大人が子供のような振る舞いをしてしまう「退行現象」。これは単なる「甘え」や「性格の問題」として片付けられがちですが、実はその背景には、限界を超えたストレスと、それによる深刻な脳疲労が存在していることが近年の研究で明らかになっています。
人間の脳は、理性や論理的思考を司る「前頭前野」と、本能や感情を司る「扁桃体」や「大脳辺縁系」がバランスを取り合って機能しています。通常、大人は前頭前野がしっかりと働いているため、不快なことがあっても感情をコントロールし、社会的に適切な振る舞いをすることができます。しかし、長期間にわたる過重労働や人間関係のトラブル、プレッシャーなどのストレスにさらされ続けると、脳のエネルギーが枯渇し、前頭前野の機能が著しく低下してしまいます。
この状態がいわゆる脳疲労です。理性の司令塔である前頭前野がダウンすると、今まで抑え込まれていた本能的な欲求や感情の暴走を止めることができなくなります。その結果、無意識のうちに「守られていた安全な時期(幼少期)」に戻ることで心の崩壊を防ごうとする防衛本能が働き、これが退行現象として表れるのです。つまり、退行現象は心が発する「これ以上頑張れない」という緊急停止のサインとも言えるでしょう。
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大人の退行現象には、いわゆる幼児返りに似た行動から、攻撃的な振る舞いまで、多様なパターンが存在します。これらは周囲を困惑させるだけでなく、本人自身の社会的信用を損なうリスクもありますが、本人は無意識に行っているケースが多いため、自覚しにくいのが特徴です。
1. 感情コントロールの喪失(癇癪・攻撃性)
もっとも顕著な症状の一つが、感情のブレーキが効かなくなることです。普段は温厚な人が、些細なミスや指摘に対して突然大声で怒鳴ったり、ドアを乱暴に閉めたり、物を投げたりといった行動に出ます。これは、幼児が自分の思い通りにならない時に泣き叫ぶのと全く同じメカニズムです。論理的な話し合いができなくなり、「嫌なものは嫌」という感情論でしか対話ができなくなります。
2. 責任放棄と過度な依存(赤ちゃん返り)
「自分でできること」をあえてしなくなる、あるいはできなくなるのも典型的な症状です。食事の用意や身の回りのことまでパートナーに任せきりにしたり、仕事での決断を部下や上司に丸投げしたりします。また、言葉遣いが幼くなったり、スキンシップを過剰に求めたりするケースもあります。これは「誰かに無条件で守られたい」「責任から逃れたい」という欲求の表れであり、厳しい現実社会からの逃避行動です。
3. 引きこもりと無気力(思考停止)
攻撃や依存とは逆に、外界との接触を完全に遮断するタイプもあります。休日に一日中布団から出られない、身だしなみに気を使わなくなる、問いかけに対して反応が鈍くなるといった状態です。これは脳が思考停止状態に陥り、エネルギー消費を最小限に抑えようとする冬眠のような反応です。この状態が続くと、うつ病や適応障害へと移行するリスクが高まります。
防衛機制と幼児退行について、実例とともに解説 | 参考:防衛機制としての幼児退行の具体例と無意識的な反応について
退行現象が職場や家庭で発生すると、人間関係に甚大な悪影響を及ぼします。特に問題なのは、周囲がそれを「病的なサイン」としてではなく、「性格が悪くなった」「怠けている」と捉えてしまうことで、対立が深まる点です。
職場での影響:組織崩壊のトリガー
管理職やリーダー格の人間が退行現象を起こすと、組織全体が機能不全に陥ります。上司が部下の報告に対して感情的に怒鳴り散らしたり、逆に決断を放棄して「どうでもいい」と思考停止に陥ったりすれば、部下は萎縮し、正しい報告が上がらなくなります。
また、責任転嫁も頻発します。ミスを認めずに「あいつが悪い」「環境が悪い」と子供のような言い訳を繰り返すため、業務の改善が進みません。結果として、周囲の人間もストレスを抱え、連鎖的にメンタルヘルス不調者が増える「負のスパイラル」が発生することもあります。
家庭での影響:カサンドラ症候群のリスク
家庭内、特に夫婦間での退行現象は、パートナーに強烈な負担を強います。夫や妻が突然子供のように振る舞い、家事や育児の責任を放棄し、さらには理不尽な要求を繰り返すようになれば、支える側は「大きな子供」の世話を強いられることになります。
最初は心配してケアをしていたパートナーも、終わりの見えない依存と攻撃に疲弊し、心身のバランスを崩してしまう(カサンドラ症候群のような状態)ケースも少なくありません。家庭という本来安らぐべき場所が、もっともストレスフルな戦場へと変わってしまうのです。
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ここからは、一般的な心療内科のアプローチとは少し視点を変え、自然療法や農業が持つ意外な「退行現象への癒やし効果」について解説します。
「なぜ農作業?」と思われるかもしれませんが、実は土に触れる行為や自然の中に身を置くことは、脳疲労によって暴走した扁桃体を鎮め、退行現象からの回復を促す強力なメソッドとなり得ます。これを「治療的退行」と呼ぶ専門家もいます。
1. 「意図的な退行」としての土いじり
社会生活では常に「理性的であること」「清潔であること」「効率的であること」が求められます。これが前頭前野を酷使させる原因です。一方、泥にまみれて土を耕したり、草をむしったりする農作業は、原始的な感覚を呼び覚まします。
土の感触、草の匂い、風の音といった「五感」への刺激は、酷使した言語脳(左脳)を休ませ、感覚脳(右脳)を活性化させます。安全な環境で、子供のように泥んこになって無心に作業することは、抑圧された「子供の自分」を健全に解放するガス抜き(治療的退行)の効果があるのです。
2. リズム運動によるセロトニンの活性化
クワを振る、草を抜く、収穫するといった農作業には、一定のリズムが存在します。この「リズム運動」は、脳内の神経伝達物質であるセロトニンの分泌を促進することが分かっています。セロトニンは「幸せホルモン」とも呼ばれ、自律神経を整え、不安やイライラを鎮静化する作用があります。
退行現象を起こしている脳はセロトニン不足に陥っていることが多いため、デスクワークで頭ばかり使うのではなく、体を動かしてセロトニンを増やすことが、理性を司る前頭前野の復活に直結します。
3. アテンション・レストレーション理論(ART)
環境心理学には「注意回復理論(ART)」という考え方があります。自然環境には、人間の注意力を回復させる力があるというものです。人工的な照明や騒音、情報の洪水のなかで疲弊した脳は、自然の「ゆらぎ」に触れることでリセットされます。
週末に市民農園で過ごしたり、プランターで野菜を育てたりするだけでも、植物の成長という「自分以外の時間の流れ」に身を委ねることができ、自己中心的な退行状態から、広い視野を取り戻すきっかけになります。
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退行現象は、心が発しているSOSです。無理に押さえつけたり、自分を責めたりするのではなく、適切な対処法で脳と心を休ませることが最優先です。
1. 物理的な距離を取る(タイムアウト)
イライラが爆発しそうになったり、子供っぽい態度を取りそうになったりしたら、その場から物理的に離れましょう。トイレに立つ、外の空気を吸うなどして、暴走し始めた扁桃体をクールダウンさせます。「今は正常な判断ができない」と自覚し、あえて判断を先送りすることも立派な大人の対処です。
2. 「正しい退行」の時間を確保する
無意識に退行してしまうのが問題なのであって、意識的に退行する時間を作ることは推奨されます。
このように、時間と場所を限定してガス抜きをすることで、オンとオフの切り替えがスムーズになります。
3. 専門家の力を借りる
症状が重く、仕事に行けない、日常生活に支障が出ている場合は、適応障害やうつ病の可能性があります。また、背景に幼少期の愛着障害やトラウマが隠れている場合、自力での解決は困難です。心療内科やカウンセリングを利用し、客観的な視点から自分の心の癖を理解することが、根本的な解決への近道となります。
退行現象は、誰にでも起こりうる脳の防衛反応です。恥じることなく、まずは「疲れている自分」を認め、土に触れたり、深く眠ったりして、生き物としての自分をケアすることから始めてみてください。
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