農業経営において法人化を検討する最大の動機は、多くの場合「税金」にあります。個人事業主として農業を営む場合、所得税は「累進課税」制度が適用されるため、所得が増えれば増えるほど税率が高くなり、最大で45%(住民税を合わせると約55%)もの税金が課されることになります。これに対し、法人化した場合に適用される「法人税」は、所得の額にかかわらず税率がほぼ一定(中小法人の場合、年800万円以下の部分は約15%、それを超える部分は約23.2%)であるため、一定以上の利益が出ている農家にとっては劇的な節税効果が期待できます。
また、法人化することで、経営者自身に役員報酬を支払うことが可能になります。これにより、経営者個人の所得は「給与所得」として扱われるため、「給与所得控除」という経費枠を活用することができ、実質的な課税所得を圧縮することが可能です。さらに、家族を役員や従業員にすることで所得を分散させ、世帯全体での税負担を軽減するというテクニックも、法人ならではのメリットと言えるでしょう。
意外と知られていないのが「欠損金の繰越控除」の期間の違いです。個人事業主の青色申告では赤字を3年間しか繰り越せませんが、法人の場合はこれが最長10年間に延長されます。天候不順や自然災害リスクが高い農業において、赤字を長期にわたって黒字と相殺できるこの制度は、経営の安定化に極めて大きな役割を果たします。
法人税の税率構造については国税庁の公式情報を確認することで、より正確なシミュレーションが可能です。
No.5759 法人税の税率|国税庁
法人化には輝かしいメリットがある一方で、多くの農家が頭を抱える重いデメリットが存在します。その筆頭が「社会保険」の強制加入です。個人事業の農家であれば、従業員が5人未満であれば社会保険(健康保険・厚生年金)への加入は任意ですが、法人化すると、たとえ社長一人の会社であっても、原則として社会保険への加入が義務付けられます。
この社会保険料は、給与額の約30%(労使折半)という非常に高い料率で設定されています。つまり、法人化して従業員や自分自身に給与を支払うと、その約15%を会社(農園)が負担し、残りの約15%を個人が負担することになります。これは単なる税金以上に重い固定費となり、利益が出ていない赤字の年であっても支払わなければならないため、キャッシュフローを圧迫する最大の要因となり得ます。特に、多くのパートタイム従業員を雇用している労働集約型の農業経営では、このコスト増が経営の存続を揺るがすレベルになることも珍しくありません。
さらに、事務作業の負担も激増します。社会保険の手続きだけでなく、法人税の申告書作成は個人の確定申告とは比較にならないほど複雑です。そのため、税理士への依頼がほぼ必須となり、年間数十万円から百万円規模の顧問料という新たな「固定費」が発生することも、見逃せないデメリットの一つです。
農業法人の社会保険加入義務に関する詳細なルールは、農林水産省のガイドラインで確認できます。
農業法人の社会保険加入について:農林水産省
「法人化」と一口に言っても、農業にはいくつかの選択肢があり、その選び方を間違えると農地を取得できないという致命的な事態に陥ります。農業法人の形態は大きく分けて「会社法人(株式会社、合同会社など)」と「農事組合法人」の2種類があります。株式会社は迅速な意思決定や幅広い資金調達に向いていますが、農事組合法人は集落営農など、組合員(農家)同士の共同利益を追求するのに適しています。
最も重要なのが、農地を所有・借入して農業を行うための「農地所有適格法人」という要件です。単に会社を作っただけでは、農地法上の規制により農地を取得することができません。農地所有適格法人として認められるためには、以下の4つの厳格な要件(1.法人形態要件、2.事業要件、3.議決権要件、4.役員要件)をすべて満たす必要があります。
特に注意が必要なのが「構成員要件(議決権要件)」と「役員要件」です。原則として、議決権の過半数は農業関係者(農地の権利提供者や常時従事者)が持つ必要があり、全く関係のない外部資本が経営権を握ることは制限されています。また、役員の過半数が農業に常時従事していること、さらにその過半数が農作業に従事していること(原則年間60日以上)が求められます。これらの条件は、農業が投機の対象になることを防ぐための防波堤ですが、同時に、異業種参入や自由な経営拡大を目指す際のハードルともなっています。
農地所有適格法人の要件や判断基準については、農林水産省のパンフレットが非常に分かりやすくまとまっています。
農業法人について(農地所有適格法人の要件等):農林水産省
法人化すれば全てが上手くいくわけではなく、むしろ法人化したことによって経営破綻に追い込まれる「失敗事例」も後を絶ちません。典型的な失敗パターンの一つが、「消費税の課税事業者」になることによる資金繰りの悪化です。資本金1,000万円未満で設立すれば、設立後最大2年間は消費税の免税事業者になれるというメリットがありますが、3年目以降(あるいはインボイス制度の影響下)では消費税の納税義務が発生します。農業は仕入れ(種や肥料)にかかる消費税よりも、売上にかかる消費税の方が大きくなりやすいため、想定外の納税額に驚愕し、資金ショートするケースが見られます。
また、「人間関係のトラブル」も法人化の失敗の大きな要因です。特に、親子や兄弟で役員になった場合、経営方針の対立が深刻化しやすい傾向にあります。個人事業時代は「なあなあ」で済んでいた金銭感覚や労働時間の違いが、法人という明確な組織になることで表面化し、「誰が社長をやるか」「誰の給料が高いか」といった権力争いに発展することがあります。最悪の場合、農園が空中分解し、離農につながる悲劇も起きています。
さらに、経理処理の厳格化についていけず、ドンブリ勘定のまま法人経営を続けた結果、金融機関からの信用を失うケースもあります。法人の資金と個人の財布を混同し、会社のお金を私的に流用することは「役員貸付金」とみなされ、銀行融資の審査で極めて厳しくマイナス評価されます。法人化は「公私混同」との決別を意味することを理解していないと、大きな落とし穴にはまることになります。
法人化の失敗を避けるための診断やサポート情報は、全国農業会議所のサイトが参考になります。
一般社団法人 全国農業会議所
多くの農業メディアやコンサルタントは「法人化の始め方」やメリットについては熱心に語りますが、「法人化の辞め方(出口戦略)」について語られることはほとんどありません。しかし、こここそが最も注意すべき盲点です。実は、法人化すると「廃業」のハードルが個人事業とは比べ物にならないほど高くなります。
個人事業主であれば、廃業届を税務署に提出するだけで比較的簡単に事業を畳むことができます。しかし、法人の場合、解散登記を行い、清算人を専任し、官報に解散公告を出し、債権者への通知期間(最低2ヶ月)を経て、最後に清算結了登記を行うという、極めて煩雑で時間のかかる法的プロセスを踏まなければなりません。この手続きだけで、司法書士報酬や登録免許税などを含め、最低でも30万円〜50万円以上のコストがかかります。経営が苦しくて辞めたいのに、辞めるためにさらにお金がかかるという「地獄」が待っています。
また、農地を所有している法人が解散する場合、その農地を誰が引き継ぐのかという問題も発生します。法人が消滅すれば農地は宙に浮いてしまうため、解散前に農地の受け皿(買い手や借り手)を見つけ、農業委員会の許可を得て権利移転を完了させておく必要があります。もし受け皿が見つからなければ、法人は解散したくても解散できない「ゾンビ法人」として存続せざるを得ず、毎年均等割の住民税(赤字でも約7万円)を払い続けなければならないリスクもあります。
「法人化は結婚と同じくらい、別れるのが大変」。この事実を深く理解せず、安易な節税目的だけで法人化に踏み切ることは、将来の自分や後継者に莫大な負の遺産を残すことになりかねません。
法人の解散・清算手続きの流れについては、法務局の案内を確認することで全体像を把握できます。
商業・法人登記の申請書様式:法務局