農業の現場で「なぜ自分の畑だけ害虫が発生するのか」と悩むことはありませんか?その答えの鍵を握るのが、フランスの農学者フランシス・シャブスーが提唱した「トロフォビオーゼ(Trophobiosis)」理論です。この理論は、「害虫は健康な植物を襲うのではなく、栄養バランスが崩れた植物を選んで食べている」という衝撃的な事実を指摘しています 。
参考)トロフォビオーゼ理論(Trofobiose)と害虫について
害虫が植物に群がる最大の理由は、彼らの消化能力の低さにあります。実は、多くのアブラムシやダニ、ヨトウムシなどの害虫は、複雑な構造を持つ「タンパク質」を消化・分解する酵素(プロテアーゼ)を十分にもっていません。彼らがエネルギー源として利用できるのは、タンパク質になる前の段階である「遊離アミノ酸」や「アミド」、「還元糖」といった単純な可溶性栄養分だけなのです 。
参考)https://brasilnippou.com/iminbunko/57.pdf
つまり、害虫が発生しているということは、その作物が「今、体内にアミノ酸が余っていますよ」というシグナルを出していることになります。私たちは虫を殺すことに躍起になりがちですが、本来すべきは「なぜ虫のエサ(遊離アミノ酸)が植物体内に溢れてしまったのか」という原因を取り除くことなのです。
トロフォビオーゼの状態(害虫が好む栄養過多の状態)を引き起こす最大の要因として挙げられるのが、チッソ肥料の過剰施用です。多くの農家は「肥料をたくさんやれば大きく育つ」と考えがちですが、植物の生理メカニズムにおいては、これが命取りになることがあります 。
植物が根から吸収した「硝酸態チッソ」は、体内でアンモニアに還元され、アミノ酸になり、最終的にタンパク質へと合成されます(プロテオシンテゼ)。このプロセスは工場のベルトコンベアのようなものです。
この「仕掛品」の山こそが、害虫を呼び寄せるフェロモンのような役割を果たします。特に、即効性の化学肥料を多用すると、植物は一時的に急激なチッソ過多状態に陥りやすくなります。葉の色が濃すぎる緑色(窒素過多のサイン)をしている時に限ってアブラムシが大量発生するのは、偶然ではありません。植物がメタボリック症候群のように栄養過多になり、代謝しきれないアミノ酸を抱え込んでいる証拠なのです。
参考リンク:日本植物生理学会 - トロフォビオーゼ理論と害虫の関係についてのQ&A
(※このリンクでは、無機態窒素からタンパク質への合成過程(プロテオシンテゼ)と、それが滞った際に害虫のエサとなる遊離アミノ酸が増えるメカニズムについて専門的な解説がなされています。)
トロフォビオーゼ理論の中で最も議論を呼ぶのが、「農薬が害虫を増やしている可能性がある」というパラドックスです。通常、私たちは害虫を駆除するために農薬(殺虫剤や除草剤)を散布しますが、シャブスー博士はこれが植物の生理代謝に悪影響を与え、結果として「再発生(リサージェンス)」を招くと警告しています 。
参考)スピじゃない、有機だ。——科学で解き明かす“シン・オーガニッ…
農薬は、植物にとっては「異物」であり「毒」です。農薬がかかった植物は、その毒を無害化しようとして必死にエネルギーを使います。この時、植物の体内では以下のような反応が起こります。
この「合成の停止」と「分解の促進」により、植物の体内では一時的に遊離アミノ酸の濃度が急上昇します。農薬で今いる害虫を殺したとしても、散布された作物自体は以前よりもさらに「美味しい(アミノ酸たっぷりの)」状態になってしまうのです。その結果、生き残った害虫や、外部から飛来した新たな害虫が、弱った植物を見て爆発的に増殖します。これを繰り返すことが、農薬依存(農薬の悪循環)の正体であるとトロフォビオーゼ理論は説明しています。
参考リンク:新技術「病虫害の生理的防除」の理論と実際
(※この資料では、農薬や施肥のアンバランスが植物の生理代謝を乱し、遊離アミノ酸を増加させることで病害虫を誘引するというメカニズムが詳細に記述されています。)
チッソ過剰や農薬ストレス以外に、タンパク質合成を止めてしまう大きな要因が「ミネラル不足」です。ここで言うミネラルとは、リンやカリウムといった多量要素だけでなく、マグネシウム、亜鉛、マンガン、ホウ素、銅といった微量要素を含みます 。
参考)Plant nutrition - Wikipedia
タンパク質合成の工場を動かすには、多くの「酵素」が必要です。そして、その酵素が働くためのスイッチ(補因子)となるのがミネラルです。
| ミネラル | 役割と欠乏時の影響 |
|---|---|
| カリウム (K) | アミノ酸や糖の輸送を担うトラック。不足すると工場まで材料が届かず、合成がストップします。 |
| マグネシウム (Mg) | 葉緑素の核。不足すると光合成エネルギーが足りず、窒素をタンパク質に変える力がなくなります。 |
| 亜鉛 (Zn)・マンガン (Mn) | タンパク質合成酵素の起動スイッチ。これらが欠乏すると、材料(窒素)があってもタンパク質を作れません。 |
| ホウ素 (B) | 細胞壁の形成や糖の転流に関与。不足すると生長点での合成が止まり、アブラムシの標的になります。 |
例えば、亜鉛(Zn)は植物の成長ホルモン(オーキシン)の合成や、RNAの合成に不可欠です 。亜鉛が不足すると、植物は窒素をタンパク質に変えることができず、未消化の窒素成分が体内に溜まります。この状態の作物は、人間が見ると「なんとなく元気がない」程度に見えますが、害虫の目には「栄養満点の光るターゲット」として映るのです。
参考)Trace Element Essentials
健全な土作りにおいて「ミネラルバランス」が重要視されるのは、単に栄養不足を防ぐためだけではありません。「吸い上げたチッソを完全にタンパク質化しきる」という代謝プロセスを完遂させ、害虫のエサを残さないためにミネラルが不可欠だからです 。
参考)植物の育成で重要な役割を果たすアミノ酸資材とミネラル剤の相互…
最後に、多くの解説で見落とされがちな「光合成」と「タンパク質同化」の密接な関係について掘り下げます。トロフォビオーゼを回避するためには、単にチッソを減らせばいいわけではありません。実は、「光合成の速度」を上げることこそが、究極の害虫対策になり得るのです 。
参考)植物における低マグネシウム環境での生存戦略とは
植物が吸収した硝酸態チッソをアミノ酸、そしてタンパク質へと変える(同化する)には、莫大なエネルギーが必要です。このエネルギー(ATPや還元力)は、すべて光合成によって生み出されます。
ここで重要になるのが、光合成の主役である「葉緑素」を作るマグネシウムや鉄、そして酵素活性を高めるマンガンなどの微量ミネラルです 。また、土壌中の水分管理や、葉の気孔の開閉をスムーズにすることも光合成効率に直結します。
参考)ミネラル第6回 植物と鉄
「曇天が続くと虫が増える」というのは、単に湿度の問題だけではありません。光合成不足によるエネルギー切れで、植物が体内のチッソを処理しきれなくなり(=トロフォビオーゼ状態)、害虫への防御力が低下しているという生理的なメカニズムが働いているのです。したがって、酢や糖蜜、微量要素を含んだ葉面散布を行い、物理的に光合成能力をサポートしてやることが、結果として強力な害虫防除につながります 。
参考)https://www.life-balance.shop/?pid=148267053
参考リンク:葉面散布による光合成促進と病虫害対策
(※イオン化ミネラルやフルボ酸を用いた葉面散布が、日照不足時の光合成を触媒し、過剰な硝酸態窒素の消化を助けることで病害虫抵抗性を高める効果について言及されています。)