牛海綿状脳症(BSE)、通称「狂牛病」と呼ばれるこの病気は、牛だけの問題ではありません。私たち人間にも深刻な影響を及ぼす可能性がある人獣共通感染症の一つとして、歴史的に大きな注目を集めてきました。特に農業や畜産業に携わる方々にとって、この病気のメカニズムと人間への感染リスクを正しく理解することは、風評被害の防止や自身の安全管理において極めて重要です。
BSEが人間に感染した際に発症するとされるのが、「変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD)」です。通常のクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)とは異なり、BSEに感染した牛の特定部位(特定危険部位)を摂取することで、原因物質である「異常プリオンタンパク質」が体内に取り込まれ、長い潜伏期間を経て発症すると考えられています。
この病気の恐ろしい点は、ウイルスや細菌ではなく、タンパク質そのものが感染源となることです。異常化したプリオンは熱や消毒薬に対して非常に強い抵抗力を持ち、通常の調理や加工処理では無毒化することが困難です。そのため、感染源を「入れない」「広げない」という厳格な管理が求められてきました。
ここでは、BSEと人間の症状の関連性について、基礎的なメカニズムから具体的な症状の現れ方までを詳細に解説していきます。
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厚生労働省:牛海綿状脳症(BSE)について
変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD)の最大の特徴は、発病初期において精神的な症状が顕著に現れる点です。これは、従来型のCJDが高齢者に多く、認知症のような症状から始まるのに対し、vCJDは比較的若い世代(10代〜30代)での発症例が多く報告されており、その進行パターンも異なります。
初期症状として報告されている主な精神症状は以下の通りです。
これらの症状は、精神科領域の疾患と非常に似通っているため、初期段階で「BSE由来の病気である」と診断することは極めて困難です。英国での発生事例においても、最初は精神科医を受診し、治療を受けていた患者が少なくありませんでした。
さらに、感覚障害も初期に見られる重要なサインです。皮膚に何かが這っているような感覚や、持続する痛み、顔や手足のしびれなどを訴える患者もいます。これらは異常プリオンが中枢神経系に影響を与え始めている証拠ですが、一般的な神経痛やストレス性の症状としても片付けられやすく、発見の遅れにつながる要因となっています。
農業従事者として注意すべきは、もし身近な人や自身に原因不明の精神的な不調や感覚異常が長く続く場合、専門医への相談が必要であるという知識を持っておくことです。もちろん、現在の日本において国産牛肉からの感染リスクは限りなくゼロに近いとされていますが、過去の渡航歴(特に1980年代〜90年代の英国滞在など)がある場合は、医師にその情報を伝えることが診断の助けになることがあります。
国立感染症研究所による変異型クロイツフェルト・ヤコブ病の詳しい臨床症状はこちら
国立感染症研究所:変異型クロイツフェルト・ヤコブ病とは
初期の精神症状が数ヶ月続いた後、病状は次のステージへと進行します。ここで顕著になるのが、運動機能に関する障害です。脳の海綿状変化(スポンジ状の空洞ができること)が小脳や大脳基底核といった運動制御に関わる部位に及ぶことで、身体のコントロールが効かなくなっていきます。
具体的な進行期の症状には以下のようなものがあります。
この段階になると、日常生活を自力で送ることが極めて困難になります。vCJDの進行は、発症から平均して13〜14ヶ月で死亡に至るとされており、孤発性のCJD(平均4〜5ヶ月)と比較すると経過は緩やかですが、着実に神経機能が失われていきます。
特筆すべきは、末期になると「無動性無言」という状態に陥ることです。意識はある程度保たれている可能性があるものの、自発的な言葉が出ず、体も動かせない状態となります。周囲の刺激に対して反応が乏しくなり、最終的には寝たきりの状態となります。
この進行過程において、患者本人だけでなく介護をする家族の負担も計り知れません。現代医学においても、破壊された脳細胞を元に戻す根本的な治療法は確立されておらず、対症療法(症状を緩和する治療)が中心となります。そのため、予防措置としての「特定危険部位の除去」がいかに重要であったかが、逆説的に理解できるでしょう。
難病情報センターによるプリオン病の病態と治療の現状についてはこちら
難病情報センター:プリオン病(指定難病23)
BSE由来の変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD)を語る上で、最も不気味で厄介な要素が「長い潜伏期間」です。異常プリオンを摂取してから発症するまでの期間は、一般的に10年程度、長い場合では20年以上にも及ぶと考えられています。
なぜこれほどの時間がかかるのでしょうか。その理由は、プリオンの増殖メカニズムにあります。
この「リンパ組織での潜伏」が長期間続くため、感染していても無症状の期間が長く、その間に献血などをしてしまうと、輸血による二次感染のリスクが生じます。実際、英国では輸血による感染例も報告されています。日本でも、英国滞在歴がある人の献血を制限しているのはこのためです。
現在における感染リスクについてですが、以下の理由から「極めて低い」と評価されています。
農業従事者として理解しておくべきは、「過去のリスク」と「現在の安全性」を区別することです。かつてのリスクは確かに存在しましたが、徹底的な対策により、現在の牛肉は安全です。しかし、輸入飼料や海外の発生状況など、常にアンテナを張っておく必要はあります。
食品安全委員会によるBSE対策の評価結果はこちら
食品安全委員会:BSE(牛海綿状脳症)に関する情報
BSEと人間への感染に関しては、科学的に解明されていない「意外な謎」がまだ多く残されています。ここでは、一般のニュースではあまり報じられない、独自視点の専門的な未解明領域について解説します。
遺伝子タイプによる「なりやすさ」の違い
人間にはプリオンタンパク質の遺伝子(コドン129)に多型(タイプ違い)があります。「MM型」「MV型」「VV型」の3種類が存在しますが、これまで発症したvCJD患者のほぼ全てが「MM型」でした。
これは、「MM型の人はBSEに対して感受性が高い(感染しやすい)」ことを示唆しています。一方で、日本人を含むアジア人は「MM型」の比率が欧米人に比べて非常に高い(90%以上)というデータがあります。つまり、理論上は日本人はBSEプリオンに対して脆弱である可能性があります。それにも関わらず、日本でのvCJD発生数が極めて少ないのはなぜか?これは未だに完全には説明がついていない「パラドックス」です。食習慣の違いなのか、それとも別の防御因子があるのか、研究が続いています。
「無症候性キャリア」の存在
英国で行われた虫垂(盲腸)の切除検体を調査した研究では、数万人に一人の割合で異常プリオンが蓄積されている人が存在する可能性が示唆されました。これらの人々は発症はしていませんが、体内に病原体を持っています。彼らが将来発症するのか、それとも一生発症せずに終わるのかは分かっていません。もし発症せずにキャリアとして存在し続けるならば、外科手術や輸血を通じた「見えない感染拡大」のリスク管理が、将来にわたって必要になることを意味します。
種を超えやすくなる「適応」
通常、種が異なる動物(牛から人、羊から牛など)へは感染しにくいという「種の壁」が存在します。しかし、一度壁を乗り越えたプリオンは、その新しい宿主(例:人間)に適応し、次に人から人へ感染する際は、より強力な感染力を持つようになる可能性があります。これを「順化」と呼びます。BSE由来のプリオンが人間社会の中でどのように変化しうるのか、長期的な監視が必要です。
これらの未解明な要素は、現在の安全対策を緩めてはいけない理由の根拠となっています。科学は万能ではなく、まだ私たちが知らない「プリオンの振る舞い」があるかもしれないという謙虚な姿勢が、食の安全を守る上では不可欠なのです。
厚生労働省研究班によるプリオン病のサーベイランスと自然歴に関する研究
プリオン病のサーベイランスと感染予防に関する調査研究班