私たちの食卓に並ぶ牛肉が、どこで生まれ、誰に育てられ、どのような経路を辿ってきたのか。これらを正確に把握するための基盤となっているのが、独立行政法人家畜改良センターが運用する「牛の個体識別情報検索サービス」です。一般消費者にとっては「パッケージに書かれた番号を入力すれば産地がわかるシステム」として認知されていますが、その裏側では酪農家や肉用牛農家、流通業者による厳格なデータ管理と、法的な義務に基づく膨大な情報の連携が行われています。
このシステムは、BSE(牛海綿状脳症)の発生を契機に導入された「牛トレーサビリティ法」に基づき運用されており、国内で飼養されるすべての牛に10桁の個体識別番号を付与することで、その生涯を一元管理しています。しかし、単に番号をつけるだけではありません。出生からと畜、あるいは死亡に至るまで、牛の移動(異動)が発生するたびに詳細な届出が義務付けられており、そのデータは日々更新されています。
参考)家畜個体識別システムと牛肉のトレーサビリティ|静岡県公式ホー…
本記事では、システムの基本的な使い方から、生産現場で求められる厳格な管理ルール、トラブル時の対処法、そしてデータの信頼性を支える知られざる検証メカニズムまでを深掘りして解説します。
家畜改良センターが提供する個体識別情報の検索システムは、誰でも無料で利用できる強力なツールです。スーパーマーケットで購入した牛肉のパックや、焼肉店で表示されている「個体識別番号(10桁)」を専用サイトに入力することで、その牛の生涯の履歴を瞬時に確認することができます。
参考)https://www.id.nlbc.go.jp
この検索システムで開示される情報は多岐にわたり、消費者が知ることができるのは以下のような基本情報です。
特に「飼養場所の履歴」は重要で、都道府県や市町村レベルでの移動が見えるため、「〇〇牛」といったブランド牛としての要件(特定の地域で最も長く飼育された等)を満たしているかを消費者が自ら検証することも可能です。
参考)https://www.maff.go.jp/j/syouan/tikusui/trace/pdf/beef_trace13_1.pdf
検索システムを利用する際の手順は非常にシンプルですが、表示される情報には専門的な用語も含まれます。例えば「転出」「転入」といった用語は、牛が農場間を移動したことを示し、「と畜」は食肉処理されたことを意味します。また、輸入された牛の場合には、輸入年月日や輸入国も表示される仕組みになっており、国産牛として販売されている肉のルーツが海外にある場合でも、その履歴を遡ることができます。
牛の個体識別情報検索サービス - 家畜改良センター
※こちらのリンクから、実際の個体識別番号を入力して検索を行うことができます。
検索結果に表示されるデータは、各都道府県の農政局や家畜改良センターによって管理されており、万が一データに不審な点がある場合は、詳細な調査が行われる体制が整っています。消費者がこのシステムを利用することは、単なる産地確認だけでなく、生産者に対する信頼の確認プロセスでもあります。システムはPCだけでなくスマートフォンからもアクセス可能で、買い物中にその場で安全性を確認する習慣をつけることも、賢い消費者としての第一歩と言えるでしょう。
個体識別システムが正確に機能するためには、牛を飼育する管理者(農家や牧場)による正確かつ迅速な「届出」が不可欠です。これは任意の協力ではなく、「牛の個体識別のための情報の管理及び伝達に関する特別措置法(牛トレーサビリティ法)」によって定められた法的な義務です。
参考)e-Gov 法令検索
生産者が行わなければならない届出は多岐にわたり、牛のライフイベントごとに厳密な期限が設けられています。主な届出の種類と内容は以下の通りです。
これらの届出には「遅滞なく」という期限の原則がありますが、実務上は非常にタイトなスケジュールで運用されています。特に出生届出については、耳標の装着とセットで行われるため、生まれた直後の作業として農家のルーチンに組み込まれています。
参考)https://liaj.lin.gr.jp/wp-content/uploads/2024/06/2347c14152cdce63b6f33849d7cd24bd.pdf
届出の方法には、以下の4つのルートが用意されています。
近年では、スマートフォンの普及や農場管理アプリとの連携により、Web経由での届出が主流になりつつあります。しかし、高齢の生産者や通信環境の整っていない地域のために、FAXや電話での受付も継続されています。重要なのは「正確性」と「スピード」です。もし届出を怠ったり、虚偽の報告を行ったりした場合は、法的な罰則(罰金等)が科される可能性があるだけでなく、その農場の牛が流通ルートに乗れなくなる(取引停止)という経済的な大打撃を受けることになります。
また、システム上では「矛盾する届出」が入力された場合にエラー(不整合)として検知される仕組みがあります。例えば、「転出」の届出がないまま別の農場から「転入」の届出が出された場合、システムは「前の農場にいるはずの牛が、なぜ別の場所に?」と判断し、警告を発します。このような場合、家畜改良センターから双方の農家に確認の連絡が入り、事実関係の照会が行われます。このクロスチェック機能こそが、トレーサビリティの信頼性を担保する要となっています。
個体識別システムにおける物理的な要となるのが、すべての牛の両耳に装着される黄色いタグ、すなわち「耳標(じひょう)」です。この耳標には10桁の個体識別番号が印字されており、さらにバーコードも記載されているため、機械での読み取りも可能です。
耳標の装着には厳格なルールがあります。
しかし、放牧中の事故や牛同士の接触、あるいは経年劣化によって耳標が脱落することは珍しくありません。片方の耳標が外れただけであれば、残った片方の番号を確認できますが、両方の耳標が外れてしまった場合、その牛が「どの牛なのか」を特定することが極めて困難になります。このような事態を防ぐため、耳標が脱落・紛失した場合には、速やかに「再発行」の手続きを行う必要があります。
耳標再発行のプロセス
耳標の再発行は、単に新しいタグをもらうだけの手続きではありません。不正を防ぐために、厳重な管理下で行われます。
ここで注意が必要なのは、「在庫管理」です。農家にはあらかじめ出生用として未使用の耳標が配布されていますが、これらは「これから生まれる子牛」のためのものであり、脱落した牛の代わりとして勝手に使ってはいけません。もし勝手に別の番号の耳標をつけてしまうと、データベース上の情報と実際の牛が一致しなくなり、重大なコンプライアンス違反となります。
令和6年度の牛個体識別耳標の配付について - 家畜改良事業団
※耳標の配布サイクルや再発行の具体的な期間についてはこちらの資料が参考になります。
また、近年ではICT技術の活用により、カメラ画像から耳標番号をAIで自動認識する技術の研究も進んでいます。これにより、目視での確認作業を減らし、脱落を早期に検知するシステムの開発も期待されていますが、現時点では物理的な耳標と人間の目による管理が基本となっています。耳標は単なるプラスチックのタグではなく、その牛の「身分証明書」そのものなのです。
参考)https://www.mdpi.com/1424-8220/24/7/2194/pdf?version=1711700561
個体識別システムは人間が入力・運用するものである以上、どうしても「入力ミス」や「届出漏れ」といったヒューマンエラーが発生します。また、悪意を持って産地を偽装しようとするケースも理論上は考えられます。家畜改良センターでは、こうしたデータの誤りを正し、信頼性を維持するために高度な修正手続きと科学的な検証システムを導入しています。
データの修正手続き
一度登録されたデータを修正することは、容易ではありません。単純な操作ミスであっても、データの改ざんを防止する観点から、修正には正当な理由と証拠が必要になります。
例えば、出生日の入力を間違えた場合や、母牛の番号を誤って登録してしまった場合、農家は「修正請求書」を提出しなければなりません。
参考)https://www.id.nlbc.go.jp/pdf/201707Manual_for_farmer_4.pdf
DNA型検査による科学的監視
ここが一般にはあまり知られていないポイントですが、家畜改良センターはシステム上のデータが正しいかどうかを監視するために、「DNA型検査」を活用しています。これは、店頭で販売されている牛肉(特に高級なブランド和牛など)をランダムに買い上げ、その肉のDNA型と、データベース上の親牛のDNA型などを照合する調査です。
もし、「黒毛和種」として登録されているのに、DNA検査の結果が「ホルスタイン種」の特徴を示していたり、登録されている「母牛」と親子関係が成立しなかったりした場合、その個体識別番号のデータには誤り(あるいは偽装)があることが科学的に証明されます。このような不一致が発覚した場合、家畜改良センターは生産者や流通業者に対して立入検査や詳細な事情聴取を行い、原因を究明します。
このDNA検査事業は、単なる事後チェックにとどまらず、生産・流通現場に対する強力な抑止力として機能しています。「嘘をついてもDNAでバレる」という緊張感が、トレーサビリティシステムの信頼性を底上げしています。
「原因不明」のトラブルへの対処
稀に、システム上で「届出ができない」「エラーが解消されない」という事態が発生し、農家自身では原因が特定できないことがあります。こうした場合、家畜改良センターには専門のサポート窓口(ヘルプデスク)が設置されており、個別のケースごとにログを解析して対処方法を案内しています。
参考)https://www.id.nlbc.go.jp/pdf/wns_ma_011.pdf
例えば、「再発行請求をしようとしたが、システムが受け付けない」というケースでは、既に別の手続きが進行中であったり、過去のデータ不整合がロックを掛けていたりすることがあります。こうした裏側の地道なトラブルシューティングも、国家レベルのデータベースを維持するためには欠かせない業務となっています。
私たちの手元に届く牛肉のパッケージにある10桁の番号。それは、農家の誠実な届出、厳格な耳標管理、そしてDNAレベルでの科学的検証という、幾重ものチェックを経て担保された「信用の証」なのです。次にスーパーで番号を見かけた際は、ぜひスマートフォンで検索し、その牛が辿ってきた長い旅路とその背後にある緻密な管理システムに思いを馳せてみてください。