周囲の理解が得られない場合、「協調性がない」「やる気がない」と誤解され、自尊心を傷つけられる結果につながります。
農業の現場、特に家族経営や少人数の農園、あるいは障害者雇用に理解のある「農福連携」の現場では、こうしたコミュニケーションの負担が軽減される傾向にあります。作業の内容が明確であり、植物や土という「物言わぬ相手」に向き合う時間が長いため、複雑な対人折衝よりも、目の前の作業を誠実に遂行することが評価されるからです。もちろん、最低限の報告や連携は必要ですが、曖昧な社交辞令よりも実直な作業報告が重視される環境は、ASDの方にとって精神的な安定につながりやすいと言えます。
参考リンク:厚生労働省 - 発達障害者の特性と就労支援における配慮事項(コミュニケーションの特性について詳述されています)
「こだわり」の強さは、ASDの代表的な特徴の一つです。これは、特定の手順やルール、配置などに強い執着を持ち、それが崩されることを極端に嫌う性質を指します。一般的な職場では、急な仕様変更やスケジュールの差し替えが頻繁に発生するため、この特性が「融通が利かない」「扱いづらい」というマイナス評価に直結しがちです。予定外の会議が入ったり、デスクの配置換えがあったりするだけで、パニックに近いストレスを感じてしまい、業務に手がつかなくなることもあります。
しかし、この「こだわり」は「厳格なルール遵守」や「妥協のない品質管理」という裏返しでもあります。農業の分野においては、この特性が強力な武器になる場面が多々あります。例えば、種の選別、苗の定植間隔、肥料の計量、収穫時の規格選別など、農業には「決められた通りに、正確に繰り返す」ことが求められる工程が無数に存在します。一般的な人が「これくらいでいいだろう」と手を抜いてしまうような単純作業や緻密な作業でも、ASDの方はマニュアル通り、あるいは自分の中で決めた高い基準通りに黙々と遂行できる才能を持っています。
ただし、農業にも「天候による急な予定変更」というリスクがあります。雨で作業が中止になったり、台風でスケジュールが大幅に狂ったりすることは避けられません。ここで重要になるのが、環境調整です。「雨の日は倉庫での選別作業を行う」といった代替案(プランB)をあらかじめ明確にルール化しておくことで、予期せぬ事態への不安を軽減できます。見通しさえ立っていれば、ASDの方の「こだわり」は、作物の品質を支える大きな力となり得るのです。
参考リンク:農林水産省 - 農福連携における障害特性に応じた作業切り出しの事例(こだわりの活かし方が記載されています)
自閉スペクトラム症の方の多くが抱える悩みに、「感覚過敏」や「感覚鈍麻」があります。聴覚、視覚、触覚、嗅覚などが過敏で、蛍光灯のちらつき、オフィスの電話の音、話し声のざわめき、化学繊維の肌触りなどが耐え難い苦痛となることがあります。逆に、暑さや寒さ、疲労を感じにくい鈍麻の傾向がある場合は、知らず知らずのうちに体調を崩してしまうリスクもあります。
近代的なオフィスは、一見快適に見えても、人工的な照明や空調の音、多くの人の気配など、感覚過敏のある方にとっては刺激の洪水のような場所です。一方、農業の現場は自然環境が主であり、オフィスの閉塞感とは異なる環境です。もちろん、トラクターの騒音や泥の感触が苦手な方もいますが、選択する品目や作業によっては、驚くほど適性が高い場合があります。
例えば、「菌床シイタケ栽培」や「水耕栽培」の施設は、ASDの方にとって非常に親和性が高い職場として注目されています。
このように、自分の感覚特性に合った農業分野を選ぶことで、過敏性による消耗を抑え、本来の能力を発揮することが可能になります。
参考リンク:障がい者としいたけ栽培の相性が良い理由(感覚過敏への配慮と環境の適合性について)
大人になってから自閉スペクトラム症の診断を受けた方の多くは、「なぜ自分はみんなと同じように働けないのか」という長年の自己否定感に苦しんでいます。診断は、その苦しみの正体が「努力不足」ではなく「脳の特性」であることを明らかにする第一歩ですが、同時に「では、どうすれば生きていけるのか」という新たな問いに直面することでもあります。
ここで、既存のキャリアの延長線上ではなく、全く異なる「農業」という選択肢に目を向ける方が増えています。なぜなら、農業にはASDの特性を補完し、ポジティブなフィードバックを与える要素が含まれているからです。その一つが「成果の可視化」です。
抽象的な事務作業や、成果が見えにくいサービス業と異なり、農業は「種を撒けば芽が出る」「世話をすれば実がなる」という、極めて具体的で視覚的な因果関係に基づいています。ASDの方は、曖昧な評価よりも明確な結果を好む傾向があります。「昨日よりこれだけ大きくなった」「今日はこれだけの収穫量を達成した」という目に見える成果は、報酬系の脳内物質(ドーパミンなど)の分泌を促し、日々のモチベーション維持に大きく寄与します。
また、果樹の「剪定(せんてい)」作業などは、非常に高い適性を示す分野です。どの枝を切り、どの枝を残すかという判断には論理的なルールがあり、一度その法則を習得すると、ASDの方はパズルの最適解を導き出すような集中力で、驚くべきスピードと精度で作業を行うことがあります。診断を受けて自分の「取扱説明書」を手に入れたからこそ、無理に苦手に合わせるのではなく、自分の特性が「才能」として機能する場所として、農業を再発見することができるのです。
農業というと「自然相手の不確実な仕事」というイメージがあるかもしれませんが、実際の現場作業の8割以上は、徹底した「ルーティンワーク」の積み重ねです。水やり、除草、誘引、収穫、箱詰め。これらは毎日決まった時間に、決まった手順で行うことが作物の品質安定には不可欠です。
この「変わらない日常」は、変化を嫌い、予測可能性を好むASDの方にとって、非常に居心地の良いリズムとなります。
この一連の流れがパターン化されることで、脳のメモリを「次はどうしよう」「誰に聞こう」といった不安に割く必要がなくなり、作業そのものへの深い集中(ゾーン状態)に入りやすくなります。一般的な人が「退屈」と感じてしまうような数千個の苗ポットへの土入れ作業でも、ASDの方は苦痛を感じるどころか、瞑想に近い心地よさを感じ、正確無比な動作を継続できることがあります。
さらに、農業における「成果」は嘘をつきません。人間関係の機微や社内政治で評価が決まるのではなく、手をかけた分だけ作物は正直に応えてくれます。この公平性が、社会生活で理不尽な思いをしてきた大人のASDの方にとって、大きな癒やしと自己効力感(「自分ならできる」という感覚)の回復をもたらしてくれるのです。自分の「ルーティンを守る力」が、美味しい野菜という形になって誰かに届く。その実感こそが、長く働き続けるための原動力となります。
参考リンク:Kaien - 発達障害と農業(ルーティンワークへの適性と実際の就労事例)