農業施設において、灌漑用ポンプやハウスの自動制御システム、選果場のラインなど、安定した電力供給は事業継続の要です。これらの設備に電気を供給する心臓部ともいえるのが「変圧器(トランス)」ですが、この変圧器がまるで生き物のように「呼吸」をしていることをご存じでしょうか。
この「呼吸作用」は、変圧器の寿命や信頼性に直結する重要な物理現象です。特に、湿度が高く温度変化の激しい環境に設置されることが多い農業用電気設備においては、この現象を正しく理解し、適切な管理を行わないと、予期せぬ停電や高額な設備更新費用が発生するリスクがあります。本記事では、変圧器の呼吸作用のメカニズムから、それが引き起こす絶縁油の劣化、そして現場で確認すべき点検ポイントについて、専門的な知見を交えて詳細に解説します。
変圧器の内部には、コイル(巻線)と鉄心の絶縁を確保し、同時に発生する熱を冷却するために「絶縁油」と呼ばれる油が充填されています。この絶縁油は、温度変化によって体積が大きく変化するという性質を持っています。
変圧器が通電され負荷がかかると、銅損や鉄損によって熱が発生し、油温が上昇します。また、昼夜の外気温の変化によっても油温は変動します。物質は温められると膨張し、冷やされると収縮しますが、変圧器内の絶縁油も同様に、日中の稼働時や夏場には体積が増え、夜間の停止時や冬場には体積が減ります。
日本電気技術者協会による絶縁油の管理と劣化過程の解説
この体積変化によって、変圧器のタンク内の圧力が変動します。密閉されていない開放型の変圧器や、特定の構造を持つ変圧器では、油の体積が増えた分だけ内部の空気が外に押し出され、逆に油が冷えて収縮すると、その分だけ外気が内部に吸い込まれます。あたかも変圧器が空気を吸ったり吐いたりしているように見えることから、この現象を専門用語で「呼吸作用(Breathing)」と呼びます。
農業現場では、例えば夏場の灌漑時期にポンプ用変圧器がフル稼働して油温が急上昇し、夕方に停止すると急激に冷えるといったサイクルが繰り返されます。この激しい温度差は、非常に大きな呼吸作用を生み出します。呼吸のたびに新しい外気が内部に取り込まれるということは、単に空気が入れ替わるだけでなく、外気に含まれる「招かれざる客」を招き入れることになります。
呼吸作用によって外部から取り込まれる空気には、酸素とともに「水分(湿気)」が含まれています。変圧器にとって、この水分は大敵です。絶縁油は極めて高い電気絶縁性(電気を通さない性質)を持っていますが、わずかな水分が混入するだけで、その性能は劇的に低下します。
ヴァイサラ社による絶縁油中の水分量と絶縁破壊電圧の関係に関する技術資料
具体的には、絶縁油中の水分量が飽和量の20%を超えると、絶縁破壊電圧(電気が突き抜けてショートしてしまう電圧の限界値)が急激に低下することが知られています。水分を含んだ絶縁油は、本来絶縁すべき電気を漏らしてしまい、最悪の場合、内部短絡や地絡事故といった重大な故障を引き起こします。
さらに、呼吸作用で取り込まれた酸素は、高温の絶縁油と反応して「酸化」を促進します。酸化した油は酸価が高くなり、酸性物質を生成します。これが進行すると、油の中に「スラッジ」と呼ばれる泥状の沈殿物が発生します。このスラッジは以下のような悪循環を引き起こします。
このように、呼吸作用を放置して湿気や酸素を自由に出入りさせることは、変圧器の自殺行為に等しいのです。
呼吸作用による外気の直接的な混入を防ぐために、中型以上の変圧器には「コンサベータ(Conservator)」という装置が取り付けられています。これは変圧器本体の上部に設置された円筒形や箱型のタンクで、別名「予備油槽」とも呼ばれます。
コンサベータの主な役割は以下の通りです。
さらに、外気と接する部分には「吸湿呼吸器(ブリーザ)」が取り付けられています。これは、変圧器が息を吸う(外気を取り込む)際に、通過する空気から水分を取り除くための「マスク」のような役割を果たします。
日立評論による変圧器の保守と呼吸装置に関する技術ノート
吸湿呼吸器の内部には乾燥剤(シリカゲル)が充填されており、外気はこの乾燥剤の層を通過してからコンサベータ内に入ります。これにより、乾燥した空気のみが絶縁油と接触することになり、劣化を大幅に抑制することができます。また、最近のコンサベータには、内部にゴム製の袋(ダイヤフラムやブラダー)を設け、油と空気を完全に隔膜で遮断する「隔膜式コンサベータ」も普及しており、これらは「窒素封入式」とともに、メンテナンスフリー性を高めています。
農業関係者が日常点検で最も注目すべきは、この吸湿呼吸器内のシリカゲルの状態です。シリカゲルは水分を吸着すると化学反応により色が変化するため、目視で簡単に劣化状況を判断できる優れたインジケーターです。
| 状態 | 色 | 判断と対応 |
|---|---|---|
| 正常 | 青色 (Blue) | 十分な吸湿能力があります。問題ありません。 |
| 注意 | 薄い紫色 | 吸湿が進んでいます。次回の点検時まで注意深く観察してください。 |
| 劣化 | ピンク色 (Pink) | 吸湿能力を喪失しています。直ちに交換が必要です。 |
| 異常 | 白色・透明 | 長期間放置され、完全に機能を失っています。内部への水分混入が疑われます。 |
| ※環境対応型の塩化コバルトフリーシリカゲルの場合、橙色(正常)→緑色/無色(劣化)と変化するものもあります。銘板を確認してください。 |
東芝トランスご相談センターによるシリカゲル交換時期のFAQ
点検の際は、以下のポイントを確認してください。
シリカゲルがピンク色になっているのに放置すると、湿った空気がそのまま変圧器内部に入り込みます。これは、雨の日に窓を開け放って精密機器を使っているようなもので、故障のリスクが跳ね上がります。交換用シリカゲルは比較的安価に入手できるため、変色に気づいたら早急に交換作業を依頼するか、資格者の指導の下で交換を行うことが推奨されます。
農業施設特有の事情として、「季節による稼働の偏り」と「過酷な設置環境」が挙げられます。これが、一般的な工場やビルとは異なる独自の劣化リスクを生み出しています。
1. 間欠運転による「深い呼吸」のリスク
水田の揚水ポンプや選果場の機械などは、農繁期にはフル稼働しますが、農閑期には長期間停止します。稼働中は油温が上がり、油は膨張して空気を吐き出します。しかし、長期間停止して完全に冷え切ると、油は最大限に収縮し、大量の外気を吸い込んだ状態で安定します。
冬場の農閑期に停止している間、変圧器は冷え切った状態で湿気を吸い込み続け、その水分が結露して絶縁油の中に滴下する恐れがあります。特に、「久しぶりに動かそうとしたら絶縁不良で壊れていた」というケースは、この停止期間中の吸湿が原因であることが多いのです。
2. ハウスや屋外の多湿環境
ビニールハウスの近くや屋外のポンプ小屋は、作物のために湿度が高く保たれていたり、雨風の影響を受けやすかったりします。一般的な都市部の受変電設備に比べ、吸湿呼吸器のシリカゲルの寿命は圧倒的に短くなります。通常は1年ごとの点検で済む場合でも、農業用設備では半年や数ヶ月でシリカゲルが飽和してしまうことも珍しくありません。
農林水産省による農業水利施設の機能保全の手引き(電気設備)
独自の対策アプローチ
農業関係者におすすめしたい独自視点の対策は、「農閑期前のメンテナンス」です。
多くの農家は、機械を使う直前(春先など)に点検を行いますが、変圧器に関しては「使い終わった直後(秋~冬)」にシリカゲルを確認し、ピンク色なら交換しておくことが重要です。これにより、使用しない冬の間に乾燥した状態を保ち、内部への水分侵入を防ぐことができます。また、屋外設置の場合は、吸湿呼吸器に直射日光や雨が直接当たらないよう、簡易的なカバー(通気性は確保する)を設けるだけでも、温度変化を和らげ呼吸量を減らす効果が期待できます。
変圧器は静かな機械ですが、常に呼吸し、環境と闘っています。その呼吸をきれいな空気に保つことが、安定した農業経営を支える見えない土台となるのです。