獲得形質は遺伝するか?ラマルクとエピジェネティクスの農業活用

獲得形質は遺伝しないと否定されてきましたが、近年のエピジェネティクス研究で一部の環境ストレスや記憶が次世代に伝わることが判明しました。農業に役立つ最新の知見とは?
獲得形質と農業のポイント
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ラマルクとダーウィン

かつて否定された「獲得形質の遺伝」ですが、現代科学で再評価が進んでいます。

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エピジェネティクス

DNA配列を変えずに、環境による「スイッチ」の切り替えが遺伝する仕組みです。

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農業への応用

植物の「ストレス記憶」を利用し、乾燥や塩害に強い作物を育てる技術が注目されています。

獲得形質と遺伝

農業や生物学の世界で長年議論されてきたテーマに、「獲得形質は遺伝するか」という問題があります。獲得形質とは、個体が生まれた後に環境や習慣によって身につけた身体的特徴や能力のことです。例えば、ハードトレーニングで鍛えた筋肉や、勉強して覚えた知識、あるいは過酷な環境で生き延びるために変化した植物の性質などがこれに当たります。これらが子孫に伝わるのであれば、農業における品種改良や栽培管理のアプローチは劇的に変わる可能性があります。


長らく、生物学の教科書では「獲得形質は遺伝しない」というのが定説でした。しかし、21世紀に入り、遺伝子の塩基配列が変わらなくても、遺伝子の使い方が変化し、それが親から子へ伝わる現象が確認されるようになりました。これが「エピジェネティクス(後成遺伝学)」と呼ばれる分野です。


本記事では、かつて否定されたラマルクの進化論から、現代の遺伝子研究が明らかにしたエピジェネティクスの仕組み、そしてそれが実際の農業現場でどのように役立つ可能性があるのかについて、専門的な知見を交えて詳しく解説します。特に植物が持つ「環境ストレス記憶」は、気候変動が進む現代農業において極めて重要なキーワードとなります。


獲得形質:ラマルクの進化論とダーウィンの否定

「キリンの首はなぜ長いのか?」という問いに対し、かつて二つの対立する説明が存在しました。一つはジャン=バティスト・ラマルクが提唱した「用不用説」に基づく説明です。ラマルクは、キリンの祖先が高い木の葉を食べようとして首を伸ばす努力を続け、その結果首が長くなり、その特徴(獲得形質)が子孫に遺伝したと考えました。これを「ラマルク説」と呼びます。


一方、チャールズ・ダーウィンは「自然選択説」を提唱しました。彼のアプローチは、首の長さには個体差があり、たまたま首の長い個体が生存競争に勝ち残り、子孫を残したというものです。現在の進化生物学の基礎となっているのはこのダーウィンの考え方です。


  • ラマルク説(用不用説): 個体の努力や環境への適応によって得た形質が遺伝する。
  • ダーウィン説(自然選択説): 生まれつきの変異の中で、環境に適したものが生き残る。

ラマルクの説が科学的に完全に否定されるきっかけとなったのが、19世紀末のアウグスト・ヴァイスマンによる実験です。彼はネズミの尻尾を切断し、その子供の尻尾が短くなるかを何世代にもわたって調べました。結果、何世代繰り返してもネズミの尻尾は短くなりませんでした。この実験により、「体細胞(体の一部)の変化は生殖細胞(精子や卵子)には影響を与えない」という「ヴァイスマンの障壁」という概念が確立され、獲得形質の遺伝は生物学のタブーとなったのです。


しかし、ダーウィン自身は実は獲得形質の遺伝を完全に否定していたわけではありませんでした。彼は「パンゲン説」という仮説の中で、体の各部から微小な粒子が集まって生殖細胞に情報を伝えると考えていました。現代の視点から見れば、ダーウィンもまた、環境による影響が次世代に伝わる可能性を模索していたと言えます。


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獲得形質:エピジェネティクスとDNAメチル化の仕組み

一度は否定された獲得形質の遺伝ですが、近年になって「エピジェネティクス」という分野の発展により、形を変えて「復活」しています。エピジェネティクスとは、DNAの塩基配列(A、T、G、Cの並び順)そのものを変化させずに、遺伝子の「使い方(発現)」を制御する仕組みのことです。


生物の設計図であるDNAは、すべての細胞で同じものを持っています。しかし、根の細胞は根になり、葉の細胞は葉になります。これは、細胞ごとに「どの遺伝子のスイッチをONにし、どれをOFFにするか」が厳密に制御されているからです。このスイッチの役割を果たすのが、以下のような化学修飾です。


  • DNAメチル化: DNAの特定の場所に「メチル基」というタグが付く現象です。メチル化された部分は遺伝子のスイッチが「OFF」になり、読まれなくなります。
  • ヒストン修飾: DNAは「ヒストン」というタンパク質に巻き付いて収納されています。このヒストンが化学的に修飾されると、巻き付き方が緩んだりきつくなったりします。緩めば遺伝子が読み取られやすくなり(ON)、きつく締まれば読み取られなくなります(OFF)。

重要なのは、これらの化学的なタグ付け(修飾)が、環境ストレスや栄養状態によって変化し、さらにその一部が細胞分裂を経て、あるいは世代を超えて受け継がれることがわかってきた点です。


例えば、親世代が飢餓状態を経験した場合、その子供や孫の世代において、代謝に関連する遺伝子のスイッチが変化し、肥満になりやすくなったり、糖尿病のリスクが変わったりすることが報告されています。これはDNAの配列が変わった(突然変異した)わけではなく、「環境に適応するためにスイッチの設定を変更した」という獲得形質が、エピジェネティックな記憶として遺伝した例と言えます。


このメカニズムは、従来の「突然変異と自然選択」だけでは説明がつかない、急速な環境適応を可能にする生物の生存戦略の一つと考えられています。


世代を超えるエピゲノム〜生殖細胞による獲得形質の遺伝を再考する(実験医学別冊)
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獲得形質:農業における環境ストレス記憶とプライミング

農業分野において、このエピジェネティクスの知見は「プライミング(初期化、あるいは準備)」という技術として応用が期待されています。植物は一度経験したストレス(乾燥、高温、塩害、病原菌など)を記憶し、次に同じストレスが来たときに素早く、強く反応できるように防御システムを活性化させる能力を持っています。これを「ストレス記憶」と呼びます。


これまで、この記憶は一代限りでリセットされると考えられていました。しかし、近年の研究により、特定のストレス記憶は種子を通じて次世代にも継承されることが明らかになっています。


  • 乾燥耐性の向上: 親植物を適度な乾燥ストレスにさらすと、その種子から育った次世代の植物は、最初から乾燥に対する防御遺伝子のスイッチが入りやすい状態になっており、枯れにくくなる現象が報告されています。
  • 病害抵抗性: 病原菌の攻撃を受けた親植物から採種した種子は、発芽後の早い段階から防御関連のホルモン(サリチル酸やジャスモン酸など)の合成能力が高まっていることがあります。

この現象を農業に応用すれば、遺伝子組み換えのような大掛かりな技術を使わずに、親世代の栽培環境をコントロールするだけで、環境変動に強い種子を作れる可能性があります。これを「エピジェネティック育種」と呼ぶ研究者もいます。


例えば、育種過程で意図的に塩分濃度の高い土壌で栽培し、生き残った個体を選抜するだけでなく、その「塩分への対応力」をエピジェネティックに記憶した種子を採ることで、塩害地でも育つ作物を短期間で作出できるかもしれません。従来の品種改良がDNAの「ハードウェア」の変更だとすれば、これはDNAの「ソフトウェア(設定)」の最適化と言えるでしょう。


ストレス耐性は親から子へ継承される - エピジェネティック情報の組織間伝達(理化学研究所)
参考)ストレス耐性は親から子へ継承される

獲得形質:最新実験が示す植物の世代を超えた耐性

植物における獲得形質の遺伝に関する最新の実験データを具体的に見てみましょう。理化学研究所や大学の研究チームが行った実験では、シロイヌナズナ(植物研究のモデル生物)を用いて、獲得形質の遺伝メカニズムが詳細に解析されています。


ある研究では、高温ストレスを与えた親株から得られた次世代の個体において、高温耐性に関わる遺伝子の発現が抑制されず、スムーズに機能することが確認されました。通常、植物にはトランスポゾン(動く遺伝子)という、ゲノム内を移動して悪さをする可能性のある配列があり、これを抑え込むためにDNAメチル化が働いています。環境ストレスを受けると、一時的にこの抑制が緩み、遺伝子の発現パターンが変化します。


興味深いのは、この変化の一部が受精のプロセスを経ても消去されず(リプログラミングを回避し)、次世代に持ち越されることです。特に植物は動物と異なり、生殖細胞(花粉や卵細胞)が分化するまでの期間が長く、体細胞で起きたエピジェネティックな変化が生殖細胞に取り込まれやすいという特性があります。


また、最近の研究では「小分子RNA(sRNA)」の役割も注目されています。小分子RNAは、細胞内で特定の遺伝子の働きを阻害したり促進したりする調整役ですが、これが親から子へ移動し、次世代のDNAメチル化パターンを誘導するガイド役を果たしている可能性が示唆されています。


これらの実験結果は、農業現場での「種採り(自家採種)」の重要性を再認識させるものでもあります。その土地固有の厳しい環境で育ち、生き残った作物の種を採り続けることは、単なる遺伝的選抜だけでなく、その土地の環境に適応したエピジェネティックな「記憶」を受け継ぐ行為でもあるのです。


エピジェネティック変異を利用した世界初の画期的植物育種法(JST)
参考)https://shingi.jst.go.jp/pdf/2021/2021_3tokai_4.pdf

獲得形質:ルイセンコの悲劇と現代農業への教訓

最後に、獲得形質の遺伝を語る上で避けて通れない、農業史上最大の悲劇と言われる「ルイセンコ論争」について触れておく必要があります。これは独自視点として、現代の私たちが科学技術とどう向き合うべきかという教訓を含んでいます。


1930年代から60年代にかけて、ソビエト連邦の農業技師トロフィム・ルイセンコは、「環境を変えれば作物の性質は変わり、それは遺伝する」と強く主張しました。彼は、秋まき小麦の種子を低温処理(春化処理)して春にまくと収穫できるという「ヤロビザーション」技術を拡大解釈し、遺伝学(メンデル遺伝や染色体の存在)を「ブルジョワ科学」として徹底的に否定しました。


当時のスターリン政権は、努力すれば報われるという共産主義的イデオロギーに合致するルイセンコの説を政治的に支持しました。その結果、まともな遺伝学者は追放・処刑され、ソ連の生物学は30年以上遅れることになりました。ルイセンコの農法は科学的根拠に乏しく、過密植栽などの無理な指導も重なり、結果として深刻な食糧不足と飢饉を招いた一因とも言われています。


  • ルイセンコの誤り: 獲得形質の遺伝を「絶対的な法則」とし、遺伝子の存在を否定したこと。再現性のない実験データを真実としたこと。
  • 現代の視点: エピジェネティクスはあくまで「遺伝子の補助的な制御」であり、メンデル遺伝学を否定するものではありません。獲得形質の遺伝は「条件付きで、一部の形質において起こる」現象です。

現代の農業においても、「波動」や「特殊な水」などで植物の性質が劇的に変わると謳う怪しい資材が存在します。エピジェネティクスという言葉が、こうした非科学的な商品の宣伝文句に使われるケースも増えています。しかし、ルイセンコの教訓は、「政治や願望で科学を歪めてはならない」ということです。


農業従事者がエピジェネティクスを活用する際は、それが科学的に検証されたメカニズム(DNAメチル化やプライミング効果)に基づくものなのか、それとも単なる精神論やルイセンコ的な疑似科学なのかを見極める目が不可欠です。獲得形質の遺伝は確かに存在しますが、それは魔法ではなく、厳密な分子メカニズムの上で成り立っている生命の巧妙な生存戦略なのです。


ルイセンコ論争 - 獲得形質の遺伝を巡る科学と政治の歴史(Wikipedia)
参考)ルイセンコ論争 - Wikipedia

ルイセンコの悲劇 - 大阪府医師会
参考)https://www.osaka.med.or.jp/doctor/doctor-news-detail?no=20190227-2884-4amp;dir=2018